
缶ビール、2本で1200円、と、レジで表示されて、私の可処分所得に似合わないものを買うときの、自分への気まずさを感じてしまいます。
米と麦と、どちらが自分の生活の主食であるのかと言われれば、米であると答えるのが、私の生活です。
パンとご飯と、どちらかをこの先食べられないと迫られれば、ご飯を食べ続けたいと選択するだろうというのが、理由です。
人類社会における(大袈裟)、アルコールの原料というものは、主食にまつわるものなのだろうと。
この場合の主食とは、栽培収穫しやすくエネルギー変換の効率が良いということであります。
それが、小麦であり、芋であり、米であるということが、地域性というものでしょう。
では葡萄は?となると、帝政前のローマにおいて、遠征する兵士たちの栄養補給食品として、遠征先で栽培していたと言いますから、大切な栄養源だったことからアルコール化の道があったのではないかと、私は勝手に考えています。
さて、グローバリズムとは、こういった地域性を考慮しない、枠を取り外していくことであると考えると、米国トランプ政権の、保護主義への再プランを選択する理由が、全く理解できない人(金融関係で本気でそう言っていたらかなり問題ですが)にも想像することを誘導するくらいには、なりそうです。
米を主食と考えている人が最多数を抱える社会で、米が主食であるというのは、社会的には正論でありましょう。
ただその中で、私は米を食べつけないから、そんなことはない、多数の意見に飲み込まれるのは理不尽だ、と主張する人の声を聞くのが、いわゆる「国際的な人権の倫理観」になるのでしょう。
そこから一歩進むと、理不尽さを強要する社会は悪だから、主食を米であるというのは、撤回せよ、などと表現するに至ると、今度は伝統的社会側から、事実とは異なることを言っている人間を是正せよ、という声も大きくなる。
現状の日本社会は、この辺りにあるのだろうと、私は考えています。
暴力を伴い始める言論と、主義主張の整理ができずニヒリズムに陥る無政府主義、革新、伝統主義の各陣営の主義者。
1930年代の日本というのは、どういうものであったのか。
趣味性が強い、ゆえに、アリストテレスのいう古典美術の価値観と外れた、商業的価値観を前提にしなければ、なかなか手にすることが難しいというのが、ビール(法的な分類とは違う意味で)や日本酒の高価格商品帯だろうと私は考えています。
それが良いとか悪いとかは、私は考えません。
目の前に、何があるのかを、ただ、考えています。
一本は糖蜜で味付けされ、もう一本はレモンフレーバー。
食事と合わせるというよりも、それぞれ単体で飲まなければならないでしょう。
シェアをしあって飲み合う、それも少ない人数でシェアをし合う(体験を共有し合う)ところに、これらの商品の価値があり、なるほど、個人主義社会に沿ったビジネスプランのように私は、考えます。
酔い覚ましは、両方とも私の性能では、カバーしきれず。
私の低い性能の酔い覚まし機能については、よく醸された酒に関しては、良く覚め、よく覚めなかった酒は、そうではなかった、であろうと判断しています。
ラベルの表記、枠組みにとらわれないというのは、興味深いものです。
日本酒に関して言えば、精米歩合、酵母の種類、アルコール添加の有無。
吟醸であろうが純米酒であろうが本醸造であろうが、名前にほだされることがないのが、私にはありがたい。
昨今、選択的夫婦別姓の法案が提出されるか否かと報道に取り上げられるようになりました。
個人的には、30年たってようやく日の目を見るのかという思いもありますが、ではこの法案がなぜ存在するのかは、国籍にとらわれない質の良い労働者の確保を目論む資本家の要求があるから、が、本音だろうと。
この本音を覆うために、「個人の権利」を理由にすれば、リベラル系の陣営からの支持を得られるということになります。
宇多田ヒカルの新曲が話題になりましたが、彼女の職業柄、もしくは生活している社会環境を考慮すれば、「伝統的」と呼ばれる、時間を共有することで生まれた価値観、社会を安定して運営してく構造を率先して尊重する環境ではないと想像してみると、夫婦別姓のシステムを、人間の幸福追求の一項目であると捉えるのだろうと私は考えます。
集団における歴史的時間の共有を考慮せずに、何かしらの「価値観」を共有させることで、時間をかけて地域や民族に沿った合理的な価値観を形成するというプロセスを「すっ飛ばす」必要があるのが、グローバリズムといえます。
例えば、ドラマの「水戸黄門」の「水戸のご老公」のような存在が、伝統的な価値観の審判長であり、その「ご老公」の価値観を安易に、否定するのがリベラル、もしくは無政府主義者の思想だといえます。
「水戸黄門」における「ご老公」の成敗を、「理不尽だ」「不合理だ」と横から口を出す場面を思い浮かべると、締まりの悪いドラマの結末にしかならないでしょう。
さらに、伝統的社会の価値観を唱えながら、既存の社会構造を排除することを、下部構造として持っている資本主義経済のさらに先鋭である「新自由主義」的な経済思想の価値観とを持ち合わせる、右手で保護しながら、左手で壊すようなニヒリズムに陥る人たちが出てくるのも、現状でありましょう。
個人主義とは、厄介なものです。
柳田國男が、自転車に乗ることは「個人主義」だと指摘するのを、現代人が、どれだけ身をもって理解することができるのだろうかと、考えます。
私は手始めに、自転車に乗るのを止めることから始めました(苦笑)。
米を主食だといえるような生活をしながら、それだけでは、口寂しくなるような私です。
米も麦も捨て難いと考えると、ラーメン・ライスなどというのは、私のような人間には、非常に都合の良いものであります(笑)。