
フレッシュさが、美味しさの一つのカテゴリーではあるでしょう。
そして、フレッシュなものが全て美味しく、美味しいものが全てフレッシュであるのか。
この辺りは、日本人の民族性(これもカテゴライズしにくいのですが)、司馬遼太郎氏のお言葉を借りれば、何人かが集まった時の共通する肌の匂い、と言われています。
さらに前の世代の知識人層である『明治大正史 世相編』柳田國男 講談社学術文庫、から借りれば、
「食物はもとは季節のもので、時を過ぐればどこにもないと同様に、隣で食う晩はまたわが家でも食っていた。これは独り沢に採り、畑に掘り起こすものが一つだというばかりでなかった。遠く商人の売りに来る海の物でも、買うて食おうという日には申し合わせて買い入れる。臨時の獲物は豊かなるがゆえに頒たれたのみでなく、どれほどわずかであっても、こっそりとは食わぬことが人情というよりはむしろ作法であった。」(『明治大正史 世相編』食物の個人自由 62頁 講談社学術文庫)
「人を仲間とよそ者に区別する、最初の標準はここにあった。竈が小さく別れてから後も、村の香はまだ久しく一つであった。ことに大小の節の日は、土地によっては一年に五十度もあって、その日にこしらえる食品は軒並みに同じであった。三月節供の乾し貝や蒜膾、秋は新米の香に鮓を漬け、甘酒を仕込んで祭りの客の来るを待っている。特に香気の高く揚がるものを選んで用意するということもなかったろうが、ちょうど瓶を開け鮓桶をこれへという刻限までが、どの家もほぼ一致していたために、すなわち祭礼の気分は村の内に漂い溢れったのであった。」(同上、62頁)
食べ物の匂いのする空間(村の中)が、「人を仲間とよそ者に区別する、最初の標準」としています。
その村の中の食べ物が、献立が、隣の家とさほど変わらない時代のことですが、この村の中が、もっと小さくなり、その一軒家の台所を共にする生活集団、さらには核家族化、そして単身者となっていくことでしょう。
この流れを見ると、個人主義というものが、どういうことであるのかが、実生活の食事から見ることができる、と考えます。
逆に、拡大解釈していくと、村の中の食べ物の匂い、というものが、村々の差異が四捨五入されていき、統一されて、ある一定度の規模となるのが、民族、と考えることができるのだろうと。
司馬遼太郎氏の、集まった人の肌の匂い、というのは、言い得て妙であると、私は考えます。
自動車の民族性というのは、人間のそれよりも明確な輪郭が、なされているのではないか、などとも疑問に、思うところであります。
例えば、イタリア車のドイツ車寄りとか、ドイツ車のイタリア車寄りとか。
先日、フィアットが、「ミラノ」の名を冠した新型車を発表しましたが、数日して、「ミラノ」の名前を撤回するという事案がありました。
イタリア当局から、イタリアで製造していないのに、「ミラノ」の名前を使うのは、いかがなものか、と横槍が入ったかどうかは、記事から推測するしかありませんが、その「ミラノ」に、村の中の香りが、するかしないかではなく、村の中の香りの「定式」の枠外であるのを理由に、その村の「特産物」と印象させるような商品化をされるのに、抵抗を感じる人も多い、そのような人たちに配慮する、ということもあるのでしょう。
この辺り、原理主義的な考えと、産業資本主義経済の商品が、どこまで共存することができるのか、といった観察も必要になるのでしょう。
原産地が本国である場合、製造者は、その国の出身者が何割携わっているか、とか、製造部品の何割までが、他国での生産部品で良いのであるのかとか。
少々、話が逸れていってしまいそうです。
話を戻しまして、村の香りを共通する仲間、がある以上、その香りを共有していない人間にとっては、その村の食物の香りを、美味しく感じられることがあるのだろうか、そこに、「フレッシュさ」は、どこまで共通した認識であるのか。
とれたてがうまい、しかし、そのうまさを、保存経過させることで別の味わいに転換するのが、技術でありましょう、と、そういうことを考えています。
Posted at 2024/08/11 22:50:43 |
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