極普通の家庭だった。
統計の標準世帯というやつか。
会社員の夫、パートの主婦、そして中学1年の長女と、小学3年生の長男の家族。
本当に極一般的なモデル家庭であった。
妻は誰よりも早く起きて、夫と長女の弁当とともに、家族の朝食を作る。和食が定番で、ごはんこそ前の晩から予約炊きにしてあるが、焼き魚と卵焼き、ほうれん草のおしたしに、味噌汁と手際よく
和定食の朝ごはんを作る。
長女の弁当も、クラスの同級生から羨まれるような手の込んだもの。冷凍食品は使わずに手料理が一目で分かるかわいらしいお弁当である。
それだけの料理するのだから、子供たちを起こすのは夫の役割だ。「お母さんがご飯を作ってくれたぞ。」「早くするんだ。遅刻するぞ」
子供たちはそれぞれの部屋から目を擦りながら起きてくる。当然トイレや洗面所は我先にと競争になる。
「お姉ちゃん早くしてよ。顔が洗えないよ。」「だめだめ。昨日きちんとドライヤーしたはずなのに、こんなになっている~。
やだももう。全然治らない!」「もういいよ。僕、先に食べてくるから」
夫はもうすっかり朝食を済ませて、身支度を整えて玄関先で靴を履いている。「いつもより早いけど、いってくるよ~。その分今夜早く帰るから。予定通りバーベキューだよ。いってきま~す」
「いってらっしゃ~い」
「さあ、あんたたちも早くなさい。遅れるわよ」
「さっきお父さんが今夜はバーベキューって言ってたけど、お肉いっぱい食べたいな」
「お母さんが買出しするの? 私、今日はテニス部の練習サボって、買出し手伝いたいな」
予定通り、夫は早く帰ってきて芝生の庭にグリルを出して火を起こした。、妻と長女が買出した食材を炭を起こしたグリルの上に並べて、みんなで楽しく食べた。バーベキューのあとは役割だった長男がグリルに水を入れて火を消した。夜が更けて少しか風が出てきたので、デザートはリビングで摂ることにして、灰が飛び散らないようにグリルは自宅横の倉庫にしまいこんだ。
終電帰りの近所のサラリーマンが寒い晩秋の深い夜の暗い道を歩いていると、遠くにぽっかり明かりが見えた。訝しく思いながら家路を急いだ。
そしてサラリーマンは、その家族の家から火の手の上がっているのを見た。
慌てて消防に電話をする。
火元は倉庫のようで屋根を突き破って炎が高く上がっている。もちろん倉庫全体が赤く炎に包まれている。
脇に立つ自宅にも燃え移っていて、その1階から2階へと炎が壁を舐めていている。どうやら、火の手は住宅の内部にまで及んでいるようで、キッチンの出窓からは黒い煙がもくもくと噴出していた。
サラリーマンは、家の外から家族を呼んだが返事がない。寝入っているのか?玄関ドアの当然鍵がかかって開かない。サラリーマンは 呆然として立ち尽くした。
消防車が到着するまでに、夫と妻が出てきた。2階の寝室で寝ていたのだが、部屋に漂う煙と匂いで目が覚めて、外の火の手を見て飛び出してきたのだ。
外に出てようやく事態が飲み込めた。倉庫から出た火が自宅の燃え移ったのだった。
まだ子供たちがそれぞれの部屋に取り残されている。
助け出さなければならない!
ところが夫婦は決定的なミスを犯していた。寝室に入ってきた煙を外に出すために、換気をするために寝室の窓を開けっぱなしてしまった。
それが2階へ上がる階段を「煙突」にしてしまった。瞬く間に炎は階段を使って2階に駆け上がり、
寝室の窓から出ている煙に燃え移って勢いよく窓から噴出した。フラッシュオーバーだ。
こうなるともう手がつけられない。ようやく消防車が到着して、ポンプ車の貯水だけでは足らず、防火水槽からも汲み出しはじめた。
夫は「まだ子どもがいるんだ。助け出さないといけない」と繰り返し叫ぶ。
妻はもはや失神寸前で、何を叫んでいるのか分からない。泣いているのか怒っているのか、本人も周囲も分からないほどに。
「もうだめじゃあないか」心無い野次馬から歎息が漏れた。
これを夫は聞き逃さなかった。
「何を言っているんだ! そんなのわからない。あの子たちを助けられるのは、僕だけだ。」
「僕が行くしかないんだ!」
夫はそう言って、野次馬の誰かからタオルを奪って全身ともにスブ濡れになって
タオルを口に当てて、静止する消防隊員を振り払って炎を中に飛び込んだ。
野次馬たちは、「やめろ!」「無茶だ!」と口にするが、ただそれだけのこと。
半狂乱の妻はことの重大さもよく理解できず「あなた~!」と一言叫んだだけだった。
やがて空が白じんで来るころになってようやく火の手は収まった。もはや野次馬は誰もいない。
消防隊員が入っていく。会談や2階の床を踏み抜かないように慎重に歩を進める。
長女の部屋から3人の遺体が見つかった。
夫は炎を浴びながら2階階段正面の長女の部屋に入った。先に長女を起こして逃がして、次に長男の部屋に行き負ぶって逃げるつもりだった。
しかし長女は既に意識を失っていた。長女と長男二人を下げることは不可能だと考えた。長男の部屋に行くと果たして長男も意識を失っていた。「もはやこれまで」夫はそう考えた。
いや、飛び込むときからそう考えていた。
子供たちを残して生き残ったとしても、この先生きる意味がない。子供たちを救えなかった後悔に苛まれて生きていくことは到底できない。
子供たちと運命を一緒にしよう。
そうして火に飛び込んだのであった。
そうして夫は長男を長女の部屋まで担いで二人を並べ、その上に覆いかぶさった。
「済まない。お父さんはお前たちを救えなかった。許して欲しい」
「お母さんには悪いが、お父さんはお前たちをこうやって思い、守って、一緒に一生を終わることにしよう。」
「そして次の世界でまた楽しく暮らそう。お父さんは夢見ているよ・・・」
妻は警察から遺体のようすを聞かされた。
「私には勇気がなかった。子供たちを救う勇気がなかった。生き残ったことが罪なのだ。」
あの夜の様子が繰り返し夢に現れる。
あのときに見聞きしたことが、あのときには理解できなかったことが、克明に夢に映し出される。
煙のために寝室を飛び出したこと。家が見る見るうちに炎に包まれたこと。実は半狂乱になった最中にも、野次馬の声や夫の行動がしっかりと認識できていたこと。怖くて何もできなかったこと・・・。
彼女はすっかり心を病んでしまった。3人の3周忌の法要のその夜に自ら命を絶った。
「遅くなったけれど、これから行きますね。」「待っていてくれますか」
誰も彼女を非難できないだろう。
病める彼女の心に誰も手助けをしなかったのだから。
それは炎に包まれる家に飛び込めなかった、この妻と同じことである。