正式結果が発表され、パルク・フェルメも解除になったので、RX-7を引き取りに行きました。
暫定結果が出てから、チームからのクレーム等を受け付ける時間が用意されていて、もし出されたクレーム(出すには保証金が必要です)が車両に関するものだったときに再検査ができるようにここで手を触れられないように保管されていたわけです。
そして夕刻にはF1で走るトンネルの上にある会場で表彰式がありました。
総合7位のミシェル・ムートン/フランソワ・コンコーニ組。
女性クルーのトップ賞であるクープ・ド・ダムも授与されました。
ミシェル・ムートンはこの後1981年にはアウディのワークスチームからクアトロに乗りラリー・サンレモで女性初のWRCウィナーとなり、翌82年には3勝して、同じアウディ・ワークスのヴァルター・ロールと世界選手権を争い惜しくも2位という輝かしい歴史を残しますね。
そしてグループ2クラス4優勝の我々です。
カップが3つなのは、クラス優勝のカップに加え、そのクラスのプロモーション部門の優勝カップと、なんとクープ・ド・ジャポネという日本人トップ賞なんてのも用意されていたからです。
”プロモーション”はRX-7のドアにも黄色いスティッカーが貼られていたように、ワークスやディーラーからのエントリーではないプライヴェイト・チームのトップに与えられる賞です。
紅い女性はレーニエ大公のマーガレット王女です。
光栄なひとときでした。
式が終わって地下の駐車場で記念撮影。
夜になってからはガラ・ディナーに出席しました。
これを含めてが Rallye de Monte-Carlo ということです。
会場のステージのカーテンが開くと、総合優勝のストラトスが置かれていて、ウィナーのダルニッシュが踊らされるなんていうエンタメも用意されていました。
これで1979年のモンテは全て終了となりました。
私はこのあとサービスカーで使ったプジョー504ブレークで一部のチームメンバーとイタリアはミラノへ行き、コモ湖畔を通ってシンプロン・トンネルでプジョーを貨車に載せスイス入り。スキーをしてから、最後にパリまで走って帰国しました。元気でしたね~若かったですから。
RX-7はこんどは空輸ではなく船便で日本へ送り返し、マツダ広報に返却されました。
これが後年になってマツダに保管されているのがわかり、その後2009年に Rally Monte-Carlo Historique で走ることに繋がるのでした。
その経緯はそのうちここで書きますが、その前にこの2年後に日産車で走った1981年モンテの備忘録を書いていきますのでお付き合いのほど。
Posted at 2022/09/26 13:52:56 | |
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