
自民党の総裁選の話題に、「選択的夫婦別氏制度」が取り上げられるようになりました。
30年前、国際法の授業を担当していた教授が、この法案の作成に関わっていたこともあり、当時、完成していた法案を、あとは国会に、提出をして法制化するだけだが、法案を審議に出すのさえ、与党の議員さんが首を縦に振らないので先に進まないと、苦々しく話をされていたのを覚えています。
そのような事案が、総裁選の話題に上がっていることについて、感慨深いものがあります。
私の記憶では、古い価値観の家族制を排除して、新しい価値観を導入するのだという意気込みよりも、男女が労働者として社会に参画する際に、憲法が保証していない夫婦別姓である場合の、想定される社会生活上の不利益が、いずれは社会の損失になることを回避するための法案、であったと。
グローバリズムの世の中になる、ということを見越しての(これが社会にとって中長期的な公益性がどのように働くのかはともかく)、法整備の一端であった、と考えることは、妥当でもありましょう。
何が保守であるのか、リベラルであるのか、線引きが難しいことではありますが、論理的には、保守的な姿勢が強いのであれば、「価値観外交」とは相容れなくなるのが筋道であります。
SDGsであろうが、夫婦別姓であろうが、「どこかの集団」の価値観に沿った行動をすることを是とするならば、自らが所属する、時間を共有した集団の価値観と異なっていたとしても、受け入れるということになります。
ですから、保守とリベラルの線引きは難しいのでしょう(毒)。
自動車においての、保守とリベラルは、どのようなものなのか。
内燃機関とEVの、どちらを支持するかで、その思考の枠組みを見ることができると考えます。
リベラル的な姿勢を持つ方々に、評価されるのがEVになるのは、これは、EVの機能性が、内燃機関に比べて優れているという認識の前に、既存の社会のスタンダードである内燃機関の自動車が構成する社会構造に反発することが、リベラル的な姿勢である、と、周囲から認識されやすいということも関わっていることでしょう。
例えば、既存の社会のスタンダードがEVであったとすれば、別の仕組みの機関方式を評価することになる、このような性質があると、私は推察します。
保守的な姿勢を示すとすれば、内燃機関を支持することになります。
ですが、これも、リベラル的な認識と同様に、内燃機関の機能性がEVに比べて優れているという認識の前に、既存の社会のスタンダードを維持することが、保守的な姿勢となります。
これは、大きく言えば、人類社会が内燃機関と時間を共有してきた歴史が、保守的な姿勢を作り上げると、考えることができます。
これをどこぞの保守評論家は、地元の横丁の蕎麦屋を守ること、と表現したのは、日本的な保守の表現でありましょう。
両派から煙たがられるのが、どっちも良いところがあるでしょう、と、常に中庸な姿勢を示すことです。
これは、室町時代にすでに題材にされている現象で、「酒飯論絵巻」に描かれています。
酒飯論絵巻は、16世紀中頃に成立したとされる。本絵巻は江戸時代後期の写しで、詞書を欠く。酒好き(上戸)と飯好き(下戸)、酒と飯の両方好きな者(中戸)がそれぞれの長所を競い、中戸がよいと説く内容である。これらは法華宗と一向宗、天台宗の宗教対立を暗示しているとされる。(酒飯論絵巻 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221634(2024年9月20日))
個人的には、二酸化炭素の排出量を「本当に」気にかけるのであれば、現状の内燃機関を工夫していった方が、開発段階から含めて、環境負荷が少ないのではないか、という姿勢であります。
社会が、一つの方向に向けば、それまでの不具合の大半が解決されるようなお話は、いかにもできすぎだろうと、このような私の懐疑的な態度は、保守的な性向から導き出されるものでありましょう。
現状のEVでは、私の生活においては、不足する事態が考慮されますし、その不足が将来的に補われるのであれば、内燃機関であろうが電動機関であろうが、可処分所得の範囲で(笑)選択肢が定まるだけです。
さらに、自動車の動力機関の選択が、本当に環境負荷を減らせているのであれば、ますますどちらでも良い、と、私などは考えます。
Posted at 2024/09/22 10:31:50 |
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