愛知県陶磁美術館へ行ってきました。
酒も嗜まないし、器の焼き物にも興味があるというよりも、酒と器の関係性を社会はどのように捉えてきたのだろうかという事に、興味があります。
柳田國男氏は、人類社会が酒を酌み交わさないコミュニケーションを開発してこなかったのは保守的な性向で残念な事だと、どこぞの著書で述べていました。
コロナ禍において、飲食を伴うコミュニケーションを制限された人類において、これを克服する技術を開発する気になったのかと観察をすると、ネットによる飲み会が関の山であり、この飲み会は現実世界のそれよりも機能を果たしたとは、言えないですし、それで構わないと考えます。
室町時代における酒と食べ物の話し合いを絵巻物にした展示では、酒の有用性を唱えた人物と、酒によってもたらす失敗と飯米の有用性を唱えた人物と、酒が全くないのも寂しいし、飯ばかりなのも楽しめないので、程々が良いという人物の三人が描かれています。その彼らの背景にあるのは、酒盛りをする器であり、温める道具、貯蔵、移動用に使う木の箱、飯を食う茶碗であります。
私は好んで酒を飲む気にはなれませんが、酒も飯も程々が良い意見に賛成です(笑)
器の展示を見ながら、器に持たされている機能が、その時代の酒の性質を表すことになっていないかと考えていました。
江戸時代に入り、米で醸される酒が濁り酒から、池田・灘地域で諸白の清酒を作られるようになって、清んだ酒が飲みやすいように器の底が深くなったとの記述がありました。
その時代の酒の器の口元の厚さを見ていると、細いものはありません。
現代における売れ筋の酒質から器の形状を想像すると、ガラス製で底深く、口径は広げず、飲み口の口の厚さも細くしすぎない。西洋の基準で考えれば、フルートグラスがそれにあたるのでしょう。
日本酒は温度の変化でも楽しめるので、手の平の温度で液体の温度を変化させて味わいを楽しむと考えると、足をつけないものでも良いかもしれません。
清酒業界におけるトレンドがなんであるか、現在の最先端?は、製造方法の古典回帰と木桶による貯蔵のアピールでありましょうか。
ですがその製造で醸された酒は、回帰した時代のその味わいではなく、現代で必要とされる味わいに調整されたものが想定されます。
業界のベテランの方から、昔の酒と若い人は簡単にいうけれど、今の人が昔の酒を口にしたら辛すぎて到底飲めやしませんよ、とおっしゃっていたことを思い出します。
その「到底辛すぎて」飲めやしなかった酒をどのようにして当時の人たちが飲用していたのか、その一端が器の形状として表れていると、私は考えました。
器の形状から、時代の清酒の酒質が想起されるような関係性は、現代の売れ筋の酒と売れ筋の器からは認める事が難しい、のではないかと印象を持ちます。
車からも、その時代の社会から必要とされている形状を見る事ができるのではないか、と、考えてみるのも面白そうです。

Posted at 2022/05/15 16:26:19 |
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