
毎月購入していた、『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス』シリーズも、10冊目となり、全10巻の最後を迎えることになりました。
SF短編の中には、30年以上前に愛読していた短編集に収録されていた物語もいくつか含まれていましたので、懐かしい再会もありながら、新しい出会いももたらしてくれました。
興味深いのは、1933年生まれの藤子氏が、今の私と同世代、もしくはやや若い世代で、これらの物語を紡ぎ出していたことです。
お化けのQ太郎の、オー次郎の分裂体のような生命体が、地球を征服する方法につて、本星の会議場で議論する物語があります。
地球人の危険性を強く指摘して、早々に征服すべきだと主張する派と、征服するコストも考慮して判断するべきだと主張する派と、大勢のオー次郎の分裂体が、喧々囂々と議会で「民主的な話し合い」をしています。
が、彼らは、このようなことをしていても意味がないことを理解している、近代地球人に比べ、遥か高度な知識を持っている生命体であるようで、討論する議員を減らそうと、議員のオー次郎型宇宙人が、議長のオー次郎型宇宙人に、提案します。
しかし議長は、「それではきめ細かな討議ができない」と難色を示しますが、提案した議員は「果てしなくもつれるよりはましだろう」と説得をします。
彼らは、彼らでいう「思考交換」をして、似たり寄ったりの意見は一人に代表させて、必要最低限の人員までしぼりこむ作業をします。
取っ組み合いをして「民主的な話し合い」をしていたその他の議員のオー次郎型宇宙人たちは、「それでいいんでないの」「いいかげん うんざりしてたところだ」と賛成をします。
その結果、代表的な意見は四つにまとまります。
まず、征服推進派。
1、「地球討つべし」なぜなら地球が、そこにあるから。
2、「地球人は、日を追って強力になってきている。やるなら今のうちだ」
そして、征服することは前提だが、やり方と、地球にこだわらない派。
3、「地球人は、矛盾に満ちた生物である。ほっとけば、遠からず自滅するに違いない。そうなりゃ、交通費だけで新領土が手に入るというもんだ」
4、遠い貧弱な星にこだわらず、「探せばもっと好条件の物件が見つかるだろうに」と、地球征服よりも条件の良い惑星の文明の征服を主張する派。
この宇宙における新領土のコストというものも、説明をされていて、
「軍事行動には、恒久的ワープルートの拡張、兵員や装備の輸送、補給のためのエネルギー等、莫大な予算を要する」としている辺りが、現実感があります。
四つの意見は、いずれも「他の文明の惑星を征服する」ということには、共通していることであります。見た目はオー次郎ですが、種としての攻撃性については、人類と同様であるようです。
そして1980年代の日本の、ある中学生(オス生存14年目)の個体、およびその周辺にしぼって記録をした情報を共有するところから、物語が進みます。
「地球人は個体数がふえすぎて、すごい飽和状態にあるのだ」
「あの男が熱心に眺めているのはなんだね」
「テレビとかいったな。ほとんどの地球人が好んで見る箱だよ」
(ドラえもんが映っているブラウン管テレビ)「構造は単純だ。ガラス瓶の底に電子をぶっつけて、光と影を映し出し、それをながめるわけ」
「何時間もガラスビンのけつをながめるのか」
「ながめてどうするのだ」
「そんなこと知るか!!」(汗)
「だからいってるだろ。そんなわけのわからんやつらはきっと滅びると」
今ちょうど27時間TVが放送されていますが、宇宙人から「ながめてどうするのだ」と、自分達が思われているなどとは全く考えたことがない人たちが作っているのであろうことは、彼らの尊厳の偉さの象徴でありましょう。
「地球人は、記憶を直接子孫に伝えることができない。だから、世代の新しくなるごとに新たな学習を必要とする。とくに最近は受験地獄という難関をくぐらねばならない。他人より少しでも優位に立とうという激烈な競争だ。実力以上の成績を要求されるのだ。耐えきれずに脱落する者が多い」
メス親に勉強を促されて机の前に座る14歳中学生の行動を解説しています。
オス親会社員45歳がTVでプロ野球を見ているところに、メス親が、近所の会社員の出世ぶりと、ボーナスが八か月分であること、別の会社員宅では建売を購入する話と、世界一周旅行のお土産を食べましょうかと、話しかける場面においては、
「なぜ、あんな話題ばかり持ち出すのかね」
「一種のいやがらせなんだ」
「地球人は、人間がすべて平等であることを理想としている。自分だけが取り残されることを極度におそれる性向があるのだ」
これはオー次郎型宇宙人の、極東の島国の慣習を、地球人全体に当てはめた「ミス」ですが、今流行の、人権、平等の価値観というものの本質がどこにあるのか、想像をさせてくれます。
金(カネ)について。
「金属製、植物製の二種あるが、「価値」を具体化したものと思えばいい。」
「労働などの価値を数値化し、貯蔵、持ち運び、授受できるようにしたのが金だ。これの獲得は、地球人の最大目的の一つとなっている。」
「たとえば、近代の地球を二分したほどの大きな対立というのが、資本主義対共産主義のそれだ。これはひと口にいえば総生産の分配方法の対立といえる。ようするに、少しでもよけいに分前を、という戦いだ。」
貨幣が貨幣である理由には触れていませんが、しかしながら、地球人の最大の目的の一つであるとしているのは、言い得ています。それに、貯蔵、持ち運び、授受できるようにした、というのは、適切な順番でありましょう。
「しかし・・・地球の理想が「平等」なら、なかよく山分けすればいいではないか。」
「そんな単純な生物ではないのだ。」
より多く儲けた一部の金持ちが、貧困階級にお金を回す、などといった理論は、彼らは「単純な生物」ではないので、実現不可能であると、私は考えます。
紀元前の古代国家の「平等」のための努力を、歴史として紹介しつつ、オー次郎型宇宙人は、続けます。
「以下、歴史上「平等」のための努力は限りなくくり返されているが、大地主、金持ちを解体しても別のだれかが金持ちになり、支配階級を倒しても新たな特権階級がうまれ・・・。」
「ようするに人間社会というやつは、何度かき回しても・・・・。」
「ピラミッド型にまとまる傾向がある。」
「どういうことだ。」
「平等を目指しながら、どうして平に並ばんのだ。」
「そこが地球人のふしぎなところさ。」(ため息)
この四半世紀の、新自由主義経済も、過去の例に漏れず、古い支配階級(既得権益とでも言いましょうか)を倒して新しい特権階級を生む、この構造としては、変わることのない人類社会の営みを繰り返している、と、考えることができます。
45歳会社員(オス)が外に出て、宝くじを購入します。
「大勢が金を出し合って少数の金持ちを作るシステム。これを買うための行列で死者が出たほど、地球人は熱狂する。」
「さらに、ついでに競馬新聞を買った。」
「競馬というのは、ウマという四足動物を走らせて着順を争う。これも多数の出し合った金で少数の金持ちを作る仕組みになっている。多くの地球人が熱狂する。」
公衆電話でマージャンのメンツが揃ったことを知る45歳会社員。
「マージャンだ。六面体に記されたパターンを配列することによって価値を争う。これも、それぞれ金を出し合って特定の金持ちを作る。地球人は熱狂して・・・。」
「おかしいじゃないか。地球人の大理想が平等だというのに、受験といい、宝くじ、競馬、マージャン・・・みんな、ことさらに不平等を作り出そうとしてるようじゃないか。」
「おれにいわれても知らんというのに!!おれはただありのままを記録しただけだ。」
別のオー次郎型宇宙人が、今までの地球人の行動様式を俯瞰します。
「思うに・・・、こういうことではなかろうか。」
「地球人は本質的には、他より抜きんでて優位に立ちたいという願望を持っている。この願望はスタートラインにおいては・・・つまり、だれもがトップに立つ可能性を有する間は、公認されているが・・・、レースが展開され、勝敗が明らかになるにつれて・・・、声高く平等がさけばれるようになる。」
「まあそんなところかもしれん」
このブログは自動車のブログですので、昨今、この四半世紀のF1の流れを見直してみれば、「レースが展開され、勝敗が明らかになるにつれて、声高く平等がさけばれるようになる」ことの繰り返しとなっています。
F1のレースに、「平等」なるものがもたらされればされるほど、言い換えれば、新自由主義的な規制が増えれば増えるほど、さらなる格差が広がるばかりでありましょう。
マクラーレン、フェラーリ、ルノーにしろ、その後のレッドブル、メルセデスが、平等の思想のもとにレース車両を開発したからトップを獲得することができたのかと、問われれば、言わずがなものです。
新自由主義的な社会思想が蔓延すると、格差社会の固定、F1で言えば、ろくなテストもできずに最初に合同テストをした順位が、そのまま一年間の順位に「固定」される傾向を強くもっている、ということになります。
私が聞いた話を思い出せば、例えば、雨の日にだけ、特段に早い、もしくは周囲のペースダウンよりも少ないペースダウンで走行することができる弱小チーム、そのような存在が、新自由主義的な思想のもとでのF1では、存在することができない。
多様性を考えるのであれば、あのチームは、非力でポンコツだけど、エアロの性能だけはずば抜けている、とか、上記の雨の日にだけ勝つチャンスが出てくるチームだとか、そのようなチームが混在しているのが、多様性であるのですが、新自由主義的な「平等」が適用されると、「平準」化された規則をスタートラインにされ、運動靴で走る選手、自転車で走る選手、スポーツ自転車で走る選手、二輪自動車で走る選手、エトセトラと無差別級のレースが提示されることになります。
ただし、スタートラインには「平等」に立つことはできるけれども、そこから「一人勝ち」しようとすれば、そこは資本力の大きいところが「総取り」をすることができる。旧来の、封建的な規制を排除する、このようなシステムが、新自由主義的な「自由なる競争」である、と。
旧来なるものを糾弾するだけが、人類に進歩をもたらすものかどうか。
勉強途中に小説を読み耽っている少年。
「あれは?」
「小説。どう説明したらいいか・・・。ようするにウソ話をもっともらしくつづったものだ。文字というものを伝達手段として読み取っている。」
「ウソとわかっているのに読むのか。」
「理解を絶するやつらだよ、まったく」
「で、その内容は?」
「地球人が銀河系を支配する話?!」(議長を含めた四人の代表者全員ひっくり返る)
「地球人討つべし!!」
「ウソだといってるのに。」
1980年代というのは、校内暴力が問題になっていたその社会背景についても、藤子氏は、徹底した日常の観察を表現します。
勉強を休止して小説を読んでいる子供に、メス親が小言を言います。
「親の欲求不満は子どもに向けてぶつけられる。子どももたまりかねて逆襲する。地球人の巣でよく見かけられるごくありふれた小戦争だ。」
「われわれには親子関係というものがないので理解できないが、彼らの結びつきは、かなり不安定であるらしい。」
「他の動物の「子別れ」や「巣立ち」は、ごく自然に行われる。人間がもっとも不手際だ。」
「この少年の心は爆発寸前にある。他の者は、だれ一人気づかないが、追いつめられ、絶望的になって大きく軌道を踏み外そうとしているのだ。」
年頃の少年の心持ちを、丁寧に観察しています。柳田國男の「民俗学的方法」に及ぶものだと考えます。
ちなみに、久しくなかったインフレ時代において、物の値上がりを、誰かのせいにしたがっている社会の風潮がありますが、1980年代も、インフレの時代であります。
その当時の家計を預かるメス親の観察も記録されています。
「お給料は上がらないし、いろんなローンがかさむ一方だし、暮らしにくくなるばかりだわ。しまいには一家心中でも考えなきゃね」と、おそらく当時の中流程度の家庭においては、ごくごく一般的な「小言」があります。
この小言に対して宇宙人は、反応をします。
「聞いたか!地球人は集団自殺を考え始めたぞ!!」
「地球人はどんどん貧しくなりつつあるらしいぞ。この分ではやがて全員うえ死に・・・。」
「それは違う。調査開始以来、一〇〇〇チクタク(オー次郎型宇宙人の時間概念)のデータを通して見ると、地球人は豊かになっている。」
「個体の摂取カロリーをくらべてみれば明らかだ。調査開始時においてはほとんどが食うだけで精一杯の毎日だった。大づかみにいって、所得は上昇し、労働時間は短縮の傾向にある。「アリとキリギリス」の話など作って勤勉をたたえたのは昔のことだ。今やぬけがけのアリを牽制するために、法律で休日をふやしているほどだ。」
「それは理解できる。」
「生存のためエネルギーは、失う分を少なく、得る分を多くと考えるのは自然なことだからな。」
「その点地球型生物も例外ではなかった。」
インフレ時代の当時と、現代においての差異はなんであるのか。
労働者の、次の給料はともかく、来年の給料は、今より良くなっているという「楽観的希望」を持ち得ていた割合が多かったからではないかと、私は考えるようになりました。
50代を迎える頃には、老害だと言われて、正規雇用であろうが非正規雇用であろうが、席を譲らなければならないと、将来を俯瞰すれば、若者の労働意欲を、どこまで高めることができるのか。
消費意欲よりも、いかに効率よく「カネ」を貯めるのか、生み出すことができるのかに注力を向ければ、次の世代を育てることが、結果的に、自分達の生活コストを下げることだったことに、気がつくはずがありません。
あ、私は、独身生活者でした。
「楽して、もうかる社会」を彼らが目指しているとすれば、目覚ましい成果というべきだろう。」
「しかし、欲望が常にそれを上回って肥大化するため、地球人の不満はむしろつのるばかりなのだ。」
「おそらく彼らは、永久に満足しないのではないか。」