トヨタというメーカーが嫌いになったからです。
この頃のトヨタ、2000年代後半ですかね。
景気の波に任せるようなクルマ造りに積極的で、ミニバンを中心とした万人受けするようなクルマが広告の力に頼るように売れていた時期だったように覚えています。
そして日本国内における、レクサスの立ち上げ。
車両価格が250万円程度と比較的手頃だったアルテッツァもレクサスISに変えられてしまって、車両価格も400万円台と一気に跳ね上がってお金持ちのためのクルマになってしまった。
アルテッツァやセリカ、MR-S、カルディナなどと乗る人を愉しませるような手頃なスポーツモデルは当時のトヨタのラインナップから完全に無くされて、いつしかミニバンが主役になった当時のトヨタの姿勢においらはとても裏切られた気分でした。
手頃なスポーツモデルこそ造り続けるべきクルマなのに・・・乗る人を愉しませる、いわば
「FUN TO DRIVE」
とかつて熱く語っていたトヨタは一体どこへ行ったものか。
のちに86とともにスポーツカーを復活させるトヨタでしたが、86の開発に悩まれていたチーフエンジニアの多田さんがアドバイスを受けるべく、ロードスターの開発者だったマツダの貴島さんに
「景気の波でスポーツカーを作ったりやめたりするのは、ファンに対する裏切り行為だ!」
と言われたのは有名な話ですね。
本当にその通り。
おいらも裏切られた気持ちが強くてトヨタに見切りをつけてスバルに移籍し、レガシィに乗り換えたのも理由でした。
今ではトヨタと資本提携しているスバルではあるけれども、ロードスターと同じように景気に翻弄されることなく、今もなお愚直にWRXを造り続けられていますしね。
・・・
と、トヨタのことを散々と書いてしまいましたが、あくまで当時(2000年代後半)の私見にすぎないことを、念押ししておきますね。
今ではモータースポーツが好きな豊田章男さんが社長になって、再びスポーツモデルの開発が活発になって良い方向に向かっています。
でも一度不愉快を覚えるとなかなか戻ることに慎重なおいらなので、トヨタに戻ることは難しいかもしれません。
長々とすいません、本題に戻ります。
BPは新車ではなく、4000kmあまり走った1年落ちのデモカーでした。
今乗っているBS9と同じケースですね。
本当はターボの「2.0GT」を買うつもりで考えていましたが、レギュラーガソリンがリッター170円で高騰していた時代で我が家の大蔵大臣が決裁できないのは目に見えていたため、諦めざるを得なかった。
この時期は、撤廃できるはずだった暫定税率を撤廃せず有耶無耶にして、国民を敵に回した当時の自民党が衆院選で惨敗する直前でしたね。
このように2.0GTに未練を残しつつも買ったのは、2.5L NAの「2.5i」。
でもこれが思いの外、ハイバランス!
今までと違うメーカーのクルマに乗り換えたことだけでもかなり新鮮だったんですが、何よりも新鮮だったのは今までにない快適性。
路面がどんな悪い条件であっても地を這うように全輪で突き進んでいく頼もしさがありながら、(足回りにお金をかける傾向が強いスバルらしく)ノーマルサスでも乗り心地は実にしなやかだったし、不快な振動もほとんど感じられなかった。
なので非常に快適だったし、長時間運転していても疲れることが全くなかったですね。
まさに振動の少ない水平対向エンジンに四輪駆動を組み合わせた独特な性能、すなわちスバルの目指す「シンメトリカルAWD」の良さが活きてる証で全天候型グランドツアラーといっても過言ではないぐらいの性能を誇っていたと思います。
そして、エンジンパワー。
シングルカムで可変バルブリフト機構も持っていたEJ25は2.0GTほどの圧倒的なパワーはなかったものの、4000rpmあたりの中回転域で最大トルクを発生させる、非常に扱いやすい性格を持っていました。
さらにボディも、ボンネットとリアゲート部でアルミが使われていた恩恵で1.5t未満と軽量。
扱いやすいエンジンと軽量なボディの組み合わせによって、実に気持ちの良い加速を実現してくれていたものです。
信号待ちから開放されてアクセルペダルに足を置き、ジワっと踏み込んだだけで非常に気持ちよく加速してくれていたし、高速道路で本線合流するときもまさに「楽勝」の一言。
シンメトリカルAWDと扱いやすいトルクフルなエンジンパワー、軽量なボディの組み合わせがまさにハイバランスだったわけです。
スタイリングはもちろん、インテリアも垢抜けていて安心できるデザインだったから、どんなシーンにも似合う車だったと思います。
こうしていつしか頼もしい相棒となり、長く乗り続けようと思っていた・・・矢先。
納車後1年半に被った通勤中のもらい事故を受けて修理された、運転席側の外板。
おいらは今でも恨んでいますが、自動車整備工の社長でもある加害者の都合の良いように修理したところが、無残で目を覆いたくなるような状態になってしまって・・・
これを見るたびに傷心してしまって・・・
BPに乗り続ける自信が次第になくなっていって・・・決心。
2016年1月にBPを降りました。
BPを降りて自分の視界から見えなくなった途端に、目頭が熱くなったのを今でも覚えてますよ。
地元秋田から、東京・横浜、新潟のみならず、遠くは名古屋まで快適に往復できるほど行動範囲を一気に広げてたくさんの思い出を作ってくれたBPの活躍ぶりは、このブログでいままで書いてきた通り。
以前のブログ記事に載せたBPとの思い出写真を再掲します・・・
・・・
思ったよりも早く別れてしまったBPに、注ぎきれなかった愛情はたくさんある。
BPに注ぎきれなかった愛情を、現愛車のBS9にこれからも注いでやりたいと思います。