昨年9月末に親父が死んだ。
享年85歳。 死因は中脾腫。
どこでアスベストに被爆したのか??
尼崎に住んでいるときに、クボタの尼崎工場のアスベスト公害があったが、住居とは15km程離れていて、アスベスト公害の対象外地域。
自宅に親父が帰ってきて、40年ぶりに兄弟揃って、お酒を飲んだ。
そこで初めて聞いたのは、若いころは会社のお金を使いこむ位博打好きだったとのこと。
新居のお金を競馬で溶かして、母にお金を出してもらったり、
会社のお金を株で使いこんだ時は、妹に工面を頼んで、結局母にお金を出してもらったらしい。
酔いも手伝い、初めて親父の頭をペシペシしばいたが、手応えはスイカ👀。
2回のチョンボの後は、お小遣い以外は母に預けていたそうな。
定年後、庭師になってその稼ぎは自分が自由に使うと言うことで、ずっと競馬のインターネット投票をしていた。
定年後も働き者だったと思ったが、競馬が原動力(笑)。
趣味への依存度が高いのは、遺伝したか(笑)。
で、アスベストの被ばくは、クボタに近い、尼崎ボートレース場にでも入り浸ったのか?
今となっては知る由もない。
昨年4月から咳が出始め、医者いらずのサプリメント好き(笑)な親父は、高い咳止めの薬を通販で買って、飲んでいたらしい。
5月上旬、親戚との旅行に備えて、実家に泊った際おかしな咳が出る。
コロナが第五類に移行する直前だったので、親父とお袋は欠席となった。
結核との誤診もあって、中脾腫と分かったのは5月末。
親父にはすでに助からないとの診断は下っていたのだが、とにかく一人で医者に行く。
80過ぎてるので手術は不可能。抗がん剤も体力が持たないとの診断だったそう。
6月の1か月は、何もできずに過ごしたが、今思えばこの期間に、旅行や食事や色々できたのに、親父の体調を気遣い何もできなかったのは悔やまれる。
この時飲みながら、これまでの人生について、家族への思いなど聞ければよかった。
親父が医者に食い下がって、抗がん剤治療を開始したのが7月上旬。
医者は、薄めて投薬したそうだが、7月1か月は副作用で倒れる。
7月末の抗がん剤の結果を確認する時の検査入院の見舞い時に、銀行の口座番号や、パソコンのPWや、知人の連絡など指示を受ける。
8月上旬に2度目に医師の反対を押し切り、抗がん剤の投薬をせがみ、やっぱり副作用で倒れる。
極薄の調薬だったと、妹が医師から聞いたのが8月半ばの事。
医師から、「家族の人が来なくて困ってた」と聞いて、すべてが分かる。
年は越せないと。
9月上旬、自宅療養中、介護士さんが居るときに呼吸不全を発症。
介護士さんの判断で救急車を呼んでもらい、入院して4週間弱。
みるみる弱って行って、見舞いに行っても「しんどい」しか言わず、ある朝病院から「呼吸をしていない」と連絡があり、母と妹が体温の残る親父の亡骸を看取った。
殺しても死にそうにない元気いっぱいの親父は発症から6か月で、アレよアレよの間に、ガンに喰い殺されてしまった。
5月のレントゲン写真で、ガンが発覚したが、医師によると1月なら何もレントゲンには映らなかったのではないかなと。
中脾腫は、それくらい強く速いガンだそうな💦
全部ひとりで抱え込んで、7月以降は抗がん剤の副作用もあって、何時もしんどそうにしている親父で、発症後、何も発信されなかった。
9月入院後は、モルヒネの影響で、まともな会話もできなかった。
親父からは、人生の総括を聞けないまま。
何も言わなかったのは、幸せな人生ではなかったのか💦
教訓。
自分が半年程度の闘病生活を持てたなら。
家族、友人には、思いっ切りお礼を言おうと思う。
そして悔しがり、泣こう。
そのためにもRS4での缶詰事故は起こすまいと誓うお正月です。
今年もよろしくお願いします。
Posted at 2024/01/07 12:59:22 | |
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