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惰眠のブログ一覧

2007年05月17日 イイね!

大人の都合、子供の事情

大人の都合、子供の事情日本車の場合、モデル・ライフは概ね4年とされている。きょう出た新型車も、4年後には生産が止まって「先代」なんて呼ばれるようになる。日産の初代マーチが確か7~8年モデルチェンジしなかったり、海外に目を向ければ英国のミニやVWのタイプ1みたいに長く長く作り続けられた例外もあるけども、普通は『諸品力』とか『競争力』なんかが理由になってどんどん改廃されてしまう。

 僕は子供の頃、トヨタのセリカ(初代)が結構好きだった。車の運転ができるようになったら欲しいなあと幼心に思ったかもしれない。ところが僕が本当に運転できるような年齢になった頃には、トヨタのセリカは全然違う車になっていた。彼女をスキーに連れてってゲレンデを走る『流面型』の時代だった。それでも初代が欲しいのならば、仕方ない。プレミアム価格で取引される中古を探すしかない。

 テレビのキャラクター商品の世界は、もっとシビアだ。モデル・ライフが1年しかない。それでも僕が子供だった頃は、好評だった『秘密戦隊ゴレンジャー』や『ゲッターロボ』がリニューアルを受けながらも生きながらえて制作され続けたりしたもんだけれども、世知辛いこのご時勢ではそれも難しいらしい。まあ、それが大人の都合(商売とも言う)ってやつだ。

 ところが子供の側にとっては、そんな都合は知ったことじゃない。『特捜戦隊デカレンジャー』が2年前に放送終了しようが、大好きなものは大好きなのだ。――と言うのは、弟の所の下の子供の話。
 実はことしの正月、お年玉と一緒に2007年版の東映戦隊ヒーローのカレンダーをやったのだけれども、丸まった筒を広げた瞬間、キラキラと期待に輝いていた瞳が一瞬にして曇った。「……でかれんじゃーじゃ、ない」。
 うわぁ……見ているこっちまで一緒になって泣いてやりたくなるくらい悲しそう~~な目で見つめられてしまったよ。参ったなあ……こんな顔されちゃったら、大人の都合を楯にできないじゃないか。

 そんな訳で、何かデカレンジャーのキャラクター・グッズが手に入らないか、そっち方面の仕事をしているツテに頼ってみた結果が、添付の写真だ。感謝千万。
 早速、正月以来の宿題の成果を義妹にメールして伝えたところ(手元端末に弟のメールアドレスが登録されていなかったのだ)、次男坊にさりげなーく商品写真を見せて反応を観察したらしい。すると「うわぁ!デカレンぢャーっっ」。
 うんうん、喜んでくれると伯父さんも嬉しいぞ――と言うか、父が孫に大甘な理由が、もンの凄くよく分かった。まったく、これじゃ親父の所業を笑うこともできやしない。

 子供の事情――というか甥っ子の心情は、僕にもよく分かる。自分の子供時代を振り返れば『鋼鉄ジーグ』が終わって『マグネロボ ガ・キーン』が始まったときには裏切られたような気がしたものだし、現在進行形で絶版車のユーノス500を後生大事に所有しているのもメンタリティーとしては同根のものがある。

 それはそれとして、ふと思ったのだが……弟のところの次男坊がもしオンナノコだったとしたら、将来すンごい悪女になる素質があるぞ。いや、男だってジゴロでやってけるかも知れん。それくらい、あの悲しげ~な瞳は破壊力抜群だった。
Posted at 2007/05/17 18:15:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2007年05月08日 イイね!

でいごの花咲く頃

でいごの花咲く頃いま、沖縄ではでいごの花が咲き誇っている頃だろうか。地元の俗信では、この花が咲き乱れる年は台風の当たり年とされているのだそうで、どちらかと言うと凶兆を意味するらしい。THE BOOMの「島唄」は、そのでいごの花が咲き乱れる歌である。

 シングル・カットされたCDをわざわざ買うくらい僕はこの歌が好きなのだけれども(余程気に入らないと財布の紐は緩めない)、何度か聞いているうちに「なんか妙な曲だな?」と感じ始めるようになった。

 THE BOOMの――というか、宮沢和史の『島唄』は一見、悲恋を題材にした恋歌のようなんだけれども、そこかしこに『死』のイメージが漂っている。「千代にさよなら」「八千代の別れ」と永訣を告げた後に「鳥」と来れば、日本武尊の白鳥を例に引くまでもなく死者の魂を暗喩しているようにしか思えない。

 それに、琉球音階で作曲されたと喧伝された割には、どうもそれとは違う節回しを持ち込んでいる部分があることも不思議だったし、なにより「島唄よ風に乗り――」のサビの部分に何故こんなにも悲痛な響きを乗せるのかも分からなかった。前触れもなく宇宙や神まで持ち出すに至っては、恋歌としては飛躍がすぎる。そう思うと、なんだか沖縄民謡ブームに乗っかっただけの(あえて言えばさほど完成度の高くない)流行歌に過ぎないようにさえ感じられてしまう。――迂闊であった。まったく見間違えていた。これは、恋歌なんかじゃあない。宮沢和史の『島唄』は、沖縄戦で理不尽に奪われた命の痛哭の歌なのだ。

 このことは、宮沢自身が一昨年の夏に新聞の連載エッセイの第一回目(2005年8月22日付朝日新聞朝刊)で明かしているそうだ
 ヤマトが勝手に始めたアメリカとの戦争、明治までは独立の王国であった琉球の意思は、そこには一切介在し得ない。そのヤマトとアメリカの戦争が海を渡って琉球にまでやってきた。
 波のように果てることなく寄せては返す戦闘、そのたびに繰り返す悲しみ。やがて追い詰められた琉球の人々は、ウージ(さとうきび)畑の下に多く存在する自然洞(ガマ)への避難を余儀なくされる。そのガマであまたの集団自決の悲劇が起こったのは、まだ僕らの祖父母の青年時代――ほんのちょっとだけ前――のことだ。

 宮沢はこう書いている。
歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから。

 ああ――そうだったのか。
だから彼は「島唄よ風に乗り――」を、あんなにも痛々しく歌い上げるのか。だから海に、宇宙に、神に、命あるものに、嵐なき永遠の凪を願うのか。恨みでもなく、憎悪でもなく、怒りでもない。ただ深い深い悲しみと抗議が、この歌には込められていたのか……。
 そのことを知った上で改めて歌詞を見ると、今まで感じていた疑問がすべて氷解するとともに、まったく違った『島唄』の姿が見えてくる。いや、そうではない。いままで僕が、この歌の本当の意味を知らなかったのだ。

 しかし宮沢和史自身は、あまりこのことを積極的に語ってはいない。こうした背景をあまり雄弁に語ることはアーティストとして望ましいことと、彼が思っていないからなのかもしれない。
 テレビの番組などでは過去に幾度か語ったようだけれども、宮沢が作詞に至った動機は、繰り返し閲覧の可能な活字ベースではあまり残されていないように見受けられる。――そのことで、結果として、作家の寡黙とでもいべき状況を作り出してしまっているようだ。
 だが僕は、このことに関しては作家自身の、もうすこし積極的な発言を望みたい。まるで宮沢の寡黙に付け入るかのように、彼がこの歌に込めた思いをネガポジ反転したように捻じ曲げたフラッシュ動画を作成して、執拗に公開し続けている下衆がいるのだから――それを見て「感動した」などと言い出す者が後を絶たないのだから。

 『島唄』が引用する君が代の一節「千代に八千代に」は、暗い洞穴の中で自決した二人を歌った部分に登場する。その意味を、いまの時勢だからこそ、宮沢には改めて世に問うて欲しいと思う。
Posted at 2007/05/09 00:00:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2007年04月03日 イイね!

朝の小田和正

朝の小田和正決して熱烈なファンと言うわけではないけれども、僕は結構小田和正が好きだった。「小田和正が」ではなく「オフコースが」と言っても間違いじゃないのだが、このバンドの曲をあれこれ聞くようになる5年も前に、グループとしては活動を休止していた。だからまあ「小田和正が――」と言う表現になるのだけども、それにしても『好きだった』と過去形なのである。

 目覚まし時計と併用しているラジオから、朝の連続テレビ小説の時間になると小田和正の歌声が流れてくるようになった。でも聞くたびに改めて「過去形だな……」と思う。透き通った高音は未だ衰え知らずで素晴らしいけど、僕がフケたせいなのか、歌がぜんぜん心に響いてこないのだ。楽曲が耳を素通りする。
 無闇矢鱈に上下するオタマジャクシは小田の確かな歌唱技術の裏づけがあってこそなのは間違いない。でも、どうもただそれだけの「歌いにくい歌」「覚えにくい歌」「抑揚のついた伴奏つきの台詞」にしか感じられない。

 1~2年前のことだったと思うが、立ち寄ったレコード屋――じゃなくてCD屋だな、今は――の店頭で小田の「自己ベスト」というアルバムを見かけて購入した。青年時代の郷愁に駆られて衝動買いしたのだが、聴いて後悔した。
 意図してそういう歌詞の曲を集めた可能性はあると思うが、あまりにも「ありふれた言葉」のフレーズを使いまわした曲がありふれすぎていて、胸焼けした。メロディーのほうも、朝の連ドラ主題歌同様、音符がジェットコースターのように上がったり下がったりしまくるばかり。
 率直に言って『これが「自己ベスト」なら(小田は)もう終わりだね、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ』と思った。

 十数年ぶりに同窓会に顔を出して、あの頃憧れていた可憐な女の子が草臥れたオバサマに変貌しているのを目の当たりにしてしまったような感じ。ラジオを目覚まし時計と併用し続ける限り、これから暫らく僕は毎朝その気分を味わうことになるのだろう。
Posted at 2007/04/03 13:50:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2007年02月14日 イイね!

詭弁

詭弁東スポやアサ芸なら、あるいは爽快が書くなら構わないが、テレビがやったら許さない――菅総務大臣や、自民党の通信・放送産業高度化小委員会が言っているのは、つまりそういうことだ。

 関西テレビのしでかした、捏造データ番組制作は確かに大きな問題ではあるけれども、だからと言って監督官庁が罰則を振りかざして手を突っ込んできていいものでは全くない。
 報道に拠ると自民党小委の片山寅之助代議士は、放送局としてもイキナリ放送禁止されるより途中段階の処分があった方がいいだろう、なんてコトを言っているが、これは詭弁だ。

 放送法や電波法のシバリはあるけれども、放送された番組の内容(=言論)に関して行政が処分を行うなどあってはならないから、そういう規定が設けられていないのである。
 元々、電波行政の根幹に関わるような、放送行政をぶち壊しに知るような重大極まりない違反事実がない限り、停波、即ち業務停止命令は出せない。当たり前だ。民主国家なんだから。

 総務相や自民党小委がやろうとしているのは、要するに『放送業に関しては言論内容で処罰する』ということ。停波命令までのステップを作るなんぞ、大嘘もいいとこだ。活字媒体は免許事業じゃないから手ェつっこんで統制かけることができないが、より影響力の大きい電波媒体はキッチリ仕切らせて貰うぜと言うわけだ。関テレ問題に便乗して、随分と調子こいた真似をしてくれる。
 小さな政府、小さな政府とバカの一つ覚えのように唱えては、医療をはじめとする「健康で文化的な最低限の生活を保障」するのをやめよう、辞めようとする一方で、こういう辺りには権限の拡大解釈をしてドンドン口を挟むとは大した了見じゃないか。
 新聞さんも対岸の火事とか『ザマぁ見さらせ』みたいな態度でいると取り返しのつかんところまで行きかねないって危機感を持った方がいいんじゃないのかね。

 この手の問題は、なにも監督官庁がしゃしゃり出てこなくても、民間企業には十分な痛手が社会的に与えられる。重要スポンサーである花王の顔に泥を塗って大口の収入を失ったのもそのひとつ。視聴者の信頼を失えば、テレビ局の営業にとって生命線とも言える視聴率にだって影響が出る。
 もっとアクティブに罰を与えたいというのであれば民事での損害賠償訴訟や、詐欺容疑での刑事告発、一部噂されるようなインサイダー疑惑での証取法での捜査、上場企業であれば上場廃止等々、既存のシステムで幾らでも対応可能だ。

 以前、記事内容を巡る名誉毀損の損賠訴訟で、被告になった東スポが「我々の生地を事実だと思っている読者などいない」と強弁したことがあったけれども、生活情報バラエティー番組の内容を無条件で信じる視聴者もどーかなーと思う。

 さっき見たオンライン版の新聞記事に拠ると、今度はフジテレビの『トリビアの泉』に噛み付いてる連中がいるそうだ。真面目なのかバカなのか、呆れてものが言えぬ。あんなの、面白い面白いと笑って見ればそれでオシマイの番組じゃないか。記事にする新聞社も新聞社である。
 この調子だとプロレス中継は勿論のこと、往年の『カノッサの屈辱』だとか『川口浩の探検隊』でさえも捏造番組と槍玉に挙げられかねん。『あいのり』や『鉄腕Dash』もヤバい。矢追純一などは、世間的に抹殺されてしまうだろう。
 ホントかウソか際どいネタを、面白おかしく演出して見せるショーがもはや許されないとしたら、それは随分と息苦しく退屈な話である。
Posted at 2007/02/14 15:48:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記
2007年02月02日 イイね!

敬語の指針

敬語の指針作家の阿刀田高が会長を務める文化審議会が、伊吹文部科学大臣に「敬語の指針」なるものを答申したそうだ。従来、尊敬語・謙譲語・丁寧語と言う判りやすいんだか判りにくいんだか微妙な3分類で定義していたものを、さらに細分化して5分類にすると言う。

 なんだか、分類のための分類と言う気がしなくもない。「敬語が難しい」ってのは、一つにはこの分類に用いる用語が、学問的な正確性は兎も角として日常用語的な感覚からズレてるからじゃないかとも思うのだ。
 四半世紀ほど前に予備校で古文を教わった講師は「動作主尊敬語」と「動作受け手尊敬語」と言う表現をしていた。僕は、実に明快で判りやすい表現だと思う。「うやまう」とか「へりくだる」なんて用語を(しかも漢語で)持ち出すから解釈や分類が面倒くさくなるのだ。

 例えば『話す』と言う動作のとき。尊敬すべき相手自身が話者(動作主)であれば「仰る」を使い、尊敬すべき相手に自分が話しかける――相手がこちらの動作を受ける――場合には「申す」(古語なら「奏す」もある)を使う。
 偉い人が「来る」時には「いらっしゃる」、偉い人の所に自分が「来る」時には「伺う」、と言った具合。

 それはそれとして、オンライン版の新聞記事が紹介しているFAQを見て、ちょっと絶句した。『社会人は尊敬していない人にまで敬語を使わなければならないのか』なんてのが出てるらしいのだ。アホかと思う。
 設問に対して委員会の用意した模範解答が『仮に尊敬できない人でも、その立場や存在を認めようとすることは敬意表現となり得る。その気持ちを敬語で表すことは可能だ』って言うのも情けない。設問はいわば「こいつに敬意なんか表したくない、存在も立場も認めたくない」って言ってるんだから、回答にすらなっていない。大体、こういう回答をするから『尊敬していない人にまで敬語を~』などという馬鹿げた疑問が生まれるのだ。

 敬語を使うのは、自分が相手を尊敬しているかいないかってこととは基本的に関係ない。TPOの問題だ。場を弁え、相応しい態度を取れるだけの教養と成熟度を身につけているかいないかの問題だ。話者の品格を示すものなのだ。
 極端なことを言うと、古語の時代に絶対敬語の対象であった「おおきみ」でさえも、しばしば暗殺の対象になったのである。コノヤロ、失脚サセテ島流シニシテヤルと虎視眈々機会を窺っている対象に対してであっても、TPOの側面や社会的な関係において、敬語は用いられねばならないというだけのことだ。
 無論、敬意をこめて敬語を用いるのがベストであることは当然だけれども、『敬語』がTPOの問題だからこそ「慇懃無礼」という態度が存在しうるのだ。

 現役の作家を委員長にいただいていて、これはないんじゃないのかねぇと肩を落としたくなってしまった。やっぱり文部科学省マターなら、三浦朱門に座長をやらせないとダメだな。彼は「知の格差」拡大にも肯定的だし、小泉-安倍ラインの思想にもとてもマッチしてるんだけど。
Posted at 2007/02/02 16:19:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 芸能・文化 | 日記

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「フェアレデーって本当に呼ばれてたの? http://cvw.jp/b/9433/47108671/
何シテル?   07/24 21:51
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