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惰眠のブログ一覧

2008年08月24日 イイね!

回顧的備忘録・北京五輪

回顧的備忘録・北京五輪先に添付画像の説明を書いておくと、これは中国大使館正門前の様子。農薬混入ギョーザ事件の頃から所轄の警備が張り付きになったが、以前はポリス・ボックスがある程度、言われなけりゃ大使館があることさえ見落としかねない風情だった。

まぁ、それはそれとして。

 北京五輪の大会競技に関しては、ジャマイカのボルト選手が驚異的な短距離走レコードをたたき出したり、女子ソフトボールの日本代表が「三度目の正直」で決勝でアメリカを下し劇的に過ぎる金メダルを獲得したりと、なかなか見所が多かったように思う。

ここで書き残しておこうと思うのは、開会式の演出のこと。

 僕はあの中継を、残業しながら会社のテレビで見ていた。事前には一抹、「ローカル的な」垢抜けない演出になるんじゃないかとの思いもあったのだが、蓋を開けてみりゃ「うわぁこれ、すごい演出家つけてるよ」ってなもんだった。
 途中、巨大な絵巻物を広げるシーンで画面の作り方が映画『英雄~HERO』みたいだな、あの映画監督の影響を受けてるのかな、なんて思ってたら、同じく会社に残ってた先輩が部屋のあっち側で「すげえ!チャン・イーモウ風味丸出しだな!」てなことを叫んでいる。彼は知っていて僕は知らなかったのだが……影響を受けているも何も、HEROの監督自身が開会式の総合演出を手がけていたのだった。

 てなことを書いているが、僕が観たチャン・イーモウ監督作品は、そのHEROだけ。だけなのだが、僕はこの映画が、その結末の『落とし方』も含めて、かなり好きなのだ。あれを見て真っ先に思ったのは「これ、周五郎だ」。『樅の木は残った』や『正雪記』、或いは短編の『夜の蝶』なんかに通底する、言ってみりゃ「一身の褒貶を超え、義(ただ)しさに殉ずる」って話だ。

 それはそれとして、開会式の話だ。
式典が終わったあとから、TVで放送された足跡型の花火の映像はフルCGだった(実際に花火を打ち上げてはいたが、放送には使っていない)とか、会場で歌った小さな女の子は「姿の出演」で、他に「声の出演」がいたとかが報じられたのだが、その論調が神経に障った。
 マスコミ報道の“バイアス”は『あいつら俺らのこと騙しやがったんだぜ?!なあ、ムカつかね?ムカつかね?なんか言ってやろうぜ、なあ』って調子だ。どこの頭悪いヤンキーだ、お前らは。ヤラセすれすれの仕込みを「演出」といって憚らないテレビ屋が、どの口でチャン・イーモウを非難するか。

 僕がその辺の話を聞いて感じたのは「あー、チャン・イーモウって根っから『映像作家』なんだな、『映像作家』ならやるかもなぁ」ってことだ。なんかちょっとずれてるんじゃない?ッて感じはするが、『事実』としてのイベント現場での演出よりも、世界配信される映像の『画づくり』が最優先になっている映画監督の発想としては別に不思議じゃない。

 あとアレね、Free Tibetつーて騒いでた連中。奴さんらが、例えば普段からイスラエルに向かってFree Palestinaとかってアピールしてるとか、次のロンドン大会でFree North Irelandってやるとでも言うんならまだしも、全然そうじゃないでしょ、どーせ。中国に肩入れする義理もつもりもないけれど、ここぞとばかりに正義づら引っさげてチョロチョロし始める連中を見るのは、気分が悪かった。
Posted at 2008/09/05 17:21:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2008年07月28日 イイね!

回顧的備忘録・鉄の騎兵を見た

回顧的備忘録・鉄の騎兵を見た先の人事異動で24時間稼動のシフト勤務職場に移ったことが原因としては大きいのだけれど、丸一ヶ月以上もここを『留守』にしていた。気持ちの上では20代の頃と殆んど変わっていないつもりなのだが、身体のほうは残念ながら既にして不惑を迎えている。当直勤務が明けたあと、以前シフト職場にいた30代の頃とは違って、まるで電池が切れるように動けなくなってしまうのは、正直ショックだった。

 それともうひとつ、これまでの職場では「書類」を作成してはいたけれど、いわゆる「文章」を書いてはおらず、その欲求不満を晴らすため(?)にここの更新に勤しんでいた側面もあったのだけれども、今度の職場はとにかく日がな一日「文章」を書く。仕事で。
 そうなると、勤務が明けたあとも更にまた文章を考えることを、ちょっと脳みそが拒絶するというか、そんな感じがあって、ついつい足が遠のいてしまったのだった。

 そんなこんなですっかり時宜を逸した身辺雑記だが、備忘録としてまとめておこうと思う。(実家の父を「全然更新されてないが元気なのか?」と心配させてしまったのも理由だったりする……)

 さて7月28日。朝、仕事で六本木ヒルズに赴くと中央のアリーナで何かのイベントの後片付けが行われていた。見ると身の丈4メートルほどの、ドーム状の頭部を持つ「ロボット」の姿が……。ちょうど四半世紀前に放送されていたアニメ『装甲騎兵ボトムズ』に登場した、軍用ロボットの等身大模型だ。
 倉田光吾郎という、鉄を扱う芸術家……というか舞台美術の人が面白がって作っている話は随分前から知っていたのだけれども、まさか現物をこの目で拝めるとは思ってもいなかった。ちょっと感激だ。

 それにしても、乗用車を立てかけたくらいの「4メートル」という身長は中々絶妙なもので、劇中で人物と対比させて作話するにも、搭乗したらしっ放しで周辺の『環境』とは舞台が切り離されてしまうマジンガーZ以来の伝統的巨大ロボットと違い、いろいろと演出に幅を持たせ易かったろうことが何となくわかる。人間の現実的な感覚と、フィクション世界の間の敷居が低い感じがするのだった。
Posted at 2008/09/05 12:27:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2008年06月15日 イイね!

タイム・カプセル

タイム・カプセル数えで古希の「父の日」に、不惑の息子が実家を訪問。
お互い、どことなく「この年になって」という気恥ずかしさがあったけれども、親不孝な僕は、こういう機会でもないと滅多に実家に顔を出さない。まあ、いい機会だったと言うべきだろう。

 その折、父が「ちょっと面白いものがある」と見せてくれたのが、今から100年近く前、1913年の新聞の縮刷コピーだった(添付画像は数年前のものだけど)。一部8ページ構成。僕らが見慣れた新聞となにが一番違うって、テレビの番組表がついていない(笑)。まだ放送始まってないもんな。あ、あと言葉遣いが全部文語で、漢字が正字(旧字体)。幸い、高校大学と漢文や古文がわりと好きで結構得意だったお陰で普通に読む限りには特に不自由はない。固有名詞を別にすれば。

 「市俄古(シカゴ)」とか「桑港(サンフランシスコ)」なんかは普通に読めるけど、「葡萄牙(ポルトガル)」や「勃牙利(ブルガリア)」あたりまでならマァ読めるけど、流石に「黒山」国だの「聖市」は分からない。スティーム・ロコモティブを「汽車」としたセンスなのだが……『黒山』国とは「モンテ(山)ネグロ(黒)」であり、『聖市』とは「サン(聖)パウロ」の由。

 面白がって95年も前の6月某日の新聞紙面を読んでみると、時は折りしも第一次世界大戦前夜、バルカン半島情勢を巡る「路透」通信(これ、ロイターと読む)等々の外電記事が2面を埋め尽くす。また、それを受けての尾崎咢堂や犬養毅の談話が掲載されている。年甲斐もなく(という言葉があたる年齢になったんだな、僕も)興奮してしまった。
 歴史の教科書や用語集などの文献的知識でしか知らなかった固有名詞、社会情勢が、この古新聞の紙面では「現在進行形」の出来事なのだ。歴史年表の上に箇条書きされていた出来事が、妙に生々しく目の前に立ち上がってくる。

 そういう時事的要素も読んでいて面白いのだけれども、表題に「タイム・カプセル」の語を選んだのは、このわずか8ページの古新聞には、そのときその瞬間に同時代人は恐らく意識もしないであろう「当然の風俗」が、琥珀に封入された昆虫の化石のようにクッキリと残されているように感じられたからだ。

 今の新聞紙面と違い、第一面はトップ・ニュースではなく、全面に新刊書籍の広告が掲載されている。今の新聞なら最下段に一列並んでいるだけのあれが、5段組くらい積みあがっている。その殆んどは英和の辞典、辞書、実務用語集なのだけれども、その中に紛れ込んで「女優論」なんて本が宣伝されていたり、『生殖器病ハ亡国病ナリ』なんてあおり文句を掲げた公衆衛生――と言っていいよな――の書籍が上梓されていたことも分かったりする。平塚らいてうの『青鞜』も宣伝されていた。

 俗に言う「三面記事」は文字通りなのだけれども、今で言う「社会面」の性格よりはもう少し、ゴシップだねの読み物性が強い。日の下に新しきことなし、との警句を思い起こさせるが、どんなに技術や媒体が変化・進歩しても人の営みって変わらないようだ。
 その一方で、わずか一世紀足らずの時代の流れで、もう分からなくなりつつある日常風俗の言葉もあったりする。和服に詳しい母は一発で言い当てたが、定期船から身投げしたらしい女性が着ていた「瓦斯(ガス)竪縞」という服装がどういうものなのかが、僕にも父にも判らなかった。ちなみにこれ、化繊の安物の着物なのだそうだ。
 特に注釈もなくサラリと記事本文に書かれていた事から想像するに、当時新聞なんぞと言うものをわざわざ購買するような人々というのは教養層に属したのであろうけれど、そのことを別にしても「瓦斯(ガス)竪縞」と書けば、それだけで当時の人たちには十分話が通じたということでもある。

 そして、その「定期船から身投げか?」の記事で面白いのは、安物を身につけて入水を図ったであろう女性の履物(船上甲板に残されていた)が桐柾目の下駄で、一緒に心中したらしい男性の残した洋傘(とかいて「こうもり」と読む)が矢張り桐柾目の下駄、黒革の鞄などだったということだ。
 僕や父には「やたら所持品を詳しく書きたてているね」としか分からなかったけれど、母に言わせると「下駄や小物(高級品)と着物(安物)、チグハグなのは何で?」ということになる。こうした時代習俗の基礎知識に欠ける僕や父には、気づくこともできない「違和感」だ。

 俄かミス・マープルとなった母の推理では「形見分けがあるでしょう。そのときに、高いものを身につけたまま入水したとなったら、『なんて勿体無いことを!』と死後もくそみそに言われるから、残された関係者への最低限の義理立ての意味からも、道行では高級な小道具を身につけていたけれど、身投げするときの服には安物を選んだはず」。うーーーん、ロッキングチェア・ディティクティブの現物を見た感じだ。いや、もしかしたら約一世紀前にこの紙面を目にした読者も、僕の母と同じように想像を巡らせて三面ゴシップ記事と言う『読み物』を満喫したのかもしれない。

 何年か前、読売新聞社が創刊以来のバックナンバーをデータベース化して、確か研究機関向けにDVDソフトか何かにして(確かすごいお値段で)頒布を行ったと記憶してるが、それを実際に試した人が、面白くて面白くて面白くて面白くて、下手したら日常生活が破壊されかねないくらい没入してしまっていると告白しているのを、何かで読んだ気がする。そのときは「ふーん。まぁ分かる気もするけど、そこまでかねえ」と感じたものだが、今は実感として強く同感の意を表したいところだ。社会生活の全てを放擲して、この古新聞の世界に耽溺できたら、それはそれできっと幸せだろうなあ(笑)。
Posted at 2008/06/17 14:51:02 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2008年05月01日 イイね!

映画館で『相棒』を見る

映画館で『相棒』を見る実は水谷豊主演のテレビ・ドラマ『相棒』のファンだったりする。でもって、DVDを全部買い揃えていたりする。だもんで、5月1日からロード・ショーが始まった、このドラマの劇場版はヒジョーに期待をしていたのだった。

 思い返してみると、もう随分と長いこと映画館になど足を運んでいない。ことによると、最後にちゃんと劇場で映画を見たのは、大学時代に女の子とデートに行ったとき以来になるかもしれない。とすると……殆んど20年ぶり!?

 出かけた先は港北NTのシネマ・コンプレックス。昔はこんな総合商業施設は、なかった。だから、そういう娯楽施設のありよう自体が結構新鮮で面白かったのだけれども、知らないと言うことは時に大きな失敗にも繋がる。
 映画『相棒』を期待していたファンはどうやら少なくなかったようで、初日の第一回上映からほぼ満席状態になっていたために「まぁいいや」と最前列の座席を選んだのだが……スクリーンが近すぎるのである。むかし懐かしい映画館なんかだと、狭いハコならスクリーン自体がそれほど大きくないとか、それなりに規模のあるハコなら最前列の先にステージがしつらえてあるとかで「近すぎちゃって困るわ」なんてことはなかったと思うのだが……限られた空間に9つも10ものスクリーンを詰め込んだシネマ・コンプレックスの、これは弊害と言っていいだろう。

 座席選びに失敗して些か浮かぬ気持ちのまま映画が始まったのだけれども、いや、本当に『相棒』だった。長年のファンの人には恐らくこういう言い方で「気分」は伝わると思うし、そもそもこれ以上重ねる言葉もない。大満足だった。
 でも単に満足だったと言うだけじゃない。よくぞ、今の時勢に、あのことを題材に選んだ。テレビ局が関与して制作しているドラマ(映画)で、よくぞこれを取り上げられた。あの時、ああいう風なことが起こったことに腹を立てたのは、多分僕だけじゃなかったと思うのだが、きっと劇場版の脚本を手がけた戸田山雅司氏も、監督の和泉聖治氏も、あのときの怒りを忘れずにいたんだと思う。映画はフィクションだから、それでも最後に「救い」が与えられたけれども、だけど現実は、ね……。

 最終盤、あの大ベテラン俳優が振り絞るように口にした血のにじむような台詞。あれは、本当に忘れちゃあいけないことだ。その場面、じわりじわりと画面がにじんで来てしまって、もう最終盤だったからじきに上映が終わって館内が明るくなるのが分っていてとても困った。
 ああ、騙された。誰だ、劇場版は「お祭りだ」なんて言ってた製作関係者は。市民マラソン危機一髪なんて壮大なガジェットに、すっかり目くらましされてしまったよ。『相棒』が、そんな一筋縄で行くドラマじゃないことくらい、先刻承知だったはずなのに。ああ、また今まで以上に『相棒』のファンになってしまった。

 ちなみに映画の題材になった『あのこと』と言うのは、映画の核心に関わる話なのでここでは明言しないで置くけれども、そのことについて僕はこんなことや、こんなことを書いている。
Posted at 2008/05/03 22:28:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2008年04月01日 イイね!

音だけ聞くから却って分かることなのかも

音だけ聞くから却って分かることなのかも通勤途中、僕は音楽を聴かない。ユーノス500のカセットデッキ(今時!)が壊れていてラジオしか聴けないのも理由の一つだけれども、もう一台の幌がついたほうの車でも、通勤途上はCDオートチェンジャーは使わないことにしている。

 理由は主に二つある。ひとつは、ラジオ番組のコーナーの進み具合で大まかな時刻が耳で分かるので、遅刻気味なのか余裕があるのかがリアルタイムで判ること。いまひとつは、これからお勤めに向かうときに、オフの気分になるのを避けるためだ。それに、ニュースが聞けるという余禄もある。だもんで、聴いているのは専らAMの594kHzだ。

 その僕の通勤時間帯にその周波数で聞けた放送は、この4月まで局アナひとりが番組を取り仕切り、各地の聴取者から寄せられたメールや手紙、ファックスの紹介をしているものだったのだが、春の番組改編でスタジオ要員が2人になった。
僕はこれ、大失敗なんじゃないかと思っている。

 どういうことかと言うと、スタジオ司会が一人の場合、番組の「空気」は司会と投稿者が一対一で向き合ったものになる。実際には時間も空間も隔てられているのだけれども、余人を交えていない分、聴取者と番組司会者の心理的距離がとても「近い」。ところがスタジオにもう一人加えてしまった結果(これはじかに聴いていて思ったことなんだけども)、番組の空気――ニュアンス――が聴取者からの投稿をダシにスタジオ回しのトークを主体とするような按配になってしまっている。なんだか「アッチで勝手に盛り上がってる」感じなのだ。折角、リスナーとMCの親密な空気が心地よい番組を作り上げてきたのに、台無しになったなぁと僕は思っている。

 「聴いている」でいうと、目覚ましと併用しているFMラジオで音だけ聴いているJOAK-TVの朝の番組も(前にも文句をたれたけど)これは本当にひどい。番組司会者(女性)に、どうも司会のノウハウがきちんと備わっていない気配が濃厚だ。
 喋りの下手糞さ加減は言うに及ばずだ。喋るペースを上げるのと、早口でまくし立てるのとは違う。それはアナウンサーの技術なのだけれど、これが全くできていない。言葉のリズムもデタラメで、聞いているだけで具合が悪くなってくる。声質がよくないのは仕方ないけれども、発声がちゃんとしていないので非常に聴きづらい。そして極め付けに最悪なのが、スタジオに有名人を呼んでの生インタビュー。

 インタビュー、それも生番組でのインタビューであれば、放送時間との兼ね合いで司会の技量が大きく問われるものだけども、時間管理を気にする余りゲストの話を露骨に遮ったり、無理矢理話の筋を「予定通りの質問」に切り替えたり、適当な相槌を打って「次の話題」に持っていこうとしたり、そういう粗雑な司会業がものすごく耳につくのだ。
 画面の映像つきで見ていたら、ここまでの感想は抱かないのかもしれないけれども、音声だけで聴いていると「おいこら司会!お前その態度はゲストに対して無礼千万だろう!!」と言うようなことばかりなのだ。もう、毎日そんな感じだ。

 極端なことを言ってしまえば、生番組でのインタビューならば、どうしてもこれだけは聞かなくちゃいけないネタだけまず冒頭に振って、あとは流れの赴くままに時間のケツだけ気にかけて、話が途切れそうならば適宜上手い接ぎ穂を投げかけてやれば十分なんじゃないのか。あとで編集で如何様にでもなる収録番組のインタビューを構成しているわけではないのだ。
 終わり時間までに納めることばっかりに気が行ってるから、相手の話を聞かない、だから話の流れを上手くつなげない、失礼極まりない司会しかできないんじゃないのか。御年82歳の榊莫山先生に「これからの夢はなんですか」みたいな本人が一瞬絶句するようなシメの質問をしてしまうのではないのか。

 昔、上方落語の天才噺家・桂枝雀がテレビ寄席で、マクラだけで持ち時間を使いきってしまったのを見たことがある。興が乗って興が乗って熱演しているうちにとうとう本筋のネタに入ることなく「あ!落語やる時間がなくなっちゃった!すみませんねぇ」でオチとなった。ハプニングっぽくもあったけれども、枝雀のことだから本当は計算づくだったのかもしれない(或いはそれ自体が一種の「創作落語」だったのかもしれないし)。
 でもいずれにしても、観客(テレビの前のもスタジオのも)腹の皮がよじれるほど笑って大満足だった……筈だ。インタビューだって似たようなもんだと思う。なにも、スタジオ側で事前に準備した予定通りのQ&Aが全てこなされなければいけないってもんじゃないだろう。況してそれがライブならなおさら、質問自体がクソ下らないならさらになおさらだ。

 折角心地よかったラジオ番組の司会者をリスナーから遠ざける一方で、ゲストを失礼に扱うテレビ番組は継続。渋谷区神南の放送局の偉い人たち、ホンマなに考えてはるんやろ。
Posted at 2008/04/07 17:24:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記

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何シテル?   07/24 21:51
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