
なんだかんだで、快適なベッドで翌朝まで超絶爆睡だったのは、それまでの法事疲れが出たのでしょう。そういうことにしておきましょう。(笑
さて、今日はまず、行きたいところがあるのです。
それは、青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」。
ご存知のように、1988年の青函トンネル開通により、青函連絡船はその役目を終えて全船退役したのですが、そのうちの一隻、八甲田丸は青森桟橋に係留された状態で保存され、現在も博物館として見学可能なのです。船好きとしては、これはぜひ見たい。
青函連絡船は函館にも、摩周丸が係留展示されていて見たことがありますが、プロムナードのみの展示で、ほとんど見るところがありません。
それに対して八甲田丸は、実をいうと30年ほども昔に、青森を訪れた際にいちど見学しているのですが、ブリッジから機関室、車両甲板と公開範囲が広く、なかなかに興味深い展示だったので、ひさしぶりにまた見たくなったのです。
ということで、さっそく向かいました。と言っても、宿が青森駅のすぐそばだったので、数分もかからず行ける…はずだったのですが、うっかり青森ベイブリッジを渡ってしまい、戻るのにもあちこち曲がらねば行けず、ナビに案内されて15分ほどもかかって、ようやくたどり着きました。これならクルマを駐車場に置いたまま、歩いて来た方が早かった。(笑
黄色い船体は、36年、いや就航期間が23年あったので、実に59年前のものですが、ペイントの色褪せこそあるものの、堂々たる佇まいはそのままです。
その昔の学生時代、当時は実家が北海道にあり、帰省する際に青函連絡船にはなんども乗船しました。青森までの移動は鉄道でしたが、それよりも旅ができること、青函連絡船に乗れることが楽しみで、思えばあの頃から船好きになったような気がします。
受付を済ませ、さっそく中へ。ここはJAF割が効くので、料金はたったの460円。こんな単価で維持費が出るのだろうかと、いらぬ心配も。
そうそう、こんなリアルな人形で、昭和時代のジオラマがあったっけ。
解説ビデオによると、これらのジオラマは、この展示のために作られたものではなく、1992年にイタリアの国際博覧会に展示するため作られて、青函連絡船の僚船だった羊蹄丸内に飾られ、船ごと海外で展示されたもの。そして帰国後に、東京の船の科学館で展示され、羊蹄丸がついに廃船となる際に、それらを八甲田丸に移設したのだそうです。
なるほどかなり精巧に作られているので、確かにこれは保存しないと勿体ない出来栄えです。
昭和当時の青森の状況を伝える意味でも、なかなかに貴重なものだと思います。
船内は、座敷席こそ展示スペースになって現存しないものの、グリーン椅子席はそのまま残されていました。
その昔、どうしてもこのシートに座ってみたくて、自分の小遣いでグリーン席代を出して乗った記憶があります。
ここでは前方のモニターで、当時の貴重なビデオ映像が鑑賞ができるのですが、上映時間がなんと2時間もあるので、さすがに30分ほどで切り上げました。
椅子の一部は経年劣化で使えなくなっていたので、ここもいつまで展示されるのでしょうか。
続いては操舵室です。
1954年の洞爺丸台風での大事故以降、第2世代ともいうべき青函連絡船は、当時、技術の粋を集めてつくられた、最新鋭船でした。その技術は後に民間のフェリーなどにも広く使われ、大型船のスタンダードになったとも言われています。
レーダーをはじめ、当時の最新鋭機器も装備されていました。機関調整のレバーでしょうか、なんとなく鉄道っぽい感じがするのは、青函連絡船ならではでしょうか。
そう言えば修学旅行も北海道で、青函連絡船の操舵室の見学がありました。いい思い出です。
こんな大きな船体ですが、舵輪は意外と小径で、大型トラックのそれよりも小さいほど。
操舵室の後方には、無線室があります。
思えばこれで冬の津軽海峡を定時運行していたのですから、かなりの技術だったはず。
操舵室からは甲板に出ることもできますが、なんと煙突の上が展望台になっています。
煙突内部って、こうなっていたのか。某宇宙戦艦ではないので、ミサイルを発射したりはできません。(笑
後部甲板にスペースが空いているのは、就航後期に改造されて、乗用車のみ12台が積めるようになっていたから。鉄道からクルマへ移動手段が変換していった時代に合わせようとしていたのです。
でも、フェリーではなく青函連絡船にクルマが積める、というのに憧れがあり、いつか自分のクルマを積んで津軽海峡を渡りたい、と思ったものでした。ついにかないませんでしたが。
ちなみにクルマは函館ではスロープで、青森ではエレベーターで乗下船をしていました。
エレベーターで1階甲板に降りると、この船の最大の特徴、車両甲板に出ます。
車両と言ってもこちらはクルマではなく、鉄道のそれ。甲板にレールが敷かれていて、直接鉄道が乗り入れできるのは、世界的にも珍しいのだとか。
当時の客車も置いてありますが、実際には貨物車両が積まれることがほとんどで、客車が乗ることはまれだったはず。
車両の固定は連結器。
もちろん、現在のフェリーにトラックが乗船する際のように、ワイヤーでも固定されていました。
最後尾のゲート。
沈没した洞爺丸の時代まではこの後部ゲートがなく、後部甲板が開放されたまま航海していました。蒸気タービン船だった洞爺丸は、後部に低気圧による大波をくらって機関室に海水が入り込み、発電機が停止、その上石炭が流出して釜の火が消え、航行能力を失ったことから漂流して、座礁、沈没してしまったそうです。
その対策に、この時代から機関もディーゼルに進化して、後部ゲートが付けられましたが、夏の穏やかな時は、開けたまま航海することもあったようです。
その機関室。駆動に使われる主機は、V型16気筒のディーゼル機関が8機あり、合計出力は1万2千馬力を誇りました。
ただ、性能重視のあまり、通常、燃料は重油を使うことが多い大型船舶にあって、軽油が使われていたため、運航コストはかなりのものだったとか。就航後期には、燃料節約で主機を何機か停めての運用もしていたようです。この燃料コストの高さが、青函連絡船が生き残れなかった要因のひとつとも言われています。
一部はロッカーカバーが開けられていて、バルブスプリングが見えています。船舶用エンジンなので、動弁系式はよくわかりませんが、当時としてはかなり贅沢な機構かと。
主機は船の推進力にのみ使われるので、別に発電専用のエンジンが積まれています。船は操船、通信に電気が重要なので、こちらも直列8気筒のディーゼルで、予備を含め3機搭載されています。
なにしろ造られたのが1950年代です。当時はまだ国鉄時代なので、国の威信と国策だったからこそ、こんな相当に進んだ船の建造が可能だったのでしょう。
この可動橋を含め、2011年に機械遺産に登録されているとか。
ペイントこそ褪せてはいますが、船型は今見てもきれいですね。
しかしやはり維持管理費用は莫大なものであることは、想像に難くなく、HPでは寄付を募っています。
今は当時関わっていた方とか、乗船した経験から思い入れの深い方も、特に青森では多いのではと思われますが、今後世代が変わっていった時にどうなるのだろうとも思います。今回もういちど見たかった理由もそこにありました。杞憂に終わればよいのですが。
以前見学した時は、船員室の一部も公開していましたが、閉鎖されていました。各部も老朽化は進んでいくので、いつまで見られるのでしょうか。
それにしても、見学料金が安すぎるような気がします。今なら倍くらいしても、あの内容なら文句は出ないのでは、と思うのは船マニアだけでしょうか。(笑
てなことで、かわねこは予想通りたっぷり2時間堪能しました。朝いちで来て正解です。
さて、ここからは竜飛岬へ向かいます。
国道280号線で北上しますが、並走のバイパスではなく、あえて旧道を走りました。こちらのほうが、町並みが見えて好きなのです。
蟹田では、ちょうど停泊しているむつ湾フェリーが見えたので、ターミナルに寄ってみました。
ふだん乗っているフェリーからすると、かわいいサイズですが、むつまで所要1時間の生活フェリーです。
実は下北半島へ行って、むつからここまで乗船することも考えたのですが、クルマごと乗ると、軽自動車でも8000円台となかなかのお値段なので諦めました。
駐車台数が多いので、クルマを置いて人だけ乗船するパターンも多いのでしょう。
ターミナルビルが意外と立派で、展望塔もあるので登ってみました。
しかしエレベーターはなく、階段のみ。しかも134段。日頃の運動不足が実感できる段数です。(笑
天気が良かったので眺望も望めましたが、津波災害時の観測目的もあるのかもしれません。
降りてくると、2階の階段前にずいぶんと重圧な扉があります。
人が出てきたので、会議室かなにかかと思ったら、意外にも中華料理店でした。
時刻は昼すぎ。なので、ここで昼食を摂ることにしました。
ここまでの道中あまりお店がなく、コンビニすらターミナル前でやっとあったので、ここで食べておきたかったのです。
店内は他のお客さんがいたので撮影しませんでしたが、扉のイメージと違って普通のというか、ちょっと社員食堂っぽくもある、町中華的カジュアルな印象でした。
常連さんも多く、おそらくはターミナルビルの社員食堂の役目もあるのでしょう。
焼きそばに惹かれたのですが、残念ながら品切れだったので、ネギラーメンを注文。
これがいかにも町中華のラーメンという味わいで、ネギがいいアクセント。美味しかったです。^^
ラーメンに満足して、さらに北上を続けます。
つづく