私のモンテ備忘録シリーズとして初めての遠征だった1976年とその翌年の2回のWRCモンテについて書きましたが、その
1977年モンテの最終回に、次は1979年について書きますと言ってから早や2か月近く経ってしまいました。ごめんなさい。
ようやく始めますが、1979年のモンテはその体制から望外の結果まで、私のWRC7戦とイストリーク7戦のモンテ経験のなかで最も記憶に残る1戦でしたので、長い連載になってしまいます。たぶん。「まあ夜更けに酒でも飲みながら読んでやるか・・・」みたいな感じでお付き合いいただければ嬉しいです。もちろんこれまでのように途中でいろいろ他のトピックスも挟んでいってしまうので、長いうえに長~くかかってしまうと思います。
さてさて、
77年の15回目に書いたとおり、当時のドライバーだった中川さんがストラトスやらアルピーヌやらに混ざって日産サニーで走ったあと、周りの平べったく尖った”カッコイイ”マシンにノックアウトされてしまっていたのです。非力なサニーでは繋ぎ区間も全開が多くなってしまったこともあり、カッコよくて速いマシンで走ってみたい欲望が盛り上がったんですね。
そこに翌年78年に新発売されたのがマツダRX-7でした。もちろん初代のSA22Cモデル。今は無きロータリー・エンジン。
彼はこれで走りたいと思っちゃったんです。そこでやったことは、若気の至り(?)で何のコネも無いマツダにラヴレター(当時ですからeメイルじゃなく手書きですよ)を送っちゃったんです。RX-7でモンテを走りたいと。それがマツダの内部で最終的に広報へ回され、なんとローンチに使った広報車の1台を貸与してくれることになっちゃたんです。私は最初から笑ってみていたのですが、あららこりゃタイヘンだ。
マツダさんとしては、昔のコスモ以来となるスポーツカーの新型車を発売して、何でも話題が欲しかったのかなと今となっては推測します。それにしても古き良き時代でしたね。
ただ、広報車を1台貸してくれても、もちろんそれは市販ノーマルカー。モンテを走るラリーカーにするためには規定の安全装備をはじめ最低限のモディファイが必要。スポンサー関係で相談に乗ってもらっていた松本在住の先輩が所有していたロータス7などのメンテを依頼していたレースメカを紹介してくれて、そこに依頼することになったのですが、なんとこのかた超有名なヒトだったんです。故風戸裕さんが欧州F2を転戦したときのチーフメカだった猪瀬良一さん。そう、あのノバ・エンジニアリングの猪瀬さんです。この当時は千葉のほうでイノセ・コンペティションというレーシング・ガレージをやっていて、そこに運び入れました。
ローンチ時のRX-7のイメージカラーだったウグイス色メタリック。この写真を撮った時には既にフロントに補助灯が付けられています。仏CIBIE製のポルシェのボンネット用の補助灯を4つ。CIBIEの日本代理店だったSSリミテッドという会社が提供してくれたと記憶しています。
この当時まだ日本国内ではラリーに大きなスポンサーがついてくれることなどほぼ皆無で、これについても前出の先輩の世話になり我がチームは恵まれました。これについては次回以降に。
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Posted at
2021/10/13 11:30:47