2025年08月20日
私が家の経理を握りたくない理由の一つには、お金を握られて思うようにならなくなった側から、さして時間も経たないうちに、陰口を叩かれることを想定していたからです。
ご近所に、息子が年金を吸い上げている、などと言いふらされるのは、想定内のことです(苦笑)。
私が吸い上げようが何をしようが、とりあえず、収入を一本化して、悪く言えば三つの収入源をごちゃ混ぜにして、その総額から考えていかないといけないのが、「いろいろ」ある我が家の財政であります。
数字を計算することと、考えることとは別であるとは、よく言われたもので、計算はできても考えてはいなかったことが原因なのか、収支のバランスが支出過多になっていました。
いえ、計算の目的が別のところにあるならば、目的通りの考えられた計算だったのでしょうが、そもそもがその目的で良いのかどうかの倫理観に欠けていたことになります。
高齢者の家庭の経理というものが、どういうことになっているのか、同居していながら把握しなかった私としては、まぁ、こんなこともあるよと言われたような気がしたのは、先日お話しした通りであります。
親の収支を子供が把握をするということをスムーズに行うためには、日々のコミュニケーションが必要でしょうし、いざ移譲する時点になっても、渡す側としては、渡し難い事情がすでにあったりしますから、一概に合理的だからという理由だけで、親から経理を取り上げるというのも、なかなか難しいのではないだろうか、と私は考えていました。
私からの申し出ではなく、母親の方から自主的に、家庭の財政を譲渡されたのですが、渡した側の、認知症の初期症状を伴っている母親は、自分の都合の良い話に、どうしても持って行きたがる。
つまり、入ったお金の管理は私がするから、支払いはお前がしろ、ということです(苦笑)。
そんな都合よく、親のいうことを聞く息子ではない私は随分な「人でなし」ですが、親の年金を吸い上げている悪徳な息子でありますから、そこに幾つかの悪徳が増えたところで、気にはなりません(毒)。
親とのコミュニケーション不足が原因だと言われれば、甘んじて受け入れるしかないのですが、親の財政を管理する問題は、合理的な思考だけで解決できるものでもないのだろうとは、改めて考えさせられることです。
Posted at 2025/08/20 10:10:59 |
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つれづれ | 日記
2025年08月17日
この日は、転院先の病院へ、父親を乗せて移動。
父親は、入院前に、随分と筋力が落ちてしまい、
自力でベッドから立ち上がることもできず、介助が必要になりました。
移動も、自立歩行はできず、捕まり歩きがやっと。
車椅子での移動になりますが、病院の車止めにPoloを停めて、車椅子の父親を後部座席に案内します。
助手席を前に出して、後部座席に自分で座りましたが、腰をかがめたまま体を移動させていましたので、体の中心の筋肉が落ちてしまったんだなと、素人目の観察です。
Poloの、背が高くも低くもないハッチバックですと、車椅子からの移動も、座面との高低差が割合少ないのか乗り込みは、しやすかったのかな、と。
スライドドアだと、開口口の空間の余裕があっても、捕まりどころがどうなるのか、気になるところです。
父親の動きを観察していると、開けたドアに車椅子を正面につけ、ドア内張に左手をかけ、車椅子から腰を浮かして、右手で後部座席の座面に手を添えながら、足は上げられないので、上半身を先に車内に入れて、その後、足を入れていました。
乗り移った後、息が上がっていましたから、介助したほうがよかったかも。
数十分移動して、転院先の病院で、車椅子を準備して下ろしますが、平行移動は、なんとか自力で行える模様。
一般論で考えて、90歳代男性がここまで落ちた筋力を、どこまで回復することができるのか、と、私は合理的な考え方を好みますので、そのようにも観察します。
救急搬送された先での入院、退院、転院先での入院手続き、と、普段慣れないこと(そりゃそうだ)を行うと、頭の糖分も使うのだろうと、午前中に栄養ドリンクを一本飲んでおいたところ、昼過ぎまでなんとか私の少ない脳内リソースを使うことができた、ような気がします。
入院手続きを終えて、その足で職場に戻り、仕事を終えて、自宅でシャワーを浴び、再び入院先へと向かえたのは、自動車の、Poloの利便性であります。
転院先では、冷蔵庫がテレビカードで使えますので、飲み物は持参しても良いとのことで、まずは水を調達。
入院している父親に聞くと、お茶も飲んで良いと言われたとのことなので、レパートリーが増えました(苦笑)。
その後、スーパーで買い出しをして、帰宅。
夕食は、昨夜、湯がいておいたソーメンを冷蔵庫から出して、ジャージャー麺の元をかけてご飯と共に食べました。
ジャージャー麺の元は、暖かくした方が、美味しく食べられそうです。
親とは独立型経済をとっていましたが、結局、私がまとめて担うことに。
そして握られたくなかった理由を、預かった銀行通帳のお金の出入りから見つけてしまうことになりました(苦笑)。
見つけた当初は、チンチコチンに怒り心頭になっていましたが、どこからか、まぁそういうこともあるよと言われたような気がしたので、今、こうやってブログに書くことができています。
修行ですな(大袈裟)。
Posted at 2025/08/17 10:16:22 |
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つれづれ | 日記
2025年08月11日
この四半世紀あまり、Tシャツを購入していたサイトが閉鎖されました。
ご廃業ということで、残念なことです。
ただこの数年間、安売りをするタイミングもあったり、そして直近では、オリジナルTシャツの製作委託先の工場も廃業するとのことで、雲行きは、怪しいよなぁと。
悪い予感は、当たらなければよかったのですが・・・。
90年代後半の、ネット通販の走りだったのを覚えています。
ネットでTシャツを買うことができないかと探していたところ、検索にヒットして、そのシャツの品質と、価格のバランス感に納得をして、愛用を続けていました。
気づけば四半世紀、特によく買う客でもなかったので、上客とは言えない私でも、買うべきところで買うことができないというのは、もの寂しい気持ちになります。
Posted at 2025/08/11 10:54:52 |
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つれづれ | 日記
2025年08月10日
親の面倒を見るターンに入った私であります。
面倒というよりも、家事全般を担うようになっただけでもありますので、
当たり前の生活をするのですから、「普通」のことです。
新しい「普通「の生活に際して、今までとは別の脳内リソースを使い始めるので、
どこか余裕がなくなります。
運転をしていても、視界にとらえられている物体が少ないので、見落としが増えたと実感しています。
今の生活環境に慣れるまで、仕事の車での移動速度を落としたりするなど、自分なりの工夫が必要になったと、考えています。
入院中の買い出しに、100円ショップに立ち寄った日のこと。
まだ新しい生活リズムに馴染んでいない中、慣れた駐車スペースに車を停めたのですが、少々斜めにずれます。
まぁ、いいや、ずれたままで、と。
この時に、今までの普段と違う行動を選択したと、初めて意識することができました。
F1のパドックのトレーラーを見て学べるのは、車を駐車枠に対して正位置に停めること。
故に、私は、車を止める際に関しては、ほぼほぼ駐車枠に対して正位置に止めるように意識をしていましたし、止めることができなければ、やり直しを、無意識下で行っていました。
そもそもが、一発で決めること、と、私は学んできました。
止め直しをすることで、その日の体調の具合を感じ取ってきていたつもりです。
そのような私が(大袈裟)、斜めに停めてしまったが、まぁいいか、と(苦笑)。
なるほど、自分に余裕がなくなると、このような判断をしてしまいがちになるのだと、自分の傾向を知ることができましたし、なぜ、普段から、駐車枠に対して正位置に、一発で止めるような学びを受けてきたのか、今になっても気づきがあることは、ありがたいことです。
やまとごころとは、才ある能力ではなく、そういうものはあって当たり前、その先にある、もしくはその根っこにある人間の有り様であるのだろうと、「本居宣長」を読んでいる感想の一つです。
Posted at 2025/08/10 10:39:52 |
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つれづれ | 日記
2025年08月03日
父親が救急車で運ばれ、緊急入院となりました。
想定はしていましたが、いざその時が来ると、慌てるものです(苦笑)。
救急車で搬送、即入院、入院の手続きや、日々の面会など、
ルーティーン化するまでの煩雑に感じることなどをこなしつつ、
私は幸運にも、叔母の助力を乞うことができたので、随分と助かりました。
入院関連は、私自身が数年前に入院したことがあったので、
その時の経験と知識が随分と、気持ちの余裕をもたせてくれました。
ICUに二日ほどお世話になり、暴れる様子もないので(笑)、一般病棟に移動。
高齢の父親は、これまで病院に入院するほどの大きな病気もせずにいたので、入院中、混乱や不安症で、日常会話や判断がややおぼつかなくなっていました。
一般病棟に移り、まだ管が体に刺さっていますから、移動の自由は制限されています。
日々の面会の中でも、話のまとまりがなくなり、不安な自分をさらに不安に感じてしまう傾向が強く、高齢者の入院においてこれは、一般的なことなのでしょう。
特に金銭面においては、手元に小銭があってもなくても不安になるのだろうと。
なので無駄話をして意識を逸らして、お金が手元にないことを忘れてもらうなどの工夫を凝らしました。
面会も、毎日行く必要もない(洗濯物が出ない間は)と考えていましたが、周囲の助言から、行っても認知力の低下があるから、行かないともっと低下すると教えられ、なるほどと、特に話すわけでもないのですが、顔を出すだけも良いだろうと、できるだけ足を向けました。
独身、実家暮らしの私ですので、高齢の母親の面倒も見る必要があります。
足腰が随分と弱くなっていた上に、まだ程度の薄い鬱と認知症と色々混ざり合い、口だけは達者なので、他人が見てもあまりよくわからない状況、という厄介な(ですがごく一般的な)ものでしたが、他者への無意識的な攻撃性や、事実を都合よく誤認する会話など、やはり年相応の変化がある中で、父親の入院に、こちらも不安症に駆られ、パニックになったのか食欲不振になりましたが、身内の人間とよく話すようになると、数日後には、食欲を取り戻すことができました。
病院への日々の面会は、もちろんPoloの出番でありました。
さほど遠くない距離でしたが、車好きの私としては、Poloを運転している時間は、慌ただしく過ぎていく1日の時間の中で、一服の清涼を得ている心地でありました。
両親と同居している家庭の財政は、独立性をとっていたので、私も両親も、互いのお金のやり取りは、よくわからない。
色々やっていそうなので、親としては、私に財政を握られたくない(苦笑)。
私としては、こだわりはないので、どうでも良いのですけれど。
介護認定や、それらにまつわることも、プロの話をよくよく聞いておくことで、できるだけ自分が余分に考える(悩む)プロセスを少なくすることは、実利実状に沿うのではないかと考えています。
私は仕事で車を運転するので、運転中、ついつい考えが巡ってしまうと、注意力の散漫となります。
できるだけ、考えるよりも、計算をすることに切り替えていくことで、私の少ない脳内リソースを効率的に運用していくことを考えます。
生活する資力に限りはありますので、その中で、何ができないか、何をしたいかだけを明確にしておけば、考える、悩むという作業よりも、計算をすることに集中したほうが判断がしやすいとは、ドライな考えを好む私の傾向です。
両親の環境の変化が理由で、長距離運用を見込めなくなることも前提としていた、というのは、言い過ぎかもしれませんが、そのつもりで数年、動いていた結果が、これまでの私の生活でした。
独身ものだとこのような時に、相談し合える相方がいないのが、なんとも物寂しく感じることだと実感をしますが、そのような生活を選択し続けたのは、誰でもなく私自身です。
友人からは、一人で判断して決めることが続くのは大変だけれども、見方を変えれば一人で決めて責任を取れることでもあるよ、と。
なるほどその通りだと納得することができると、肩の力を抜くこともできました。
Posted at 2025/08/03 21:33:05 |
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つれづれ | 日記