
今年に書き溜めていたブログを、今年のうちに消化しようと考えました。
第一日目は、ものづくりにおける「自然派」とは、どういうことか。
わかっていないことを、文章にしています。
欧州のワインビジネスモデルに、葡萄酒づくりにおいて、付加価値の一つとして、自然派という制作の考えがあります。
そこで疑問に考えている事柄の一つに、どこまでが人間の意志で「制作」されているのか、ということがあります。
どこまでが「自然」で、どこまでが人間の意志が入った「制作」であるか。
この「人間の意志」が、できるだけ遠ざけられていること(もしくはそのような印象を持たせること)に「付加価値」を認めるビジネスモデルは、昨今において「清酒」にも導入されているモデルでもあります。
このようなことは、哲学の歴史にも表れていたことで、アリストテレスとイオニアの自然哲学と対比させられているものでもあるようです。
アリストテレスは自然の生成と人間による制作(ポイエーシス)を区別した。彼の考えでは、自然学は制作者がいないものを対象とするのだから、制作的な学ではないし、実践的な学でもない。《制作される事物においては、この事物の外にあるところの制作者の内にその原理があるからであり(そしてこの原理は制作者の理性か技術かあるいはそうした或る能力である)、また行為〔実践〕される事柄においても、その原理は行為する者のうちにあるからである》。故に、自然学は理論的な学である、と彼はいう。柄谷行人 『哲学の起源』104頁 岩波現代文庫
しかし、アリストテレスが自然の内に目的因を見出すとき、実は、神=制作者の観点から自然を見た上で、それを自然に内在化しているのである。それに対して、イオニア派は目的因を拒否する。自然の「生成」は、目的を持たないがゆえに、「制作」とは異なるのである。だが、生成をこのように考えることは、制作の意義を否定することにはならない。それどころか、イオニアの自然哲学者は制作や技術を重視し、それにもとづいて生成を考えたのである。柄谷行人 『哲学の起源』105頁 岩波現代文庫
さて、自然なもの、から、生成されるものはどのような特徴を持つのか。
その地域の自然環境に強く影響を受けた、「独特なもの」に、ならざるを得ないと、私は考えます。
これを人間の側が、できるだけ自然の意思に沿った作り方を、というのは、思想の話であって、現実的には、人間の制作(意志と技術)が関わり合わざるを得ないだろう、と考えます。
私は純粋主義者ではありませんので、これらの(自然に寄り添う意志:人間の制作する意志)割合の塩梅が、自然派という印象を持たすことができるのだろうと、観察しています。
この辺り、東洋哲学的には、どのような解釈を古代の人はしていたのか、そういうことにも興味が向きます。
Posted at 2023/12/12 22:03:56 |
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