
画像は、
吾亦紅さんから、いただいたものです。
何故って、講演会場で、私のデジイチで撮影した画像が、故障で、全部手に入りませんでした( 記念撮影をお願いされた方々、すみません
(ーー;)
そして、講演会の事も、少し書いておかないといけませんね(^^ゞ
何度か聞かせていただいてますが、今回アレって思ったのは
「フォーカスグループインタビュー」のことです、これまでいろんな所に書かれていた時期と、違う時期に、実施された事が語られました。
2回在ったのか?、それとも主査の勘違いか?
たしか、こんな話だったと(整備手帳やフォトギャラを再度編集してます)(^^ゞ
1.「デザインコンペで勝利!」
当時CR-XやMR-2が、気軽なスポーツとして、もてはやされていたのですから、時代的にもFFかMRが提案されてしかるべきだったはずで、「FRオープン」なんて、考える方がどうかしていたのです、しかし2度目の「クレイモデル」を、製作した上でのコンペティションでは、カルフォルニア提案の「P729」(ミアータの原型)が、他のFFモデルやミッドシップモデルよりも、デザイン的に、一番カッコ良かったのです。
つまり、クレイモデルの提案に勝利して、勝ち残ったのです。これが「第1の幸運」でした、。
「FRオープン」の支持者が、カルフォルニアだけでなくて、国内にもいた事も幸運でした、その一人が、横浜研究所の松井氏で、彼は何とかして、開発を推進する為に、まずは「DUO101」と呼ばれるモデルを、英国のカムタムカー会社に依頼して、SA22サバンナのシャシーに「P729デザイン」を載せて、一台製作させ雰囲気を見ると言う、考えられない事をしました。
そして、彼は「最大マーケットの西海岸」での人気を、証明する為に、カルフォルニア州のサンタバーバラの公道を走らせる事にしたのです。(たぶん、イギリスでは空が青くなかったので、青い空の下で、写真を撮ろうと思ったのではないかと思います?)
その、サンタバーバラで、トランスポーターから降ろすや否や、子供や人が集まってくる。ガソリンスタンドに行くと、これはどこの車なのか?俺も欲しい!とか 写真を撮ろうと追いかけて来るので、民家に逃げ込むと、そこの住人が同じ様に「幾らなのか? 俺も欲しい!」... と言う伝説の「サンタバーバラの冒険」もあったそうです。
とにかく「注目度、人気は抜群」で、立ち会った人達が、「その感動を、本社に報告をした」時点で、プロジェクトの推進(まだ推進です、正式なラインには遠い)が、決まったのです「第2の幸運」
3.「理想論と正論?の、せめぎあい」
それは、まだ正式なプロジェクトではなかったのですが、とにかく生産する為の組織が、初めて作られ、その主査に自分で申し出たのは平井氏でした。「この車は、オレにしか造れん」と(笑)
開発にあたっての、最初の検討課題は駆動方式だったのは明白です。
「人気があると言うのはカッコでしょう? カッコが認められたのなら、FFでそれを造れば良いじゃないか!」という人が多かったようです、そりゃ~そうでしょう(^^ゞ
既存の小型車のコンポーネンツを流用できるFF 方式が、コスト的には最も有利で、極端に言えばボディをスポーツカー風のものに載せ替えるだけでも、なんとか格好はつけられるだろうし(その結果は、サ○ノ○ コンバーチブルに、なっていたと思いますが?)
それが、安直過ぎると言うのなら、むしろ、MR方式がFFのファミリアのエンジン、トランスミッションなどのパワートレインを丸ごとリヤ方向に移し替えれば、かなり流用は効くというのは明白だしね、「流用すればコスト削減出来るし、フェラーリだって、F1だってミドシップである、ミッドシップはスポーツカーとして最終形」なんていう人の声は説得力があったかも?(こちらは、M○―S?に、なってたかな? 笑)
これに対し、FR 方式は駆動系を、一から新たに作らなければならないので、最も投資を必要とするタイプなのです「いまさら、時代遅れのFRなんてコスト的にも、採算も合わない!」と言われたそうですし、それに抵抗するには大変だったと想像に難くありません?
もっと酷いのになると「今更、屋根が幌のオープンカーなんて、馬鹿な事を考えるもんだ...」とか、2シーターオープンを、根底から覆す意見も当然ありますね
私も良識ある、いや出世を狙っている会社組織の人間なら、絶対言います (笑)
でも、LWSの走りにふさわしい軽快で、ニュートラルなハンドリングやレスポンスは、FRでなくては得られないと主査、開発人は(馬鹿の一つ覚えみたいに)主張したと書かれてますね(笑)
4「生産化されない(かもしれない)設計だから 理想を!
でも「第3の幸運」この頃は、人員もわずかで、生産されるかどうかわからないプロジェクトなんて、誰も本気で注目していなかったのでしょう、結果「2シーターオープン」で「FR駆動」方式で粛々と?推し進めた。
その当時の与えられた部屋は、キチンとした部署ではなくて、本棟から離れた?川沿いのガレージ(通称、リバーサイドホテル)だったそうです、最初は、部下は設計経験の少ない若手5人だけだったとか、とりあえず、この車の為というよりも、将来の為と言うか、 その頃はまだ使われていなかったコンピュータでの設計(解析)を模索していた、どうでもいいプロジェクトだったので、いわゆる実験だったのですね。
設計図を描くと時間もコストも掛かるのだとか...、 正式で無いので、最初の部屋も他の部署と一緒だったそうですし、勝手に自由に、色んな方々が、関わっていたんでしょう?
それが段々と「これは、面白そうだぞ!」と言う訳で、好きな人達が、他のプロジェクトが終わった後に、残業とか日曜日に手弁当で集まって、あ~でもない、こうでもないとやっていたのですね!
平井氏の言葉「あの頃は、本当に 生産しないかもしれないと思っていた」...とか。
日曜日に「リバーサイドホテル」に通い詰めていたとの噂が、家族に伝わって、「疑いを晴らすのに苦労した~」との話には、笑いますが (笑)
たぶん、そうだからこそ、気ままに「純粋」に、「ライトウエイトスポーツの理想」を追い求めていたのですね
平井氏は「(生産される事がないかもしれないが) 皆が自分の乗れる安くて、ホンモノのスポーツカーを、造るのだ! と思って取り組んだ」と語っています。
だから、その頃RX-7(FC3S)でも採用していないコスト的にも贅沢な「ダブルウッシュボーン型サスペンション」「PPF」「アルミボンネット」等など、コストも、車格も、考えないわがまま設計?が、出来あがった訳です。(だって、ラインアップで、一番安いスポーツカーですから、普通は有り得ない (^^ゞ)
たぶん、コストや販売目標とかが全ての上司の監視の目も、生産するか?しないか?解らないような車は興味もなかったし、深く感知しなかったのでしょう。
携わっていた人数も通常の10分の1にも満たないし、掛け持ちでしていた人達が多く、勝手に「オレならこんなスポーツカーにする」みたいな「理想を求めて」設計していたのでしょう。
会議でも、もう疲れきった最後に話が出ていたそうです、次は「本プロジェクトではないライトウエイトオープンについて...」、もうどうでもいい訳です...「それで結構...」みたいな (笑)
事実、バブルの頃、国内販売店5チャンネル化を目指して、クロノス兄弟や高級化を目指すセンティア、ユーノス800、ロータリーの理想を目指したコスモなどに、力を傾注していたメーカーでは、国内でどれほど売れるか解らない(米国で売れたって、MAZDAとしての総販売台数における位置づけからは、取るに足らない)ライトウエイトスポーツなど、重要な会議でも、どうでも良い最後の議題だったに違いないのです。(今でこそ、魅力的なスポーツカーを製造しているメーカーとしてのイメージの貢献が評価されていますが)
デザインの田中氏は、知る人ぞ知る、陶芸や能面を打つのが趣味の、わがままボヘミアン?な、組織のはみだしモノ?(言いすぎですね)で、決定していた補器類の配置も考えず、勝手に(デザインの理想を求めて)クレイモデルを削ってしまうのだとか(笑) 何度も主査と言い合いをしたとか(笑)あの美しい面は、そんなところから生みだされたんでしょう!!?(笑)
こうして、一部の好きモノの、話の種のような車の設計は、着々と進行し、プロトタイプの「設計図」と「(動かないクレイ)ラクマスモデル」は完成していったのです。
5.「一発 大逆転!!?」
その頃に、円高もあり、今一度メーカーとしての車種の整理とかを見直す時期があって、海外(国内は、どうでも良いプロジェクトだったのです)のデストリビューター(総販売代理店主 等)に、ライトウエイトスポーツの「欲求度」を尋ねたら、「RX-7(FC3S)がある現状では、ひとつのメーカーに2台もスポーツカーはいらない!」と、の報告が大半だったそうです。
特にドイツからは、「現在のオープン2シーターの、世界各国での販売状況を鑑みて、このようなクルマが売れるはずも無い、全く無駄である」と、きつ~い回答を得たりしました。否定的な意見ばかりで、プロジェクトが消えかかった時もあったそうです。
そのときの設計者は、落胆し「一台でも、走れるヤツを造って、ドライブしてみたかった」と思ったそうです。
しかし、どうしても「自分の乗りたい車を設計して、走りたい」人達は、デストリビューターの「不必要!」との回答を受けても、その回答では、生産にこぎつけられない、つまりは自分が乗れないと思い「この車を欲しい人達は、きっといる!」と信じて、最後の賭けに出たのです。
プロトタイプを主要販売地である米国の消費者(ユーザー)に、評価確認してもらう為に「フォーカスグループインタビュー」に、臨んだのです。
無作為で選んだ、年齢も職業、収入も違う人達(でも、多分車好き?)を、部屋に集めて、J58Gプロトタイプを見て貰って、アンケートに答えて貰うという、企画である。
国籍もメーカーも明かさず、(販売価格は公表して)J58Gプロトタイプを、アンケートの人達に、お披露目して得られた結果は、220人中57人が、「ぜひ、買いたい!!」の評価であったと言う( 感動!! ... 涙)
通常の車の評価は「買いたい」、「買っても良い」の、まあまあ~の評価が、普通なんだとか...。
平井主査,デザイナー田中氏とも、その結果で、帰りの飛行機は、感激で眠れなかったとの事であった。
6.「一刻も早い、生産化!!」
広島へ戻り、その「かつて無い 凄い結果」を、上司に報告すると、
「それほどまでに、望まれているのならば、他のメーカーに知られ、先を越されてはならない、一刻も早く、生産にこぎつけなさい!」とのお達しだった。
マニアックな人達が、生産する事にならないかも?と「好き勝手に設計していたプロジェクト」が、「一刻も早く、生産」に変わった。ほぼ完成していた設計図から、まずは、一刻も早く生産する為に、まず「デザイン凍結」された、たぶんそれに伴い贅沢なFRもダブルウッシュボーンも、アルミボンネットも、コストのかかるドアノブも、そのままにならざるを得なかったのだろう、デザインが変更出来ないのだから、トランクが狭いとか、コクピットがタイトとかのネガティブな意見も、主査の責任で通した、「一刻も早く生産」に、漕ぎ着ける為に??
NHVの改善など、スポーツカーには「さして、重要では無い!」と、快適装備は前出の理由と設計する時間など無いと割り切った(それが極めて重要な60年代テイストを残す事につながったのかも?)
スポーツカーとしては理想だが、「コストの掛かる贅沢設計」も、他の部分のコストを抑えることで、帳尻を合せて、「最終コストを下回る」ことで文句を言わせなかった。
いずれにしても、こうして、奇跡的に、「通常ありえない車」が、 1989年に発売された。
そして、少しの勇気をもって手に入れた人は「誰もが 幸せになる」 それは嘘では無かった...。
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ロードスタリスト | 日記
Posted at
2009/05/12 22:33:10