思えば車関連のブログなのに、車遍歴の記載がブログを始めて以来、11年間も抜けていました。。(=゚ω゚)ノ
さてさて、先ず最初は車では無いですが、初めて乗ったエンジン付き車両のお話から。。。
時は1981年・・
私が高校2年生16歳の時・・・
当時はもちろんスマホも携帯電話もパソコンも無い頃で、高校生男児の興味は、専ら気になる女の子の事と「バイク」のほぼ一択でした。
バイクの免許は先ず16歳に「原付」を取得することが必須で、ほぼ全員が取得し、半数近くが親を口説いて実際に原付バイクを手に入れていました。。
当時の原付バイクと言えば、いわゆる「スクーター」と呼ばれる形式のものは「パッソル」&「パッソーラ」しかなく、ほとんどが5段変速付きの「オートバイ」スタイルで、スズキさんのRG50やホンダさんのCB50、カワサキさんのZ50が主流でした。
そこへヤマハさんのRZ50が登場し、最速50ccとして人気を博していました。。
①CB50S(1981年11月~1982年4月の間使用)(16歳の時)
さて、そんな状況の中、父親におねだりして買ってもらったのが、御覧のCB50Sです。(^^♪
父親も昔はハーレーや陸王に乗るバイク好きでしたので、私がバイクを買うとなると、嬉しそうに何らお咎め無しに買ってくれました。
同級生が母親の反対に遭って購入出来ない状況の中、私の母親は既に他界していましたのでその辺は全く問題は有りませんでした。
本来はご覧の黒色が欲しかったのですが、人気車で在庫が無く、兎に角早く欲しいの一点張りでしたので、在庫の有る白色で我慢しました。。
CB50はこの頃の他社の50ccバイクが臭い排ガス煙をモクモクと出す2ストロークエンジンだったのに対し、ほぼ唯一4ストロークエンジンを用い、ツーリングなどで排ガス臭がしないなどの利点が有り、オイル補給も不要で燃費も良いため、購入に至りました。
実燃費は大阪市内の街乗りで約50km/L、ツーリング時には約85km/Lをマークする優れモノでした。
こ単車で四国1周や紀伊半島1周を楽しみ、私が俊敏なミッションシフト操作が得意となるきっかけを作ってくれました。(^^♪
②CB400スーパーフォーク(1982年4月~1982年8月の間使用)(17歳の時)
さてさて、CB50に乗っていた私ですが、父親から「そんなおもちゃみたいなバイクなんかに乗らずに男なら400cc以上に乗らなカッコ悪いぞ」と提案を貰い、CB系に乗っていた流れで御覧のCB400スーパーフォークを購入する運びとなりました。
バイト代金をつぎ込むことも一切なく、父親の出資で購入出来た点は当時の同級生男児からは本当に羨ましがられました。
中型バイクを購入すると、みんな気に入った女の子を後ろに乗せていましたが、父親からは「それは絶対にするな、転倒して大怪我させたら責任取らなあかんぞ」と言われていたので、自分への戒めの念も込めて、シートを1人乗り用に改造して対応していました。
(のちに父親から「2人乗りでけへんやんけ~」と怒られましたが・・(^^♪)
しかし、このバイク、購入後暫くは学校へは乗っていきませんでしたが、夏休みのクラブ活動に「まあ少しならいいか」と地下鉄の駅まで乗って行ったのが最後、補導員に見つかり、敢え無く補導されてしまいました。。
当時の大阪市では強烈なバイクの「3ない運動」=「免許を取らせない」「単車を買わせない」「単車を運転させない」が展開されており、捕まると無条件で免許返納&単車の押収→売却の上、3日間の停学処分となりました。
かくして私のCB400スーパーフォークは僅か4ヵ月弱乗っただけで父親にも引き取らせてもらえず売却され、中型免許も門真免許センターへ抹消しに行きました。
当時は高校3年生という大事な時期で、良い成績を貰わないといけないので、素直に制度に従いました。(´Д`)
結局、この単車では白浜温泉ツーリングに出掛けただけとなりました。
③ダイハツ フェローマックス・ハイカスタム(1976年に父御が購入)
(1982年11月~1983年7月の間使用)(18歳の時)
さて、そんな父親が、「バイクがアカンねんやったらもう諦めて車に乗れ!」と、私にくれたのが御覧のフェローマックス・ハイカスタムでした。。
この車は、スカイラインGTを乗り継いでいた父親が、ダイハツさんから4ストローク550ccエンジンの軽四輪が出たという事で、セカンドカーとして購入したものです。 それまでの軽四輪はみな360ccの2ストロークエンジンでしたので、父親も相当な新しいもの好きという事になります。
この車、当時としては大変珍しく4ドア乗用車ナンバー(当時の軽は殆ど貨物ナンバー)でしかも贅沢とされたメタリック塗装。
今では考えられませんが、エアコンは積んでいない為、車体は軽く良く走り、燃費も今では考えられない20km/Lを記録した優れものでした。
しかし反面、夏場は猛暑で汗を流しながら乗りました。
単車ではなく四輪になりましたので、当時付き合っていた彼女も載せましたが、夏のデートは地獄絵巻でした。(=゚ω゚)ノ
しかし、この車も私に乗られるようになってからは短命でした。
当時、若者の間では「ディスコ」というものが大流行していて、18歳の初夏に、同級生と大阪のデスコは行き尽くしたので、一度東京のマハラジャへ行ってみようということになり、土曜日の昼から出発。。
日曜日の朝まで踊り、そのまま大阪へ帰ってくる際、「大阪までノンストップで走ったら最高何時間で帰って来れるかな」という話になり、名神吹田料金所まで100km/hでアクセル踏みっぱなしにしたところ、クラッチが切れなくなりエンジン回転が落ちず、エンジンルームから出火。。
料金所の人に消火器で消化してもらうと言う事故を惹起させてしまい、敢え無くレッカー移動の上、廃車となってしまいました。
因みに東京~大阪間をノンストップ6時間で走破しました。(=゚ω゚)ノ
若さでエネルギーが有り余っていたとはいえ、絶対にやってはならない事でした。。
④トヨタ スプリンター1600cc セダン
(1983年7月~1984年4月の間使用)(19歳の時)
上述のフェローマックスのエンジン焼損事故は父親に大変叱られましたが、自由に使える車失い、意気消沈している私になぜか御覧の様なスプリンター1600ccセダンの中古車を「これがワシからの最後の贈り物や、後は自分で車買えや!」といいながら突然プレゼントしてくれました。(^^♪
なぜスプリンターだったのかは父が他界したので今となっては不明です。
当時は彼女を乗せて夜の高速道路を走り、六甲山の夜景を観に行くことが最高なデートコースでしたので、車屋の後を継いだ友人の店に持ち込み、早速この車のエンジンを1600cc→2000ccにボアアップ、さらにサスペンションはカヤバにしえ強化し、車高も少しローダウンして峠仕様に改造しました。。
今から思えばこの車に乗っていた頃が車弄りの最盛期となりました。
スプリンターは猫の目の様なテールランプが特徴的でした。(^^♪
フロントはセミの様な顔で、お世辞にもカッコいいとは言えませんでした。
(ノД`)・゜・。
カーステレオも壊れていたので、当時、最高級だったオンキョーのラジカセを流用。。
スピーカーもオンキョーのものを車用に改造し、無理矢理8個も取り付けていました。。
しかし、そんな中、友人たちが次々と新車を買いだし、私も新車たるものが欲しくなってきました。。
⑤トヨタ ソアラ2800GT (1984年4月~1987年7月の間使用)
(20歳~23歳の時)
そんな私を釘付けにしたのがこのソアラという車でした。。
当時はレパードやプレリュードなど、2ドアクーペがもてはやされる時代。。
私も例外となく2ドアクーペにあこがれていました。
特に今まで見たことが無いくらいクリアーなスーパーホワイト塗装は目を引き、買うならこいつだと直感し、手持ちの貯金全額(150万円)と残り150万円を3年払いのローンにて自分の資金で初めて車を購入した記念すべき車でした。
キャッチコピーの「誰よりも速く、誰よりも快適に」は正に私のイメージする車がその文字の通りだと痛感させられました。
リア側窓のクオーターサンシェードが上品さを演出していて、正にこの車こそが、スポーツカーとラグジュアリーカーの「あいの子(今では死語ですかね)」という今までの車には無かった存在だという事に気が付きました
ソアラは2000ccの廉価タイプも用意されましたが、エンジンに妥協は許せず、2800GTの一択にしました。
2800ccともなると税金面では当時の3ナンバーに該当し、5ナンバーの2倍以上の84,000円ほどの支払いとなりましたが、敢えてその道を選びました。
平素はとても静かなエンジンですが、ひとたびアクセルを踏み込むと、獰猛な排気音がして、夢の様に一気に加速していきました。。
この加速力は私が今まで乗った車の中で、実は2番目の加速力となりました。
特に後ろから見ると、狼な獰猛エンジンを持つくせにクラウン等と見間違えるくらいの落ち着いたセダンタイプに見えるところが素敵でした。
そして何よりもこのデジタルスピードメーターとデジタルタコメーターも斬新で、さらにエアコンSWもピアノ釦SWではなく、画面タッチ式のものになっている点にもひきつけられてしまいました。
またそこらじゅうに飾られた「ソアラ」のシンボルマーク・「空飛ぶライオン」のマークもいかにもで素敵に思えました。
シートも当時のクラウンよりも豪華でどっしりとした造りで、今までに座ったどの車のシートよりも乗り心地の良いものでした。。
若造には似合わないシートでしたが、まさに「スーパーグランツーリスモ」という新ジャンルの車を標榜するキャッチフレーズにピッタリな内装でした。
私がこの車を購入してから1年くらいでとても人気が上昇し、同級生や後輩の女の子からよくドライブに連れて行ってよと声を掛けられ、六甲山にドライブデートした良い思い出が残りますが、今から思えば、バブル当時に流行した単に「アッシー君」だったのではないかと思う次第です。
さてこの車の終焉ですが、当時は父親もこの車を気に入り、広島や東京出張に乗っていくことが有り、3年間で走行距離が96,000kmを越えました。
そんな状況の中、エンジンからのオイル漏れが起こり、そのオイルがラジエーターホースに穴を開け、エンジンがオーバーヒートするという故障が発生。。
当時はウインドサーフィンの趣味が本格化していたので、荷物を積載できる車が欲しかったのと、折からのソアラ人気で故障車でも買い替えなら150万円+α(新車値引き)で引き取ってくれるとのことでしたので、修理代金の30万円を使うよりもそちらの方が賢明だと思い、その機会にトヨタさんのディーラーに下取り売却するに至りました。
ソアラは全国的に見ても人気が有ったのか、今でもこの車に関しては過去を振り返る本が出版されることが良くあります。。
そのたびに、過去を懐かしみながらついつい購入してしまっています。
(あとにも先にも時代の最先端車に乗ったのはこれが最初で最後ですが・・)