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惰眠のブログ一覧

2006年08月18日 イイね!

D.キーン『昨日の戦地から』

D.キーン『昨日の戦地から』最近ちょっと宗旨替えをして、これまで忌避してきたネット通販を時々利用している。本屋で注文して届くのを待ち、再度店を訪れる手間を厭うからなのだが、amazonの宅配は実にありがたい。今回は、日本の古典文学研究者としても名高いドナルド・キーンの本を買った。『昨日の戦地から―米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア』という、中央公論新社から最近刊行された書籍である。

 手元に届いてからまだ日が浅いので現時点では読みかけなのだけれども、キーンを初めとする日本語に堪能な若いインテリたちが占領統治下の日本(や、敗戦まで日本の勢力圏だった地域)で見聞してきた事柄が書簡としてしたためられている。

 非常に興味深い内容である。であると同時に、どんよりと気持ちが重くなってくる。なぜならば、61年前の大体今ぐらいの時期、キーンらが指摘したダメな部分が今の今に至るまで改まりもせずに残っていることを感じずにいられないからだ。

 キーンら青年将校の記録では、敗戦直後、東条英機は庶民の間で極めて不人気だったとなっている。いわく無能ゆえに日本全土を焦土と成す戦争を指導し、あまつさえ占領当局に逮捕されそうになるとサムライにあるまじきことに短銃自殺を図りこれに失敗、誠に持って見苦しい、恥を知れというものだ。
 このことを日本に詳しい通訳将校たちは苦々しく思っている。戦争のはじめのころ、彼の内閣を熱烈に支持した自分たちのことを、日本の庶民はまったく埒外においている。戦争責任は、登場に被せて済むというものではない。自分自身の問題として受け止めるようになれなければ明日への進歩はない、と。

 最近田原総一郎などは、明治はデモクラシーの時代だっただの戦前日本は暗黒時代じゃなかっただのと本を書いてぶち上げているが、その論に乗って言えば日華事変から太平洋戦争大敗北までの道程、国を滅ぼした責めは(一億総懺悔的な十把一絡げな「逃避」ではなく)日本の国に生まれ育った全ての個人が、己の負うべき責めと理解し向き合わねばならぬと言うことでもある。
 「あの頃は別に悪くなかったんだ」、「だから戦前回帰の志向は間違いじゃないんだ」的な結論を引き出すのは、大間違いだ。
 それは既に、米英を筆頭とする国際社会から断罪され「更生しろ」と指弾されたありようなのである。



 その当日には敢えて記事を起こさなかったが、現職の内閣総理大臣の靖国神社参拝についても、この際触れておこうと思う。
 大阪高裁が憲法違反であると判断した違法行為を、堂々と「再犯」する遵法意識の低さに不愉快さを禁じえない。

 今更言うまでもないことだが、日本は三権分立の体制をとっており、立法・司法・行政はそれぞれ独立であるとともに同格である。ゆえに司法の判断を、行政や立法は無視してはならない。
 中韓が難癖をつけるのなんのと内閣総理大臣閣下は問題の論点ずらしや矮小化に必死だが、これはそんな話ではない。行政府の長が、司法の判断を蹂躙したという点において、日本の政治システムのありよう自体に対する重大な挑戦なのである。

 ダラダラ書き綴っても詮無いが、これだけは記録しておかないといけない。
 14日の記事で僕は、ゲーリングの「国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです」との言葉を引用した。
 いま、永田町や平河町の一部は、しきりにこの調子のプロパガンダを打っている。北朝鮮に狙われている、中国は脅威だ、韓国は反日的である、ロシアは約束を守らない……。そうして「脅威を未然に取り除くためには敵基地を先制攻撃することも検討課題としなければならない」。

 分かり易すぎてうんざりなのだが、こうした言葉の背景にあるのは、要するに『もう一度日本に正規の国軍を、できれば核武装した正規軍を置きたい』という意識だ。正直なところ、僕は個人的に非武装中立論など実現不可能な絵空事であると思うし、仮想敵国などと言う安易なオブジェクトを設定せずとも現実に軍事的脅威にさらされる可能性がある以上、そのカウンター・メジャーとして軍事力を保持しておくのは寧ろ当然であるとさえ考えている。

 しかしこれは、正面切ってその必要性を議論するべき事柄であり、いじめられっ子がナイフをポケットに忍ばせるように「やられるのが怖いから持ち歩く」なんて臆病な理屈の果てに実現するようなものでは断じてない。
 それ以前に、「あいつらがおっかないから」論を裏打ちするための挑発策だか知らぬが、靖国神社が主張する先の大戦観や極東軍事裁判についての評価を日本の政治が肯定ないしは容認しているとのサインを出すことは、中韓や東南アジア諸国との間でハレーションを起こすだけでは済まない大問題につながる可能性を内包していることをきちんと踏まえないといけない。

 第二次大戦における日本の振舞いを正当化するということは即ち「ファシズムとの戦い」を行いこれを打ち破ったとする連合国側(=現国際連合)のロジックに真っ向対立するのと同義なのだ。
 いま合衆国は靖国の問題を「日本の国内問題」として静観してくれてはいるが、その一方で大統領専用機にまで乗せてやった人物に議会演説はさせないという外交上のサインを送ってもいる。
 「先の戦争で日本は正しかった」との主張は、逆返しで言えば「アメリカを初めとする連合国が間違っていた」と宣言するのと同じ意味を持つ。先の大戦後の国際秩序をスタート地点から否定する。

 靖国神社と言う、明治時代に設置された「神社の形をした政治装置」の存在を、昭和の大戦を経たいま肯定するということは、心情的な事柄とは別に、そうした要素――対米政策にも関わる国益上の問題点――も併せ持っている。この点に目をつぶる、或いは気づかぬ振りをするとすれば許しがたい欺瞞であるし、それこそ亡国の徒の誹りを免れ得まい。

 否、詭弁と開き直りで立法府たる議会を蔑ろにし、理解できぬからとの理由で司法の判断を無視した行政の長は、すでにれっきとした亡国の徒である。
Posted at 2006/08/18 12:26:56 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2006年08月17日 イイね!

丸けりゃいいのかっ(笑)!

丸けりゃいいのかっ(笑)!太陽系の惑星数を現状の9つから12に増やさないか?……そんな提案が16日からチェコのプラハで開かれている国際天文学連合の総会で提案されたと報じられている。

 カール・セーガンの『コスモス』に激しく影響された元天文ファンとしちゃ放っておけない話題である。冥王星を『惑星』のカテゴリーから外して8つに減ると言うのならば、実はまだ理解のできる話ではあったのだが、まさか増やすとは……。

 と言うのも、セーガンの『コスモス』の頃からそうであったのだが、冥王星はその誕生の由来からして他の8つの惑星とは異なる天体らしい、科学的な分類として『惑星』にカテゴライズすることが果たして正しいことなのかとの議論があったからである。実際、「スペック表」を見ても冥王星は他の8つと極端に違っている。
 今ではどうやら、歴史的・文化的事情に鑑みて冥王星は惑星として取り扱うものの、科学の見地からは「惑星ではない」ということになっているようだ。

 プラハの総会で新たに惑星に加えませんかと提案されているのは、火星と木星の間に存在する小惑星帯にある「セレス」、従来は冥王星の衛星とされていた「カロン」、03年にアメリカの天文学者ブラウン博士らが発見した内エッジワース・カイパーベルト天体の「2003UB313」の3つだという。
 そしてこれらを『惑星』に分類するために、その定義として①自己の重力で球形を維持できること②恒星の周囲を公転し、恒星や他の惑星の衛星ではないもの……との基準が提案されている由。
なんだよ、丸けりゃいいのかよ(笑)。

 確かに自己の重力で球形を維持するとなれば、その組成にも拠るが一定以上の質量が必要となるわけで、それはそれで一つの閾値となりうる。けどさぁ地球の月よりも小さい天体――冥王星もそうなんだが――が、「太陽の周りを回ってて丸い」からって惑星扱いしちゃうのは、随分と大安売りじゃないのかねぇ。
 しかもこの分類法を用いた場合、さらに12個の天体が『惑星』に含めうるというのだから……。占星術師の迷惑も考えてやらないとイカンでしょ。いやまあ、数多の占星術師が今まで外してばっかりだった口実にできて好都合なのかもしれないけど。

 やっぱり、せめて『冥王星より大きいこと』も条件にしとかないと後々収拾がつかなくなるんじゃないのかなあ。どこかで誰かが書いていたが『準惑星』って新カテゴリーを作るほうが、よほどスッキリするような気がする。
Posted at 2006/08/17 13:58:33 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2006年08月10日 イイね!

名実ともに一等賞

名実ともに一等賞初代のセルシオが日本市場に投入された当時、Car Sensor誌でコラムを連載していたタレントの所ジョージは次のようなことを書いていた。
『クラウンは、長い時間をかけてみんなから認められて銀メダルを貰った車。ところがセルシオは、自分で作った金メダルを首からかけて一等賞だっていっているような感じがする』と。気に食わないぜというわけだ。

 なるほど上手いことを言うもんだと感心したせいで17年くらい経った今でもそのフレーズを何となく覚えているのだが、プランニング先行で高級ブランドを立ち上げるときには、多かれ少なかれ自分で金メダルを拵えるような演出が必要なのかもしれない。

 そんなエピソードを思い出したのは、今朝の新聞記事に『サントリーの「山崎18年」が英国で開催された国際品評会でウィスキー部門の一等賞になった』と書かれていたからだ。
 サントリー白州醸造所の見学ツアー用バスの車内に、世界5大ウィスキーとして「スコッチ、バーボン、アイリッシュ、カナディアン」に続いて「ジャパニーズ」と記されているのを見て自画自賛やなぁと呆れた記憶がよみがえったわけだ。

 ウィスキー部門からは、実は本家本元のスコッチが除外されているという事情は差し引くとしても、これは快挙だ。自分でこさえたメダルを首から提げて「5大ウィスキーの一角でござい」と宣言するのではなく、みんなが金メダルと認めたのだ。胸を張って一等賞と名乗りを上げられる。

 ただちょっと、素直に良かったと言えない気分が僕にはある。見ようによってはまるで今回の受賞を予定していたとも取れるような動きが、あるやに聞いたからである。
 こうやって穿った見方をしてしまうのは、この前のボクシング騒動の影響かもしれない。だとすると、例のボクシング関係者にひとこと言いたいぞ。素直で純真だった僕の心を返せ!(笑)。
もともと、物事を素直に額面どおり受け取るタイプじゃないんだけど。
Posted at 2006/08/10 12:45:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2006年07月13日 イイね!

映画「リベリオン」

映画「リベリオン」帰宅してテレビのチャンネルを回していたら「このあと映画『リベリオン』」という番宣が目に留まった。ロード・ショーを見たSF読みの精神科医、風野春樹氏が日記で結構高評価を与えていたので、機会があれば見てみたいなぁと思っていた映画なので、ありがたく渡りに船を決め込んだ。

 ストーリーは陳腐……と言うか、1932年にオルダス・ハックスリーが著した「素晴らしい新世界」にレイ・ブラッドベリの「華氏451度」をミックスしたような按配で、それこそ70年以上も昔から扱われてきたもので新奇性はない。もしかしたらオーウェルの『1984』も混じってるかな。
 ただしこれら古典SF小説のように、意味合いやメッセージを込めてディストピアを描いているわけでは、恐らくない。

 しかしいきなり驚いたのは、きちんと演劇技術を持った役者が演じていること。この手のB級SFではあまり考えられないことだと思う。あと、ドクター風野も書いていることだけれども『静謐』の映像描写がいい。廃教会のステンドグラスの前で、ひとりイェイツの詩集を読む男……。

 いわゆる低予算B級SF映画の場合、出演している役者はロール(役割)を果たすための存在でしかなく、キャラクター(人格)を描くということは少ないように思う。
 「ヒーロー」という類型的な役割をあてがわれた登場人物Aが、紆余曲折の末に…という筋立てこそが主であって、そのヒーローAはペリー・ローダンだろうがカーティス・ニュートンだろうが、はたまたフィリップ・マーロゥだろうが、誰だって構わないというように。
 その登場人物Aを、ハリソン・フォード演ずるリック・デッカードとし、脇に怪優ルトガー・ハウアーを配した『ブレードランナー』が、舞台設定などのガジェットだけが一部マニア限定で高評価を得るようなことにならなかったのは、きちんとキャラクターを描いていたから(普遍的な鑑賞に耐えられる作品になっていたから)ではないかと言う気がする。(内容はもはやフィリップK.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』とは別物だったが)

 とは言え、『リベリオン』の全体的な画ヅラはかなり既視感がある。80年代のミュージック・クリップ、YESのOwner Of A Lonely Heart(邦題「ロンリー・ハート」)を随分と想起させられた。或いは、この映画を撮った監督なりが意図してやったことなのかもしれないが。

 但し殺陣はお見事というに尽きる。ガン・アクションに、あんな手があるとは思わなかったよ。チャンバラとカンフーの殺陣をガン・アクションと見事なバランスで一体化させていて、見てて爽快。カッコイイ。
 『レモ・第一の挑戦』のシナンジュは出来の悪いギャグでしかなかったが、こなた『ガン=カタ』は、思わず真似をしたくなる……しないけど。
Posted at 2006/07/14 11:50:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2006年06月06日 イイね!

太陽の黄金の林檎

太陽の黄金の林檎ネットを徘徊していて、レイ・ブラッドベリの『霧笛(The Fog Horn)』の全文が、原語で掲載されているのを見つけた。大学に入る前の頃、渋谷あたりの本屋で『華氏451度』を丸ごと立ち読みで読破して、SFでありながら詩的で叙情的な文章に魅了された作家である。
 翻訳と言うフィルタをかけてもなお、優れて嫋々とした姿を見せる文章とは、いったい原文ではどのようなものであるのか興味を持って読んでみた。そうして、物語がクライマックスに差し掛かったところで、衝撃を受けた。

 この文章は、どうしても日本語には出来ない。いや、日本語として意味の通る文章に置き換えることは、そう難しくない。また、井伏鱒二が于武陵の『勧酒』を訳したように日本語で「描き換える」ことも、文芸的才能に恵まれた翻訳家にならば可能だろう。
 だが、ブラッドベリの「The Fog Horn」が持つ言葉の色彩や深みは英語のもつ詩情であり、日本語を用いて紡ぎ出すそれとは、本質的に世界が異なるのだ。
 昔々に英米文学を専攻していたらしい元文学少女の母が「ラフカディオ・ハーンの『Kwaidan』は背筋が凍るほど怖い話だったが、小泉八雲の『怪談』は大して怖くない」と言い放ったのは、こういうことか。

 本屋で、その『霧笛』を収める短編集『太陽の黄金(きん)の林檎』を見つけて、買った。意地の悪い興味からだ。本職の翻訳家は、ブラッドベリのあの文章を、どのような日本語で描き出しているのか。どれだけ再現できているのか、と。
 そうして、一読して天を仰いだ。かつての文学少女がハーンと八雲を読み比べて抱いたのと恐らくは同じ感想を、その息子も抱いたのだった。

 だが、翻訳家に力量がないのでは、多分ない。自らの裡に持つあらゆる日本語の語彙、凡ての文章表現技法を底ざらえしてみても、ブラッドベリの原典が描き出す世界には届かない――もしくは違ったものにしかならない――異なる言語で描かれると言うのは、そういうことなのだ。醤油で味付けする料理の技法では、ソースの味を再現することはできない、美味しく作ることは可能でも、別の料理にならざるを得ない。

 同じ風景を同じ画家が描いたとしても、油絵具と水彩絵具では違った絵になる。油彩で見事に描かれた絵を、水彩や色鉛筆で見事に模写しても、そこで得られる感動は、オリジナルを見て得られるそれとは別物だ。

 だから、小学生から英語を習わせるなどナンセンスの極みだと思う。自らが生きる世界を描き出す「ことば」の蓄えが不十分なままに、さらに不十分な「せかい」をもう一つ与えて何になると言うのか。
 水彩画の技法もろくに身についていない絵描きに、さらに油絵の技法を同時に教えて、いったいどんな画家が生まれると期待するのか。

 無論、誰しもが井伏鱒二や福田恆存になれるわけではない。しかし、ことばと言うのは文化そのもの、民族の魂そのものである。井伏にも福田にもなれなかろうとも、彼らの紡ぎ出したことばの深さ、美しさを解する教養を身につけさせる(それには当然、時間がかかる)ことこそが求められてしかるべきではないのか。
 教育基本法を改正して「国を愛する心」なんぞを児童の評価に加えようとしている同じ連中が、自国文化の根幹よりも英米文化の啓蒙にこそ熱心な中教審の答申を丸呑みして指導要綱を改定するの図は、いっそ滑稽である。

 問題なのは、滑稽滑稽と他人事にして嗤って済ますには深刻に過ぎることである。権力中枢にいるお歴々が思い描く「あらまほしき日本国民の像」が如何なるものであるかが透けて見えるようで、うそ寒い。『華氏451度』に描かれるディストピアは、他国の空想科学小説家の頭の中だけに存在するものではない、ということか。
Posted at 2006/06/06 16:19:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記

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「フェアレデーって本当に呼ばれてたの? http://cvw.jp/b/9433/47108671/
何シテル?   07/24 21:51
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