今季のNHKの朝の連ドラをよく見ています。
居酒屋で愚痴を言いながら飲んでいた飲み物は、お猪口で飲む日本酒でありました。
日本酒のイメージは、なかなか軽やかなものにはなりませんな。
吟醸酒というものを、そのような仕立てにする向きもあったようですが
日本酒の機能性に目を向けられることはなかったようです。
機能性といえば、この場面において使われていた居酒屋には、どのようなものが期待されていたのか、もしくは社会において継続している行為にどのよう意味があるのかを示していたのではと考えました。
関西のドラマづくりのノリというか、女優の愚痴と、サインを割り箸袋から伝票にするのかやっぱり色紙にするのが一番いいねという話と、物語の前振りとなる邂逅と、三つの話を同時進行させながら、主人公に、「何の話をしていたんだっけ?」と、蕎麦を食べさせて回収するという展開に、居酒屋の効用というものを考えました。
居酒屋とは労働者が、次の日を迎えるための活力を得るための空間でありますし、その空間に必要があると考えられているのが、食事とお酒、でありましょうと。
コロナ禍の社会情勢においては、飲食によるコミュニケーションに制限をかけられています。このような世の中だからこそ、居酒屋の効用というものを再確認することができるのでしょう。
土曜日の再放送を見ていたら、居酒屋ではなく、お蕎麦屋さんなのかもしれないと。
安達祐実の演技がどのようなものであるかは、私は知りませんが、ただ、今回の猪口で日本酒を飲む姿に、少々違和感を感じてしまいました。一言で言えば、猪口を使って飲みなれていないのが丸わかり。ではどのような姿が飲みなれたものなのか、これを表現するには私には難しいことであります。
タバコを吸う姿にしても、様になっているものとそうでないものを、どのように言語化するのか。近代とは綺麗好きの世の中にしていくことであるようなので、酒を飲む、とか、タバコを喫む、といった場面は、これからますます制限されていくのでしょう。
車を運転する、ということも、TVドラマでは表現されなくなるものかもしれません。自動運転で、後ろの席に座って会話をしながら運転をしないシーンというものが、車での移動を意味することになると考えます。
運転をするということが、「野蛮」とまで表現される頃に、運転すること自体が「付加価値」となり、お雇い運転手よりも、自分で運転をするということが「付加価値の高い行為」として認識される。それは、バカ高い保険料を支払えたり、公道を走行できるオプションがつく自動車を所有することができたり、カネによって解決することができる人が乗ることができるもの、という一面を作るのが、カネとモノが大手を振って決める社会の既定路線でありましょうか。
「平等」を配慮するのであればAIが、その人の行動履歴を把握して、普段の生活から、交通社会に益するかしないかをあらかじめ判断をして、運転をするさせない、もしくは、保険の両率に大きく影響を与えるようなやり方もあります。
野蛮といえば、国家のトップが別の国家のトップを犯罪人呼ばわりすることにメディアが躍起になってコメントを取ろうとしています。その行為で、今回の社会情勢を沈静化に向かわせることができると本当に考えているのか、それとも沈静化させようとする気がないのか。東のプロパガンダがあれば、西のプロパガンダもあるのは、さほど豊かに想像力を働かせる必要もないでしょう。
さて、タバコは知りませんが、お酒は、綺麗好きな人の声が高くなるような時代においても、生き残るのではないかと推測します。
100年前の米国における「禁酒法」の経過を見ても、人類社会においてアルコールというものは、社会深くに根を張っているようでありますし、当時の綺麗好きの人たちが、女性の人権の拡大と共に、禁酒をセットにして考えていたことに興味があります。
昨今でいえば、海外の歴史ある授賞式のイベントにおいて、トイレを男女に分けるのはジェンダー平等ではないということで、男女共用のトイレを準備することが人権意識意識高い系のように報道されていました。
理屈が正しければ人間の行動は間違わないといった発想であります。
私は、人間の継続している行為には意味があると考える方便をとっていますので、公共の場でのトイレを男女別にした経緯というものはあるのだろうと考えていますし、その経緯を人類社会が乗り越えることができている、などといったお気楽な考え方には、たどり着けそうにもありません。
酒にせよ自動車にせよ、正しい理屈の下では人間(社会)の行動は間違わない、と信じたい綺麗好きな人たちにとって、好ましく思われているのか私は自信がありませんが、お酒に関しては禁酒法で、資本にとっても国家(=官僚)にとっても、ロクなことにならなかったという歴史の経緯があります。
自動車も内燃機関は捨てて電気動力だけにするぞといった、理屈が正しそうでも均衡に欠いているやも知れないやり方では、禁酒法時代の「禁酒法」の二の舞になるかもしれません。
ですが、歴史の経緯よりも、その時代の人間の理屈の正しさを優先すれば、どこか偏ったやり方をして無理を通す必要があるということかもしれません。

Posted at 2022/03/21 17:50:56 |
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