2022年07月24日
最近のお気に入りの本に、「ワインの科学」J・グッド 梶山あゆみ訳 河出文庫 があります。
ワインにまつわる都市伝説(のようなもの)に対しても、ただ科学的に説明ができていないと、事態の観察の結果を否定もせずに、されど肯定もしない著者の姿勢に、学ぶべきところが多いのです。
未知のものに対する身の処し方、といっても良いのでしょう。
産業資本主義経済以降、世界に自分たちに都合の良い普遍性を普及させようとしている地域の文明というものは、知らないものを知る術を、基本スタンスを持っているのだと勉強になります。
ワイン文化というものが、ビジネスモデルと常に強い関わり合いを持つというのは、その成り立ちから、そして継続する事業として必然でありましょう。
「ワインの科学」の中で、「自然」と「健全」のイメージは、ほとんどのワイナリーが身につけたいイメージである、としているのも、それは「経営者の関心」であるとしています。
テロワールに関しても、どこまでがテロワールであり、そうでないかの線引きは、厳密には難しいと表現するのも、事例を持って紹介しています。
このような「客観性の担保」がなされていることは、著者の良心でもありましょうし、西欧における教養の基礎であるかもしれません。
この本を読んでいると、日本酒における、ワイン文化の追随、その多くは、ビジネスモデルとして収益性の向上を目論む手段として、そのことを居住地域を同一にするメディアが指摘しきれていないことに気がつきます。
そして考えるのは、気がついていないとすれば、それは勉強不足でありましょうし、気がついているとすれば、それはビジネス側への傾斜が強いのだろうと。
私が勉強になった一つは、ワインのアルコール度数の歴史でした。
1800年前半のワインは、10度でありながら長期保存、熟成が可能であったこと。そして現在の高すぎる(!)アルコール度数は、熟成中にアルコールがワインの風味を削ってしまうのではないかという考え方に触れることができたことでした。
ローマ帝国時代のワインは、イタリアでも北部は低く、南部は高く、そしてローマ近郊においては水で割って飲んでいたという歴史であります。
日本酒においても、現在、低アルコール原酒が12度程度で作られているそうですが、これらの長期保存、熟成については科学的な説明がまだされていないでしょう。
私は、低アル原酒については否定的な立場でした。私の体質には、飲んでもよく酔えないものが多く、原酒である必要性を特段感じ得ない風味であったりします。
それは、日本酒の本質として、長期保存の末の熟成が、一つの完成形であるのが、現代に伝わっている日本酒の製造技術であろうと推察しているからです。
100年ほど前の日本において、日本酒のアルコール度数について、清酒の持ちうる味わいの深さ、輸送時、貯蔵時の腐造の防止や安全性の確保のためにも高めておくべきだという意見と、清酒が国民酒をうたうのであれば老若男女が飲みやすい、ワイン程度のアルコール度数にまで下げ、その上での長期保存、熟成向けの技術開発をするべきだとの意見が論文として出ています。
令和の現時点において、低アルコール原酒における長期保存と熟成に対する技術というものがどこまで開発されているのか、私は存じ得ませんが、しかし、この大正時代のワインのアルコール度数が、現状の14度よりもさらに低い、10度程度であったかもしれないとなると、日本酒の製造技術の更なる進化が求められることになります。
アルコール度数が低くても、長期保存、熟成に向くということがどういうことなのか。私は科学的には知り及ばないことでありますが、実体験にある中で、内燃機関で考えてみれば、それはトルクの質と言えないかと。
ではトルクの質が良い内燃機関は、どのような観察をされるのか。
振動少なく、ノイズ少なく、アクセルを踏めば途切れない加速を見せる。
アルコール度数が低く、熟成期間が短くとも、清酒の持ちうる長期保存による熟成の味わい深さが味わえるのであれば、それは技術の進化でありましょうから、それでも結構なのですが、そこに至らずに、ビジネスモデルとしての収益性が高いとなれば、これは別の問題、と私は考えます。
Posted at 2022/07/24 11:25:38 |
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