4月に大学生になった娘が最近ハマっているのが「刀剣」。「刀剣乱舞」というものがあるそうで、何やら日本刀を擬人化したものらしいです。
おのずと歴史にも少しずつ興味を持ち始めてきたようで、京都に二人でお出かけすることにしました。
娘はあまり京都を知らないので、初心者でも楽しめるようにと、まずは円山公園へ行きました。
最近はレンタル着物を着て歩く外国人観光客の方が増えて、京都の街が華やかになりました。これだけ多くの方が着ているなら、私も次に京都に来る時は着物を着てこようかな~。最近はハロウィンで仮装をする方がいるようですが、京都に来れば年中和服、着物を着ててもおかしくない着物都市になりつつあるようです。これはいいことですね~♪
最初に案内したのは円山公園の奥に静かに建つ、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像です。
そこから「ねねの道」を歩いていると、「東山路傍の触れ仏」というのがありました。岡林院にあった三地蔵見る蔵・言う蔵・聞く蔵)。
こちらの月真院は新選組から分派した御陵衛士の屯所だったところです。今日の後からの行き先にも関わっているので、念入りに説明をしました。
大勢の観光客で混雑する二年坂には入らず、東山への坂道を登るとこちらの「維新の道」になります。昔と変わらずひっそりとしています。
ハートの石を埋め込んだ?こちらの建物に到着です。
「幕末維新ミュージアム 霊山歴史館」です。歴史番組をよくご覧になる方ならお馴染みのスポットです。
私が最初にここに訪れたのは確か中学生の頃でした。それから何度と無く訪れましたが、ここ20年位はすっかり来ていませんでした。
今年はNHK大河ドラマ「せごどん」にちなんで「大西郷展」が開催されています。
歴史館の方と昔の話をしていると「いや~、それなら来られる前に電話いただければ色々ご用意しておきましたのに~、ちょっと待ってください!」と奥に引っ込み、こちらの施設の会員会報誌のバックナンバーやらもろもろの歴史資料をお土産にとくださいました。
こちらの会報誌の中には、先日訪れたばかりの「薩長同盟締結の地、お花畑屋敷」発見の記事、そして昨年、「龍馬の新国家の手紙」の公開で福井郷土資料館で講演をお聞きした角鹿 尚計氏の寄稿も載っていて、私にとって馴染み深かったです。
娘も、土方歳三の刀や、龍馬を切った刀が興味深かったようです。
その後は歴史館の向かいにある
「霊山護国神社」にある坂本龍馬、中岡慎太郎の墓にお参りしました。ここには他にも多くの志士たちが祀られています。
京都の街を見下ろしながら、彼らは今の世の中をどう思っているのでしょうね。私が中学や高校の頃、思い悩むとここに訪れ、龍馬や志士たちに元気づけられたものです。
一時は龍馬ブームですごいことになってたみたいですが、今は昔と変わらずひっそりとしていて、娘もまた違う京都らしさを味わってもらえた気がします。
そこからは壬生にレガシィを走らせます。
壬生と言えば壬生浪士組、つまり新選組の屯所があったところです。こちらは
「前川邸」。中は今も使用されておられ非公開です。
前川邸の前を曲がると、和菓子屋さん
「京都鶴屋 鶴寿庵」がありそれが新選組の最初の屯所、
「八木邸」への入り口です。この道を新選組隊士たちは往き来してたのですね~。
八木邸に入るには和菓子屋さんで1,000円を支払い、門から中は撮影禁止です。
なので、誰が撮っても皆、こんな写真になるはずです。(^^)
ちなみにこの時は案内の人が「誠」の隊旗がカメラに写るようにと向きを揃えてくれました。
中では、説明員の方が紙パネルを使って丁寧に新選組の結成から解散に至る流れを説明してくださいます。私たち以外にも5~6名の方が先におられて話が始まっていたのですが、皆さんあまり説明に興味が無いようで、途中からは説明員の方は私に向かって話をされてました。
ちなみに昔の私にとって新選組は「敵」でしたので、ここに来たのは初めてです。説明の方も、あまり美化しすぎてなくて、意外とフェアで面白かったです。
見終わると和菓子屋さんのほうで、抹茶とお菓子をいただけます。娘も生の説明とスイーツに、かなり満足していたようでした。
こちらの新徳禅寺では演習などをやっていたのだとか。
こちらの壬生寺も同じように演習場に使われたとか。壬生にわずか3年くらいしかいなかった余所者の新選組は現地の人たちには観光物件のようで、あくまで普通の京都の住宅地でした。もっと新選組タウンなのかと思っていた私には、意外でした。
続いて訪れたのは会津藩松平肥後守、京都守護職本陣旧跡の
「くろ谷 金戒光明寺」です。
ここには以前NHK大河ドラマ「お江」をやっていた時に
訪れたことがあります。
極楽橋から徳川秀忠公菩提の為に建立の三重の塔を目指して登ります。境内にはたくさんのお墓があり、私のカミさんの先祖のお墓もこちらにあります。
城がまえで多くの兵を収容できる黒谷は、会津藩兵と新選組にとってはヘッドクォーターであったのです。
会津墓地への案内があります。横に信州上田藩の赤松小三郎の墓の案内があるのにビックリ、テンションが上ります。
赤松小三郎については
こちらのブログで取り上げています。
霊山以上に人がおらず、さらにひっそりとしています。
ここのお墓は戊辰戦争より少し前の禁門の変で亡くなられた方が多く埋葬されています。
このあと、赤松小三郎のお墓を探すのに20分位かかりました。石柱にはここより20間(約36メートル)とあるのですが、左に少しずれたところにあり、とてもわかりづらかったです。
他のお墓は御所の方向を向いて建てられているのですが、赤松小三郎の墓は東向きに建てられています。帰ることができなかった故郷の上田の方向を向いているのでしょうか。
ちなみにこのお墓は数年前に建て替えられたもので、風化が激しい元の墓石は上田市で展示されているのだとか。
wikipedia
彼がいなければ、坂本龍馬の船中八策も明治政府の五箇条の御誓文も生まれなかったわけです。また戊辰戦争を勝利に導いた薩摩藩の英国式歩兵の軍事力も存在しなかったのですから、彼の存在の大きさは計り知れないものがあります。
ちょっとマニアックになってきてますが、帰りには東洞院通りにある赤松小三郎遭難の地も通ってみました。
ちなみに赤松を殺したのは赤松の塾の塾生でもあった薩摩藩の桐野利秋(中村半次郎)らです。おそらく指示をしたのは西郷隆盛でしょう。
赤松の塾には薩摩だけでなく、会津、福井などの武士も共に学んでいました。彼の軍事指導が余りに高度であったが為に軍事機密漏洩防止のために殺されたのだと推測されています。
赤松の愛弟子であった同じ薩摩藩の野津道貫らが師の暗殺に敵討ちを考え、後年西南戦争で西郷隆盛や桐野利秋と戦ったことは因果応報のようにも思えます。
さて大河ドラマに赤松小三郎は出てくるでしょうか。できればせごどんに赤松を殺した弁明と謝罪をしてもらいたいものです。
帰りは、伏見を通りました。大手筋の橋の袂には、坂本龍馬が寺田屋から避難をした材木小屋跡の石碑ができていました。
伏見の町並みは今もたくさんの酒造メーカーさんが立ち並んでいたり、十石舟も復活していたりでとても風情がありますね。
今回の旅のゴールはこちらの伏見の船宿「寺田屋」です。これからの「せごどん」でも度々登場することでしょう。ここも昔は幕末の頃の建物だと完全に信じていましたが、元の寺田屋は焼けて隣の庭の部分にあったことが、数年前に判明したんですよね。
高校時代に同級生と一緒に初めて訪れた歴史のロマンあふれるこの寺田屋、けっこう好きです。今でも龍馬が中から出てくるような雰囲気があります。
昔に比べ、かなり京都は史跡の標柱や石碑の整備が進んでいて、スマホの地図で簡単に回ることができるようになっているので、また訪れてみたいなと思います。
霊山歴史館の大西郷展のリーフレットの裏には京都幕末探訪地図になっていました。
最後に娘にどこが一番興味深かったか聞くと、壬生の八木邸が一番だったようです。マニアックな父親の説明より、誰にでもわかりやすい説明員の方の説明のほうがそりゃいいですよね。(^^)
もう娘と歴史めぐりをすることも、今後なかなか無いかもしれませんが、私が若かりし頃熱中していた京都の幕末の史跡めぐりの面白さを、娘に知ってもらえてよかったと思います。
最後までご覧いただき、有難うございましたm(_ _)m