私のラリー・モンテカルロ備忘録。
今日からはまたモンテに戻りますが、「番外編」として1994年の WRC Rallye Monte-Carlo 備忘録を書いていきます。
なぜ番外編なのかというと、この年のモンテはそれまでと違って自身で走ったのではないからです。まずはその経緯をお伝えしておきましょう。
私にとって5回目のモンテとなった1984年の時まではサラリーマンとして半導体業界とかのクルマ関係ではないメーカーに勤めていました。その後89年に2回目の転職をして、初めてクルマ業界入りしました。当時英国の自動車メーカーだった Rover Group の日本支社のマーケティング部門に就職しました。このみんカラのブログを読んでくださっている皆さんならご存じのように、その頃のローバーはミニ(クラシック・ミニですよ)を造っていて、ジャパン社内ではミニ以外のモデルは全然売れないので自虐的に「ミニ・ジャパン」なんて言っていたくらいでした。
それでミニ・ブランドには大きめの予算を使ってプロモーションをしていました。この前年に英国本社から、94年はミニがモンテで初めて勝ったあの有名な年から30周年になるのを記念して再挑戦しようとの誘いが、その当時もうミニの世界一マーケットになっていた日本支社にあり、それを受けるカタチでミニを送り込むことになりました。
本社からのオファーは、マシンは本社のスポーツ部門ローバー・スポーツが仕立て(といっても実際の製作は関係が深かった外部のチューナー)、現地でのラリーサポートも担当。日本側がチームオーナーというカタチで主にスポンサー探しなどを担当というものでした。
そしてドライバーとコ・ドライバーとして本社がオファーしてきたのが65年のミニ2勝目のウィナーコンビだった元祖”フライング・フィン”ティモ・マキネンとポール・イースターというホンモノ! 我々のプロモーション・プランには最高のコンビでした。
このストーリーに乗ってくれてスポンサーになってくれたのが出版社ネコ・パブリッシングやミニの日本向けクーラーを製作していたユニクラ社でした。(なのでここに使う画像のいくつかはネコ・パブリッシングから出版されたページから使わせてもらいます。)
というわけで、社内で唯一モンテを始めWRC経験があった私がプロジェクトを仕切るかたちになり、本社と交渉。年が明けた1994年正月にマシンのシェイクダウン・テストに立ち会うために4日に渡英しました。
まずは5日にローバー・グループがゲイドンに所有していたブリティッシュ・ヘリテイジ・トラストというミュージアムで本社側と打ち合わせ。
65年にマキネン/イースターでモンテを制したホンモノ52番とも再会。
後ろの37番は64年ウィナーのパディ・ホプカーク車。177番はあの有名な66年の失格事件の翌年67年に雪辱を果たしたラウノ・アールトネン車ですね。
同行したネコさんの撮影取材のために3台を館外に出してくれました。立ってるのはまだ髪の毛があった私です(笑)
シェイクダウンは翌6日に行われました。
トレーラーに乗せられたミニが到着したここはどこでしょう?
ここは英空軍のエアフィールド。この時代はローバー・グループの親会社が英国政府が株主でもあるブリティッシュ・エアロスペースという航空機メーカーで、そのコネを使って使わせてもらったようでした。てなわけでこの日は英空軍の”凄いヤツ”を目撃するオマケがつきました。さあ何でしょう?
この日は生憎の雪でしたが、モンテのテストにはピッタリ感がないですか?
マキネン&イースター両御大も到着して挨拶と打ち合わせをすることができました。
赤がティモさんで黒がポールさん。と私です。
このあとふたりで実際にミニを走らせてシェイクダウンを行いました。
Posted at 2025/10/15 18:02:47 | |
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