このとき大観衆は総立ちとなり、日本人であることに気づいた!
プリンス自動車は、
第2回日本グランプリ(1964年5月3日)のGT-Ⅱクラスに向け全社規模に及ぶプロジェクトを立ち上げた。中川を最高責任者として、エンジン実験課の青地康雄をワークスチーム監督、設計課の桜井真一郎をレース車開発チーフに据え、ほとんどのスタッフが市販車の開発と同時進行で取り組んだ。
スカイライン1500のホイールベースを200㎜延長し、ウエーバー3連キャブを採用した125馬力のG7型6気筒エンジンを搭載した「スカイライン2000GTB=S54Ⅰ」が開発された。
鈴鹿での事前テストで当時の国産車では最高となる3分を切るタイムを記録し、レース前から競合メーカーの脅威となった。
GT-Ⅱレースでは、スカイラインGTの圧倒的勝利が予想されたが、思わぬ強敵があらわれる。
ポルシェカレラ904である。
このレースに、トヨタと契約しているレーサー・式場壮吉が個人輸入したドイツのポルシェカレラ904が急遽参戦してきた。
カレラ904は、ポルシェが生産したレーシングGTで、エンジンは水平対向4気筒OHC1966cc、出力180ph/7200rpm、最高速260km/hといわれる怪物マシン。FRPのボディは重量わずか575kgしかなかった(実際にカレラGTS904は、64年と65年にGT-Ⅱの世界チャンピオンになっている)。
その最新鋭のマシンが日本の鈴鹿サーキットに現われたのである。
いよいよGTレース決勝は熱戦の幕が切って落とされた。
スカイラインGTは7週目のヘアピンでポルシェカレラをとらえて抜き8周の大部分の間、カレラをリードするという白熱のレース展開を見せたのである。
-純粋のレーシングGTマシンと生産車ベースのGTの差-
その大きな差を感じさせずに手に汗握るデッドヒートを演じ惜敗したスカイラインGTの健闘に17万人の大観衆は拍手を惜しまなかった。
このレースは日本の戦後のモータースポーツ史で最初の、そして最も感動的な場面として永く語りつがれていくことになる。
しかして砂子義一のスカGが2位、生沢が3位、以下6位までスカイラインGTが独占。
さらに1600クラスの決勝でも、スカイライン1500は1~8位すべてを手中にするという軌跡の離れワザを演じ、堂々たる記録を樹立、スカイライン強しの評価を人々の胸に刻み込んだ。
初代スカイラインGTは、第2回日本G.P.後、注文が殺到し、市販台数が限られていたためにセールスマンが注文したユーザーに謝ってまわるのに大わらわとなった、というエピソードも生まれた。
スカイラインGTはその最初のモデルのデビューレースで大成功を収め、神話を創造、そして
「スカG時代」をつくりあげるキッカケをつくりだしたのである。
写真は、誰もが日本人であったことを思い起こさせた「神話」のシーン。
なんと1100kgのスカイラインGTが575kgのポルシェを従えて走るこのシーンに入場者は総立ちとなり、大きなどよめきが起こった。
このポルシェに勝てる車を作りたい。設計者・櫻井真一朗はこのレースで負けたくやしさから、あの
R380を生み出すことになる。
古いビデオを整理してたら出てきた・・・
スカG伝説の始まり1/2
涙チョチョギレルシーンが・・・
スカG伝説の始まり2/2
徳大寺のおっさん、若~ぃww
Posted at 2007/10/04 18:18:53 | |
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ニッサン | 日記