随分偏っている文章のアップを続けます。
ワインなり、日本酒なり、自然派、という文言について、素直に受け取れないというのが、私の現状であります。
なぜ素直に受け取れないのだろうかと考えていると、どこまでとどこからが、自然派なのか、その境界線の曖昧さというものを、自分の中で整合できないことにあります。
それはともかく、ある検索をしていると、ダーウィンの著作から自然選択と人為選択の比較をしている論文を見つけることができました。
これはまさに、私の欲している知識でありました。
まず人為選択とは、「人間は生物を外見で判断しその内部を見通せない、自己の都合により自然選択の働きを妨害する、判断は気まぐれであり、何世代も同じ目的で選択できない、生物にベストな環境を用意できない、育成環境を一定に保てない、生物にあった方法で育成できない、交雑を完全には防げない、といった特徴をあげる。」
そして自然選択とは、「生物の生存環境は長い間一定でゆっくり変化する、交雑は稀である、選択は確実に適したものを保存し劣ったものを破壊する、数千世代も安定して続く、外見には欺かれない、生物の生涯にわたって働く、と述べる。」
そして、自然選択とは、「固定的」であり、人為選択とは「変異的」であると区別します。
なるほど、私は、この固定的と変異的の評価を、逆の認識でいました。
自然な状態ほど、「変異的」であり、人為的な状態ほど「固定的」であると。
よくよく考えれば、自然とは、桜の開花を考えてみればそうですが、毎年、同じ時期に、同じようなサイズ、形状、色をした花を咲かせて散らせます。これを自然の再現性と捉えれば、自然は、少なくとも人間の生涯程度の時間経過では、変化は捉えにくいものでありましょう。それよりも、毎年同じ花を咲かせることに、人間には持ち得ない、再現性というものを認識していたとしても、そしてそれを、「創造主」が付与した特徴であると認識するというのも、わかる道理です。
無論、現代人の科学者にすれば、できるだけ、「創造主」に依拠しないで世の中の全てのものを説明するというのが、基本路線でありますから、ダーウィンの時代には、まだ、「創造主」に依拠する必要が高かった背景というものがあり、ダーウィンの研究にしても、それを排除していく過程のことでもあります。
自然が固定的であり、人為が変異的であるということは、人間の作り出すものが、自然に対してどれだけ再現性がないのかを証明しているのでしょう。
技術というものの存在が、ある自然状態を人間が再現するための手段だったのが始まりではないのかというのが、私の、上記の論文を読んだ感想になります。
原始の頃を想像すれば、火を起こす、ということが当てはまるのではないでしょうか。
そして気がつきます。
自然派という醸造酒に、付与価値を加える、味わいの不確実性というものが、自然選択とは固定的なものである、という区別の枠内ではないということに。
味わいの不確実性というのは、人為的な再現性を放棄する=自然選択な状態を印象付ける要因の一つだと考えていました。
しかし、自然選択な状態とは、「固定的」なものであるとされています。
それは、先ほど例にあげた桜の開花の自然状態の経過を考えれば、「固定的」であると認識できます。
では、なぜ、醸造酒の味わいの不確実性=自然選択な状態、であるとされているのか。
ワイン醸造における、原材料の葡萄の生産状況から考察してみましょう。
フランスにおける葡萄の生産には、人為的な育成について、大幅な制限が課されています。それは、自然選択の状態を意図する印象を与えますが、この状態が、葡萄の自然選択の状態であれば、毎年、その年の生育の環境条件によって、葡萄の味わいが変化をする、ということは、上記のダーウィンの区別から考えれば、自然選択の状態の葡萄からは、あり得ないことであります。
毎年味が変化をする、変異的であるということは、それは、原材料の葡萄の「人為選択」の状態を示しているのではないか。そして、「変異的」な人為選択状態の葡萄から作り出される、制限が課された(再現性の意図を抑えられた)技術による醸造においては、その醸造酒の味わいは、「変異的」であるというのが、論理的な思考でありましょう。
技術の本質から見れば、人為的な自然選択の状態(固定的)を目指すのですから、変異的であるということは、未だ技術の完成に至っていないことと、考えられます。
ここからわかることは、「自然選択」な状態というものを誤認、もしくは、あえて「誤認」しているのではないか、ということです。
なぜ「誤認」していることに至るかは、産業資本主義経済における技術というものがどのような役割を果たすのか、これが強く影響を及ぼしているのでしょう。
なるほど、自然派であると印象付けられると価値の上がる現在のワインビジネスにおいては、本来の意味する「自然選択」からは、影響を受けていないことになります。
そして、自然選択と人為選択は、相対比較されることに、なります。
自然派=自然選択的な味わい、というのは、本来ならば、固定化されたものであり(人間の寿命程度の時間経過では違いは分かりにくいのではないか)、相対比較されなければわからないとも言えます。
そしてその自然選択的な味わいというのは、結果、なんらかの機能を有したものにならざるを得ないのではないか。
たとえば、その生産地の自然環境に適した食中酒としての機能を有すこと。
人為選択においては、「変異的」な味わいにならざるを得ないものを、技術によって「自然な状態」=「固定的」な味わいを再現すること、これがひとつの本質なのだろうと。
固定的な味わいではないものは、そうでありたいと願っている、自然な状態であるのか。
ということを考えるに至ってしまいます。
この延長というか、派生としては、オーディオにおける「再生」ということが、どういうことであるのかというのも、見えてくるものではないか、と。
たとえば、技術による録音された音の再現、というのが「再生」という単語に込められているのではなかろうか、とも考えられます。
自然な状態=固定的とはどのような音であるか、変異的=人為的な音とはどのようなものであるのか。
再生音楽における自然な状態というものが、「生音」と表現されるのであれば、そうでありましょう。
Poloを運転していて体感しているのは、「常に」「自然に」感じられる動きがあること、であります。