
先月の終わりごろから既に3回も
エントリーに上げている行きがかり上、やはり節目節目には所感を書き残しておこうと思う。奈良の大淀病院に入院していた妊婦が脳内出血で亡くなった事案で、遺族の男性は病院と担当の医師を相手取って損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こし、その第1回口頭弁論が25日に開かれた。その話だ。
外野に過ぎない僕なんかは、よく新聞なんかで見かける「訴状を読んでいないのでコメントは差し控える」とするべきなのかもしれない。報道を通じて知ることができるのは、所詮ハイライト(もしくはダイジェスト)に過ぎないからだ。
それでもダイジェストを通じて見えてくるものもあるわけで、その前提と限界を弁えた上で、敢えて僕はこう結論付けたい。
こんな訴訟は、起こさせるべきではなかったと。
先日、
たくぞう@GDBさんのエントリへのコメントにも記したけれども、僕は原告の代理人である石川寛俊弁護士の「罪(敢えて、こう断言する)」は重いと考えている。ネット上の検索で分かる範囲の情報ではあるが、同弁護士はスモン訴訟や薬害エイズ訴訟にも関わった経験を持つ、所謂「医療過誤」訴訟のエキスパートである。複数の
本も出していて、まずはカルテの証拠保全をするようアドバイスまでしている。
その石川弁護士が、本件訴訟においては、マスコミ向けにも大いに訴求点になるはずの有無を言わせぬ証拠である大淀病院のカルテ記載内容を楯にしている形跡がないのは、いかにも理不尽だ。
カルテの記載内容に一定の信頼が置けることは、ネット上にそれが「流出」したことを同弁護士が公の席で「個人情報の流出だ」と問題視したことで、逆説的に担保されたと考えられる。そして、その内容についてはネット環境を持つ数多の医師や医療関係者が(まるで学会での症例研究さながらに)検討を加えている。
タイムテーブルは『健康、病気なし、医師いらず』の「
奈良の産科医 詳細2」に詳しいので割愛するが、原告側(と、何よりマスコミ)が問題視する「仮眠を取った」のは午前1時37分に脳に病変が起きたことをうかがわせるような症状が現れて「命を救うために一所懸命努力しなくてはいけない状態」になるよりも前、まだ通常の出産の過程にある時だ。
確かに「急変」した時点(前出の神経内科医師の見立てでは脳出血が発生した時点)で大淀病院の担当医は子癇発作と診断しているのだけれども、その一方で13分後の午前1時50分には転送が必要だ(つまり大淀病院の体制で対応できるはにを超えている)と判断し、転院先の打診を始めているのである。
僕は医療の門外漢だが、ここから読み取れるのは「精一杯の努力をしている医師の姿」であって、その逆ではありえない。そして、医事訴訟のエキスパートと思われる石川寛俊弁護士に、そのことが読み取れない筈がないのである。
また、担当の産科医は午前1時37分に患者の状態を子癇発作によるものと「誤診」したあと直ちに(13分後内外)他院への搬送を決断し、その作業に着手している。
この時点ですぐさま搬送先が見つかれば(患者の病状の深刻さを全く度外視すると)救命できた筈だとしても、
受け入れ可能な病院が県内になく、午前4時30分ごろまでの3時間近くにわたって積極的治療を施せなかったことは、当該医師の責任で解決のつく範囲の事柄ではない。
有り体に言って、誤診であろうがなかろうが、搬送受け入れ先が見つからないことに変わりはなく、この点では「誤診」を患者死亡と関連付けるのは、僕は困難だと思う。
医療過誤訴訟に詳しい弁護士であるならば、少なくとも上記のような状況が確認できる以上、医師や病院の責任を問う訴訟は、思いとどまらせるべきだったのではないか。遺族と病院・医師の間に感情的な対立が生じていて話し合いのテーブルにつくことが困難になっているのならば、その仲立ちをすることが代理人に求められる第一の仕事じゃないのか。それで真実が明らかになればお仕舞いになった話しである。
きちんと事実関係を整理し明らかにして、その上でなお過誤があるのならば損賠訴訟でも何でも起こせばいい。しかしこの案件に関する限りは、それこそ石川弁護士の得意とする「カルテ」が、医師にミスがなかったことを裏付けているように見えるし、それにも拘らず公訴提起に付き合った同弁護士の対応を僕は「罪」だと思う。
しかしながら他方で、これは今後裁判の中で原告側が主張してくる可能性があると思われるのだが、仮に午前1時37分時点の臨床所見から「正しく」脳内出血と診断していたら、どうだったかと言う問題がある。
ネット上で見る限りでは、臨床例の少なさや症状の類似性から「正しい」診断が非常に難しいことが指摘されており、また脳の深いところで起こった出血なので結局救命することはできなかっただろう(だからその可能性を論じても意味がない)とする医師の見解が大勢を占めるように思われる。
そのことを敢えてひとまず棚上げした場合には、①大淀病院の脳外科医を緊急に呼び出して施療できた筈ではないか、②もっと早くに適切な搬送先を探せた筈ではないか、それらの可能性が潰えたのは医師の「誤診」に原因がある――と言う議論を持ち出せる。
或いは――起こらなかったIFを云々しても始まらないが――上記のような状況展開があれば、遺族男性は「妻は助からなかったが、一所懸命努力していただいた結果なので仕方ない」と受け入れられたのかもしれない。
僕が心配なのは、こういう理屈を持ち出してきた場合、もしかしたら裁判所はこの主張に(部分的にでも)理があると判断するかもしれないとの疑いを拭いきれないからだ。全体としては死亡との因果関係や医療ミスの不存在は認めつつも、子癇と「誤診」したことだけはペナルティを科してくるかも知れない。杞憂であればいいのだけれど、こういう理屈は技術的には多分成立しうるとも感じるからだ。
僕の感覚では、これは医師や病院を被告にするのではなく、行政の不作為を問う訴訟を提起すべきケースだ。深夜に高次医療を提供できる病院施設に患者をスムーズに搬送できる体制作りを
怠った自治体や、そのような状態を容認する
国の医療行政の過誤をこそ問題として扱う視点を持たないで、なにが法曹か。
スモンや薬害エイズの訴訟にまで関わった経験を持ちながら、個々の医師が対応できるレベルを超えたところで起きた問題を、医師個人や勤め先の病院に負わせてこと足れりとする姿勢では、過去の経歴が泣くというものだ。
最後に、改めてもう一度メディアの責任にも言及しておきたい。
「18の病院が搬送を
拒否」したなどと言うのは、個別の医師がミスをしたとかしないとかの微視的事象よりも、『社会の木鐸』にはよほど重大な問題だった筈だ。
ひどいことを言うようだが、大淀病院事例は『所詮』気の毒な女性が一人亡くなった『だけのこと』に『過ぎない』。だが、県内18の病院が深夜の重症患者の搬送を受け入れることができず、県外に患者搬送をしなければならなかったと言う状況は、問題がこの事案で亡くなった女性一人に留まらない可能性があることを意味している。しかも、それが繰り返し発生する可能性を。
ひと一人の悲しみを慮ることのできない冷血なジャーナリズムは不愉快だが、情緒のぬかるみに足を取られて近視眼に陥っているようでは役割が果たせない。駆け出しの記者がぬかるみにはまるのは仕方ないかもしれないが、それを監督する立場のベテランまでそれでは、全国紙の看板が泣く。
Posted at 2007/06/28 19:30:13 | |
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