
5月に入ってから、私の運転する電車にもう既に友人・幼馴染・先輩・後輩・恩師・元上司・元部下・登山仲間・鉄ヲタ仲間・カヌー仲間などが次々に私の電車に乗りに来てくれて、その数15人。。
土日祝日は毎日誰か知人が運転台の後ろから覗いている状況です。(≧▽≦)
それにしてもわざわざ遠くから大金と時間と労力を費やして私に会いに来てくれるなんて、本当に、感謝と同時に人生の中で、一番の幸せを感じています。
さて、そんな風にわざわざ来てくださった方々が私に必ず質問されるのは。
「なぜ順風満帆だっただ大会社での国家資格取得の教師を辞めて、年収も全盛期の1/3以下まで下がり、契約社員でボーナスすら無いのにわざわざ片道2時間もかけて通勤して運転士をしにいくのか。」という疑問。。
皆様、私のブログを愛読してくださっていることもあり
「そのうちブログに挙げます」
と回答していましたが、今日、その理由を書きますね。(´艸`*)
時代は遡り、昭和39年(1964年)
私は、生まれた時から今は無き南海平野線の西平野電停付近で、父と母と私の3人で暮らしていました。
母親は体が弱かったため、子供は私1人産んだだけで、その後は流産。。
その当時としては非常に珍しい「1人っ子」という環境で育ちました。
母親は近鉄百貨店の友の会会員と父親が近鉄の株主ということで優待があり、毎日毎日、母親に連れられてお買い物は西平野電停からこんなチンチン電車に乗って近鉄百貨店のデパ地下に行くのが日課でした。(´艸`*)
往路は顔見知りの運転士さんの横に陣取り、汽笛ペタルの横にある「チンチンチン」と鳴るゴングペタルを踏ませてもらい、発車の際に「チンチン」と鳴らさせてもらいました。
復路は肉声放送をする顔見知りの車掌さんの横に立ち、「次はあべの~あべの斎場前~」「恵美須町方面のりかえ~」なんて放送をさせてもらっていました。
周囲の大人の人たちはみんなおおらかな表情でそんな私を見守ってくれた古き良き時代でした。(´艸`*)
今から思えば、これが私と鉄道との深いご縁の始まりです。
そして4歳の頃に国鉄鶴ヶ丘駅と南海帝塚山駅、地下鉄西田辺駅からそれぞれ徒歩15分というところに引っ越し。。。
そこで悲劇が起きます。。
私が7歳で小2になった直後、父親が肺の難病で入院。
そしてそれから1か月後になんと母親も自宅で倒れて救急車で運ばれ入院。。
母親が倒れた日はちょうど授業参観の日で、母親が来ないのを不審に思っていると、近所の幼馴染の女の子のお母さんが、「お母さん救急車で病院に運ばれたよ。」と言って私を連れて帰ってくれて、その後間もなく兵庫県に住む伯母が私を引き取りに迎えに来てくれました。
その翌日からは兵庫県の伯母の家から、西田辺にある小学校まで、1時間半かけて電車通学する羽目に。。。
往路は 東海道本線→大阪駅乗り換え→地下鉄西田辺→小学校
復路は小学校→そろばん塾→自宅→鶴ヶ丘駅→天王寺の母親が入院する病院→大阪環状線→東海道本線
・・・・といった感じで、いささか小2には少しきつい通学コースでした。
しかし、そんな生活の中で、この阪和線の電車が未だ旧型国電全盛の時代であり、様々な形をした電車に乗れるので、それが嬉しくて、今日はどんな電車が来るのかなと楽しみでした。(´艸`*)
殊更、普段は区間快速に使われる70系や・・・
新快速に使われる113系ブルーライナー
快速に使われるレッドライナーが時たま「普通電車」として来た日には嬉しくて飛び上がったものでした。(´艸`*)
103系も東京・山手線から転属してきて、車内の路線図が東京近郊区のまま放置されていた緑色や。。
阪和線生え抜きのブルーが居ました。(´艸`*)
もうこの頃から既に鉄ヲタ化していました。(*'ω'*)
さて、それはさておき、私と入院中の母親との間には母親が教育熱心だったこともあり、相互に決められたあるルールが存在しました。
それは、この阪和線の電車の中で、母親の病院に向かう途中
①今日、学校であった事柄のなかで自分が良くできた事。
②できなかったことや、学校の先生に叱られたことなどの課題点
③明日からどうするか
を母親に報告できるよう、纏めておく
・・・・というものでした。。
小2で7歳という年頃はまだまだ母親に甘えたい頃でしたので、今日は母親に会ったら何からお話をしようかと考えたものでした。
同時に、報告が終わると、母親の胸に飛び込んで思いっきり甘えられる。。
阪和線の電車の中では早く母親に会いたいという気分が高揚し、加速していくモーター音を聞きながら心が弾み、不便な電車通学生活の中で一番安らげるひと時でもありました。。。。
そして、阿部野橋を渡り、母親の元へ。。
自分自身の今日の出来事の報告を終え、ひととおりベッドで横たわる母親の胸の中で甘えさせてもらった後は、
母親が自分の余命が1年ほどであることを悟っていたので常に自分が死んだ時の心構えや、生活、片親の子供に対する世間の偏見などについて、口うるさいほど言い聞かせられました。。
そして母親の予言通り、昭和49年(1974年)6月、母親は他界。。
私が小4で9歳の初夏でした。
以後、叔母の家から自宅に戻り、結婚するまで父親との2人生活が始まる訳ですが・・・
私の心の中にはポッカリと穴が。。。
電車ロス。。。(ノД`)・゜・。
それまで、電車の中が、自分自身、唯一安らげる空間であったのに、それが無くなると、生活にどことなくにぎこちなさが出てしまい。。。
逃げ場が無くなってしまった感じが・・・・
そこからたびたび「乗り鉄」の旅に出るようになってしまいました。。。
そして、61歳になり、人生も最終ラウンド。。。
やっぱ、電車に乗る仕事に戻ることにしました。(´艸`*)
せめて最後の仕事は大好きで居心地の良い電車に乗り、
何の苦も無く仕事をしながら。。。
このまま老いぼれていつかは死に。。。
あちらの世界で、また母親に会って、母親とお別れしたとき以降の人生の一部始終を語れたらなと思っている次第です。(´艸`*)
まあ、妻には自分が好き勝手なことして、給料は下がるわ、ボーナスは無いわ、
2拠点生活になるわで
ごめんなさいと唯々、謝るしかないのですが。(´・_・`)