書いていたら、車の話が出て来なくなりました。
そんな時もあるということで、長文になります。
今季の大河ドラマは、地元の歴史の偉人が主役になっていますので、興味を持って見はじめたのですが、前述した通り、時代劇の服装を着た現代人の「物語」であることに、うんざりしたので、あまり身を入れることは、なくなりました。
三河と尾張の境界の付近に住んでいる身としては、三河文化よりも、尾張文化(そのようなものがあるとすれば)に親近感を抱いているのは、父方の出自がそちらであるからでしょうか。
地域的なものもあると思われます。
無論、同世代や下の世代の人たちが、三河人だから、尾張人だから、とか、言っている姿を見たことがないことが前提です(笑)
高校も、より三河の境界に近い地域でしたので、初めて、明瞭に、「じゃんだらりん」を聞いた時には、カルチャーショックを受けたのを思い出します。
そのような、無意識的な尾張文化に属しながら、赤出しの味噌汁が好みであるのは、これはなぜでしょう?
そんな私の好きなうどんの出汁は、関西風の白醤油ベースの薄味だったりします。
味の好みというものが、自然選択的に作られるものであるのか。
それとも、生活環境に左右されうるものであるのか。
同居している家族の嗜好の影響も十分あることでしょうし、自分の稼ぎで、自分の好みの食べ物を口にすることができてからの、嗜好の形成も考慮できるでしょう。
ここ数年から現在に至るまでの私の食事内容は、質素倹約を目指しているわけではない、質素な食事となっています。
例えば、ここ一週間の朝食の大半は、茶碗に半分のご飯と、肉味噌、たくあん、煮豆とふりかけ、です。
寒くなれば、ここに、味噌汁(出先で仕入れた各地の味噌)が加わります。レンチンの湯豆腐にも登場してもらうことになりましょう。
これは質素倹約ではなく、私の稼ぎに相応した、食事内容となっているのには、間違いありません(苦笑)
時々、月に一度程度、外食でラーメンを食べるくらいが、高カロリー摂食の機会となっています。
そんな私の貧素系食生活でありますが、メリットもあるのが、味付けに対してのセンサー感度です。
食べた食事の味付けがわかる、よりも、常ではない状態、例えば、薬を服用したとか、上述した通り、ラーメンを食べた次の日の味覚に、変数が加わるとわかる程度のセンサー感度が、上昇しています。
薬は、何年かに一度、服用することがあるかないかでありますが、ロキソニンなどを服用した時には、明確に、舌の味の感度センサーが狂っているのがわかります。
何を食べても、味の因数分解がしづらい。低解像度の写真を見ているような印象と言っていいでしょうか。味と味との輪郭が、潰れてぼやけてしまったようになります。
ラーメンを食べた次の日は、塩味が強く残っているのか、塩っからいモノを食べても、普段感じているしおっからさの、塩味を感じることができません。
と、このように自分の生活一つを考えてみても、味覚というものは、随分と、普段の生活というものに、強く影響を受けているものだと思い巡ります。
本当にフラットな味わいの判断ができるのであろうか、というのは、専門家にとっては、余計なお世話だということになるでしょう。
このような変数を加えた上で、客観的な分析をされているわけですから。
ですから、味の、「好む好まざる」ということについては、私は、どうも、表現的に取りづらい、「好む好まざる」と言った時点で、それは、「趣味の問題」だということで、議論を止める役割を担わせることになります。
例えば、20年前の食生活の私と、今の食生活の私とでは、摂取カロリーも、濃い味付けの食事の量も、雲泥の差になっています。
その過去の私と、今の私と、同じ味わいのものを口にしても、好む、好まざるの評価が、異なるということは、想像に難しくありません。
おそらく、味付けのわかりやすい、塩味、甘味、脂由来の旨味の項目が、突出しているようなものを、「好む」と表現していたでしょうし、そのような食べ物に合う清酒というのも、好みになっていたことでしょう。
さて、私個人で考えていたことを、社会に援用して考えてみると、その当時の社会状況に即した食べ物、酒というものが、好まれる傾向にあった(売れ筋となった)と考えるのは、大きく的を外すことではないでしょう。
最近口にした清酒で、好むと感じた清酒に、同世代の製造者が醸した酒がありました。
爽やかな味わいで、喉を通った後も、甘ったるくなく、すっきりとクリアな印象。
類似するような味わいの清酒は、今までもあったはずでありますし、私が好む清酒の方向性としては、味わい複雑、すっきりとした喉越し、食中酒として機能する、というもので、爽やか系の酒質というのは、飲むシーンの幅が限られるのではないか、という印象を持っていましたが、食前、食中、食後と、スイスイと飲めてしまいます。
もうひとつ、私の興味を清酒に向けさせた酒質の銘柄があり、実はこの酒質は、爽やか系とは正反対な、味わいたっぷり、なのに喉越しのキレ良く、食事との相性が良い、というレベルを超えて、旨味を倍増させてしまう酒質でありました。
残念ながら、杜氏が他の蔵へ移り、移転先のその作った酒質は、全く正反対の、爽やか系(そういえば爽やか系だった)であり、食事の旨みを倍増させるような機能を持ち合わせることがなく、個人的に、勝手に期待してそぐわなかったことに、残念に思えた酒質でありました。しかしながら、日本全国的には「売れ筋」の味わいでありましょう。
両者とも、世代の近い杜氏の醸した酒でありますが、このように、世代間での好む味わいという傾向性も、あるのではないかというのが、現状の観測です。
逆に考えれば、感得した味わいというものには、作り手においても、受け手においても世代間の偏差というものを考慮しても良い、と。
資本家の要求というものに、杜氏の好むと好まざるが反映されないというのは、悪いことなのか。
後者の杜氏が、どちらの酒質を好んでいるのかは、存じませんが、ただ、このような爽やか系の酒質でありながら、開栓後、二ヶ月ほど常温で放置した後に飲んでみても、味わいのバランスが崩れていなかったのは、冷たく冷やして開栓したばかりの清酒の味わいだけでは、本当のことはよくわからない、ということでありましょう。
冷やした状態で開栓をして、口にした印象よりも、数日、数週間、数ヶ月後の味わいに、深みも複雑さも出てくる場合は、多々あります。
ただし、この反対もあります。
蔵元が、三ヶ月を目処に、回収をしてしまうような清酒もありますし、そのような酒質設計をして表現する味というのも、あるようです。
私としては、そのような「敏感」な清酒に関しても、同様に、開栓後、常温放置をするというのは、よく行うことです。
劣化と熟成というのは、飲む人間の側の都合でありましょう。
飲む人間の口にあえば、熟成でありますし、合わない、もしくは飲めなくなれば、それは劣化と表現されるものでしょう。
酵母は死んでいくことが、より役目として持っていると考えることもできるそうです。
死んだ酵母、生きた酵母、その価値を人間の側が決めるのは、あくまでも清酒の味わいの都合でありましょう。
アルコールを生成してきれいに死んでいく、というのが、酵母の姿ではないか、とも考えられそうです。
きれいに死んでいくとは何か、と、哲学的なことにまで及んでしまうのは、私の想定外のことであります。
私が考えるのは、生活している文化圏からの影響、自分で稼いで食べるようになった食事の傾向性、現在の食生活や社会生活からの影響における味わいへの感度問題、社会の経済状況による売れ筋の嗜好の傾向、こういったものが、「好む好まざる」というものを形成する要素であろうということです。
そして、地域の伝統や文化、と、この表現をより純粋主義に近づけて考えるのならば、「好む好まざる」というものは、地域によって、評価が異なるものであるのが当然、と考えるのは、文化の多様性を尊重することにつながるであろう、と、私は考えます。
話がそれますが、現在の「欧米を中心とした価値観」を強要し、それを認知することが多様性と表現していることについては、正確性を欠く表現である、と、考えることもできます。
最も言っている側が本当に、「多様性」を尊重する気があれば、ですけれども。