
小林秀雄の対談集を読んでいます。
その中で、五味康祐氏との対談では、音楽談義と題名がつけられて、再生音の音質について、から、対談が始められています。
昭和四二年(一九六七)五月、『ステレオサウンド』掲載
掲載日は、1967年となっていますから、現在から56年前。
再生音の音質についての、五味康祐氏の疑念。
それは機械の出している音を、千人千様にして聞こえているのではないか、聞こえている音を評価しているのは独断ではないのかという不安を、小林氏にそれとなく投げかけます。
これについては、Webにアップされている五味康祐氏の随筆において、彼自身が答えを述べているのです。
ドイツの技術者は、どのような再生音を出したかったのか。
それは、コンサート会場の、特定した客席で聞くことができる音、だと。
さて、五味氏は、なかなか質問に応じていただけない(企画者側の意図した答えを導こうとしている気配が強いためか)小林氏に対して、粘り強く話を続けていきます。
「五味 ぼくらが機械から聴いている音は、生に近づけばいいことにこしたことはないでしょうけれど、ナマに近づこう、近づこうといっているうちに、間違えたところで耳が同化してしまっているのか。それがこの頃、気になって仕方がないんです。」
と、五味氏が、世間一般を理由にして聴いていた内容を、自分のこととして話し始めると、ようやく小林氏は口を開き始めます。
「小林 鳴るということ、或る蓄音機が或る一つの音を出すということは、考えていけばやっぱり一つの歴史的な事件ですよ。二度と繰り返されないよ。きみは二度と繰り返すと思うわけだよ。
五味 そうです。持続させよう・・・。
小林 いや、持続しないよ。たった一回の事件ですよ。ナマの演奏というものは一つの事件でしょう。これは明瞭ですわ。蓄音機は何回でもくり返すと錯覚しているんだよ。ところが蓄音機だって、非常に微妙なメカニズムでしょう。二度と同じ音出さんと割り切ってはいかんですかな。あたしは、あんたほど神経質じゃないから・・・あなたはそういうことがほんとうに、面白いんだね。」
オーディオマニアというものがどういうものなのかを把握して、その気持ちの拠り所をほぐすような、小林氏の言であります。
機械の問題、聴く側の問題、聴く側の思想の問題として別で考えると、おおらかにもなれそうなものだと言っていると私は考えます。
「小林 いったい、ステレオというものは、大体メカニズムの進歩の限度にきているのですかね。それともどんどんよくなる可能性があるものですか。」
という問いに対して、五味氏は、スピーカーの材質が紙から進歩していないことに対して、アンプとかカートリッジの方で長足の進歩を遂げている内容を話します。
「五味 (中略)誰かがぜんぜん別のスピーカー方式を考案すればもっとよくなるに違いない。しかし、どんなにいいといったってナマの音にはかなわない。
小林 ナマの音というのを、もう少し考えたらいいじゃないの。ナマの音なんて存在しないかも知れないよ。
五味 だって現実にあるんですから。
小林 いや、客観的に存在しているのは、物質の振動だ。どういうものか分析するでしょう。何サイクルのものが・・・。
五味 サイクルとは関係なしに、トランペット一つにしたって、パッと鳴り出すと・・・。
小林 そうです。トランペットの音質を感ずる。音質というものを聴いているんだよ。ナマの音というのは、感受される質なんですよ。(中略)」
ここで小林氏は、ナマの音を聞くのは、それは態度であると言います。
きょうは蓄音機じゃない、たしかに実物を聴いているという態度があるんだよ、と。
なぜ小林氏がこのような発言をするかと考えると、それは五味康祐氏を通して見えるオーディオに気狂いしている人達の、偏重したその姿勢に疑念を抱いているからではないかと、私は思います。
それに対して五味氏は、
「五味 あのね、ビクターがナマとレコードと聴きくらべて、何百人やらに聴かせたら、十何人しかわからなかったというのは、その十何人は、いかなる場合に聴いてもけじめを聴き分けるでしょう。しかし、商売というのは、十何人を相手にしているんじゃなくて、だまされる何百人を相手にしているわけでしょう。はじめからだまされるものとして作られているんです。もし、ぼくらが選ばれた十何人だとすると、どこまで・・・。」
と、心情を吐露してしまいます。
この心情とは、ステレオビジネスというものは、けじめを聴き分けられない、だまされる何百人を相手にしているということと、再生音の評論家は、だまされる人向けに作った機械を相手に仕事をしているということ。
「小林 だけどあなた、相当やられているよ。ステレオの臨場感、リアリズムというようなことにやられているんですよ。それはなんともいえず一つの魅力がある、原音というものは、そんなものはないんですね。ほんとうにないんだけれども観念として居座るね。」
この小林氏の発言は、真をついているのだと、私は考えます。
録音から再生までの道筋を、素人の私が推察をします。
私のすることですから当然、誤りがあるでしょう。
録音した環境があり、それらの音を整理し、編集する作業がある。
私たちが聞くのは、その編集した音、つまり、編集者が意図した音を聞くことになる、ということのはずです。
その編集した音が、どこまで忠実に再現(再生)をされるのか、おそらくここが、肝要になることであり、けじめを聴き分ける、そのことにつながるのではないだろうかと。
素朴に考えれば、オーディオの本質的な機能というのは編集者の意図した音色を、文字通り、再生することができるかどうか。
そして生の音であるか否かは、編集者の作業の方向性に影響されるものでありましょう。
このような経過を考慮すれば、小林氏の注視点は、真をついていることにならないでしょうか。
原音というものはなく、編集者が意図した音を聞くことになる。
ということは、原音とは、編集者が意図した音を再現できている音、と考えられます。
「小林 そういう意味ではナマの音とステレオの音を区別することはできないよ。だってそのときに、人間はナマであるか、ステレオであるか、考えているわけなんだよ。試験台に立たされている事を意識しているんだ。だけど音楽会に聴きにいく人は、そんなこと考えていないよ。楽しみにいくんだよ。ただ楽しいというナマの音と、試験されるナマの音とは違うでしょう。試験される大ていの奴は試験に落第する。ステレオをそこまでもっていくことは可能なのよ。だから可能になっているでしょうが。それでケチをつけている。いつでもケチをつける。これはステレオに対するきみの態度の表れだ。態度が表れるのだ。」
私としては、ここに再生音技術の帰着点があると考えます。
それは、聞いている音(音楽)が、ナマであるとかステレオであるか、機械を試験台に立たすことができるだけの機能を有していること。
この事を、生音の再生というのならばそうですし、原音再生というのであればそうでしょう。
ケジメがあるとは、この機能の線引きではないか。そしてそれは、日本においても1960年代後半には、なし得ていた技術、なのではないかという、私の妄想です。
「小林 音なんですよ、聴いているのは。音楽ではない。あなたがそのときに聴いているのは、楽音というより雑音だと言ってもいいかも知れないよ。雑音がないかと耳を澄ましている。そういうふうに分析的に聴くのはだめだ。スピーカーが雑音を出さなくなって、楽音だけを上手に出すようになれば、もう安心という事になる。これを音楽として聴く判断力がお留守になるんだ。ハイドン聴こうと思うからハイドンなんで、雑音がとれたらハイドンになると思って、雑音をとってもハイドンにはならないですよ。(中略) 音楽的な耳というものは、音楽の記憶を満載した感情をもっているものだ。この記憶のないステレオ・システムの音楽分析に心を奪われるから、ぼくらの音楽感情にいろいろ不都合を起こすのは当然のことなんだ。ステレオ気狂いはみんなそこに入っているんだ。音楽を文化として聴いていない。音として考えている。ステレオさえよければ、快い音を与えてくれる、音楽をそういう音として扱っているとしたら、こんな傲慢無礼なことはないよ。」