
近つ飛鳥博物館へ。
新しい企画展を観覧してきました。
ここには、上階から見下ろすことができる大仙古墳のモデルがあります。
置かれているミニチュアモデルの目線の高さに合わせて古墳を見ると、山の如く巨大な墳墓が存在します。
これを西暦五百年に建造をしたというのですから、当時の人々の感覚はどのようなものだったのでしょうか。
これよりのちの、百年も二百年も経った後の人たちの様子はどうだったのでしょう?昔の偉い人が作ったお墓という認識程度で、あまり関心がなかったのかもしれません。これくらい潔いほうが、人類の社会らしいのでしょう。
氏族、部族、国家の関係性がちょっとクリアになって認識できるようになったのかもしれません。
そこに社会の反復運動があったのではないかと、想像もします。
今回の展示物には、稲作文化が日本列島に伝わり、導入をした、もしくは文化と共に列島に移ってきた人々の生活は、集団生活をしていたとあります。稲作というものが、水の管理が大きく関わってくる「産業」であり、耕作技術が未熟だった初期段階では、稲作の耕作可能地域において、水利用の調整をするために、集団化して居住をしていたと。
そして、稲作の耕作技術の発展とともに、耕作可能地域が広がると、従来の水管理の組織から外れ、集団が分化していくと書かれてあったのは、今までの認識になかったことでありました。
それまでの縄文時代に比べて、はるかに大人数で作業をすることを、「イネ」の方から人間に求められていますので(笑)、縄文時代と比して、より、集団としての生活が可能であるかが人間に問われていたことでありましょうし、蝦夷地と呼ばれていた稲作の工作不可地域に、稲作「産業」には不向きな性質の人類社会が移動をしていったと考えるのも、自然でありましょう。
その稲作の耕作技術の進化によって、水の利用について集団である必然性が薄らぐと、集団が分化したというのも、興味深いことでした。
稲作産業によって各地で富の集積が発生し、地方豪族、氏族・部族の誕生につながり、それが中央集権化していく過程が、割合クリアになったような気がしています。
古墳時代のそれらが、中央集権化する飛鳥時代へとつながり、さらには大化の改新による中央集権化の強化となるのでしょう。
中央集権化が目的だったのではなく、政治の運用の効率化を求めれば、それは中央集権制(帝国制)に行き着くことになります。氏族、部族間同士の抗争に明け暮れてしまうと、内政が疲弊し、疲弊した状態で外部からの攻勢に対応するというのは、想像してみてもうまくいく道理がありません。
私は、今の西側諸国の押し付けている価値観、自由、民主、人権主義を、歴史の全ての時間に当てはめて価値判断をするような読書を、してきたつもりはありません。とはいえ、これらの価値観を共有していないと村八分になるので、うまくやっていかなければと自分に言い聞かせています。
さて、天智天皇の時代に、白村江の戦いに敗れ、大敗を喫した日本・百済連合軍は、百済国は滅ぼされ、日本は当時の国際社会、中国大陸と統一化に向かう朝鮮半島からの脅威に対応せざるを得なかった。
中央集権化する大化の改新の背景にも、唐・新羅連合軍の朝鮮半島統一を進めていた(帝国化)国際情勢の変化の予兆があったのかもしれません。明治維新時における、西洋列強の東アジアの植民地化政策と、似たような切迫感があったのかもしれません。このような妄想ができるのも楽しいものです。
私の生活に、関係ありませんが(笑)
しかし関係がないと言い切れないのも、1300年経っても、人類社会の基本構造は、あまり変化がないからかもしれません。むしろ、進歩・進化していると考える方が、見誤っているかもしれません。このような観点は、人文学的には、困るかもしれません。
Posted at 2022/12/25 10:00:08 |
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Polo AWCHZ | 日記