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ひらの。のブログ一覧

2024年04月21日 イイね!

飯田街道

飯田街道食べつけていなかったインスタントラーメンを食べ始めて、週三ペースで食べていると、流石に体重の増加と、それ以上に、体の見た目が大きくなります(笑)

体重の増加は、おすすめされていたので、兎も角ですが、体が大きくなると、着る服のサイズを変更しなければならないので、それが面倒に思え、増えた体重をそのままに、体を絞ることができないか、具体的には、ズボンのベルトの穴、ひとつ分(約3Kg)を減らしてみようということを考えます。

まずは、週三ペースのラーメンをやめて(当たり前)、食事を元に戻します。

戻してみるとわかるのが、ラーメンをやめて、塩分の摂取量が減ったおかげで、味覚の曖昧さが少なくなったこと、夜中に、喉が乾くことがなくなったこと、体のむくみが減ったこと。
塩分が悪者だとは思っていませんが、私にとって、味覚の曖昧さが取り除かれたことで、仕事がしやすくなりました。

10ヶ月ほど冷蔵庫で寝かせ、ひと月ほど常温で保管していた日本酒を開栓して、味見をすると、苦味を覚えます。
翌日、改めて味見をすると、苦味は収まり、期待通りの旨味と爽やかさのバランスの取れた印象を持ちます。
お刺身、特に白身との相性がよく、魚の脂を上手に流してくれます。

長い間、冷蔵庫に入れていると、このような苦味を感じることはありますが、常温にしてひと月ほど経過させても、苦味は、すぐには消えないようです。
これも勉強になります。

世代間による好む味わいというものが、大雑把にでもあるとすれば、この蔵元杜氏さんと私の世代は、ほぼ同じ。

味わいが足りないともいわれそうですし、味わいが多いともいわれそうであります。

好むビールで言えば、エビス、キリン(昔の)ラガーを好む方からは、前者の意見が、スーパードライを好む世代からは、後者の意見が出てきそうです。

この世代の好み、というのも、その時代の思想の流行、といえるのか、その時代の主流に対する対抗運動としての立ち位置(=商品が貨幣に換わりやすくなる)にもよりますので、一概に括ってしまってよいのか、疑っています。

ではどのようなモノが、対抗運動の基準となるのか、と考えると、それは、自己決定していないもの、と考えています。
Posted at 2024/04/21 15:51:36 | トラックバック(0) | 路線名 | 日記
2024年03月26日 イイね!

竹内街道

竹内街道購入してきた日本酒の経過を観察します。

一本は、十年貯蔵(製造元)の山田錦ブランド。
もう一本は、四合瓶千円でお釣りが来る、日常使い向けのもの。

この両者において共通していたのは、開栓した瞬間では、幅のある味わいを楽しめられない、ということでした。

開栓初日から数日間は、常温(冷や)でも、四十度弱のお燗に仕立てても、ラベル内容から察することができる、思うような味わいを感じることができず、それこそ、チンチコチン(笑)になるまで熱くしてみましたが、ただ熱くなり、辛口に感じられるだけ。

このような場合、更なる時間の経過が必要か、それとも、もうこのまま過ぎるのか。

私にはよく見極められませんが、少なくとも、山田錦ブランドから引き出される味わいの構成としては、酸味と甘味が出てきてほしいところですが、その気配がありません。

このような見方は、論理的で、味わいの偶然性を軽視する傾向があると思われるようですが(妄想)、個性というものが、人と同じことをしていても、どうしても違ってくること、だと捉えると、山田錦という材料を使って、作り手と、その土地の環境で制限されたゆえの味わいが出てくるのであれば、それは、個性となりえるでしょう。

私は偶然性を徹底的に排除した後の、偶然性、というものには興味があります。
そこには、未だ至らない技術の可能性があるからです。

二週間ほど経過したある日、経過観察に口にしてみると、十年貯蔵酒から、ようやく味わいの変化を感じられます。
口当たりに酸味がきて、やや甘く感じられます。

・・・なかなか、難しい。

貯蔵酒としては、まだパンチ(存在感)が不足しているような気もします。
この先にまだ本質が、隠れているのでありましょうか。

さて、もう一方の、日常使い向きの価格設定の日本酒も、開栓当初は、十年貯蔵酒と同様な印象でありました。

色沢淡麗、味わいは、固く締まった感のある、ネガティブに言えば、味わいの幅がなく、アルコールの後味(刺激)が「辛口」に感じられる構成。

なるほど、「淡麗辛口」の酒とは、このような表現になるだろうという、お手本のような仕上がりです。

数日間、観察を繰り返しましたが、味わいに変化は訪れず。

これに類似する酒質は、東広島でも同様な傾向を持った味わいの酒を口にしたことがあることを思い出しながら、これも二週間ほど時間を経ると、飲み口から、味わいの複雑感が前に出て、味わいのバランス感の良さからもたらされるであろう、まろやかさと、喉越しの良さのスッキリした後味が、開栓当初の、味わいが少ないがゆえの辛口とは別の、辛口感を、覚えます。
山地と海辺に挟まれた生活圏で好まれる、良き純米酒の姿であると考えます。

そして、この酒質を、「淡麗辛口」と呼ぶよりも、「淡麗旨辛口」と称した方が、名称と中身との整合性が出てきそうなものですが、過去の宣伝文句の「淡麗辛口」と、名称と中身の掛け違ったボタンの影響は、数十年経過した現在でも、強い影響を残しているようです。

一升瓶での飲用が考慮され、耐久性を有している、むしろ時間を経過、酸化させて味わいを引き出すような清酒を一日で飲み干してしまうのは、勿体無い場合もある、のでしょう。

一升瓶のある生活か。

私の世代の感覚でも、導入するのには、ハードルがあるよなと。

自分の生活で考えれば、例えば、一本あたり三千円でお釣りが来るものを、三本、地域別で揃えて、ローテーションしながら三ヶ月を楽しむ。

地域は、例えば、灘系、広島系、北陸系の三つを揃えれば、食中酒として、かなりの範囲をカバーすることができるのだろうと。
ワインとは違い、温度帯を幅広く変えることができるので、それだけでも食中酒として、アドバンテージがある。

などと考えていると、清酒というものは、欧州におけるブランデーに枠組みをするとと、整合性が取れるのではなかろうか、と、不意に、頭をよぎります。
Posted at 2024/03/27 17:20:56 | トラックバック(0) | 路線名 | 日記
2023年12月24日 イイね!

水郷街道

水郷街道私の清酒の保管方法は、基本、常温。

蔵側の指定で、「本当に」冷蔵庫保管が推奨されていれば、「冷蔵庫」保管をしますが、開栓をしたら、基本、食卓の上での室温、常温保管になります。

そこで、「美味しくいただけなくなったら」、それまでですし、現状、「美味しく飲むことが出来なくなった」清酒は、片手で数えるほどです。

その「美味しく飲めなかった」もしくは、「美味しく飲めなくなった」清酒の傾向としては、最初からそうであるのと、常温保管が原因で「そうなる」パターンとあります。
いわゆる、早飲み(開栓したら早く飲み切って、もしくは、瓶詰めされてから早く飲み切って)型とジャンル分けされるのでしょうか。

製造者の、想定通りに「美味しくなくなった」型としては、設計通りなので、これはこういうものであります。
価値があるかは、飲み手の価値観に、委ねられるところでありましょう。
私としては、設計通りであるならば、そんなもんでしょう、と。

今のところ、印象深く、ネガティブな(不味かった)清酒は、二つ。
一つは、お土産売り場で売られていた吟醸酒。
一つは、蔵元で直接購入した吟醸酒。

前者は、管理不足か、もしくは、瓶詰めされる前からこうであったのか。
飲んでも、どうすればいいのか、よくわからない(笑)

後者は、裏書の解説にあるような物語の味わいの状態であるとするならば、論理的に、破綻している味わいの構成。
その時代に、この香り成分は、存在しないだろう上に、どのような機能を持たせたかったのか理解に苦しむ味わいの構成。

しばらく時間経過をさせて観察してみましたが、冷蔵庫で冷やしても、燗酒にしても、どうしても、私程度の技量においては、美味しく飲むこと叶わず、廃棄となりました。

昨今、環境問題が問われていますから、そもそも常温保存が適当であった品質を、わざわざ電力使って冷蔵保管をしなければならないものを製造していることについての、これまでとは違うベクトルの知的操作がなされても、不思議ではない情勢だと考えます。

言い出したもん勝ちですので、それまでどのようなものを供給していたのかは、すぐ忘れることが出来そうです(毒)。

ポジティブな印象の清酒は、四六時中、室温が割合高めの一定した空間で、日光からは遮断されていた状況で開栓後、一年以上経過した純米酒の味わいが、開栓してから味わいが落ち着いた頃と、ほぼ同じ、つまり美味しく飲むことができる状態だったこと。
熟しもさせず、かといって落ち込みもさせず、清酒製造の技術力とは、こういうこともあるのかと、目を開く思いでありました。

さて、清酒に関しても、日常使いの用として、常温保管というものに、日の目を向けても良さそうであります。
葡萄酒においても、日常使いのものは、台所の片隅に常温保管しているのも、一つの好例でありましょう。

一升瓶を壁に並べると、豪勢ではあります(笑)

やはり、四合瓶を、ワインラックのようなものに並べるというのが、想像をしやすいのですが、横に寝かせるよりも、立てておいた方が、四合瓶のデザインに持たされた機能としては、妥当である気がします。
この点、ワイン瓶のようなデザインの四合瓶も作られていますので、瓶形や中身の清酒の機能にあった保管の方法で良いのだと考えます。

これが、ウィスキーとなると、「魅せる」と称した方が良いような、保管方法を選択している好事家の方々が多いのではないでしょうか。
なぜだか「魅せる」陳列をしたくなるのがウィスキーでもある、ような気がしますし、ウィスキーの瓶のデザインというものから、そのような印象を持たされているのか、興味が尽きないところであります(謎)。

この辺り、中身のアルコールに持たされている機能性が、「食中酒」であるのか「食後酒」であるのか、その差異が、瓶のデザインに及ぶものがあるのではないか、と、考えるのも楽しいものです。

欧米の価値観に即した国際社会においては、純アルコール量、という「知的操作」によって、摂取アルコールの制限というものが、国家、民族、個人の体質の枠を超えて、一律に、規定されるのが、ここ数年のトレンドになると見ています。

私にとっては、しんどい量でも、「一律」に規定されたアルコール量の範囲内での飲酒が推奨されるということになります。

この辺り、100年ほど前の雑誌文献を漁っていると、当時でも、清酒の低アルコール化が、議論されていたことがわかります。
これは背景に、米国の禁酒法の影響があったものだと、推測することができます。
さらには、資本制経済における技術の革新(行き先)としての、清酒の技術の方向性の考え方でもあるようです。
今でいえば、「低アルコール原酒」にするのか、それとも「加水」しても風味を損なわない「濃醇」な清酒を作るのか。
真逆なベクトルであっても、目指すべき地点は同様であったというのが、興味深いところであります。

私としては、拙い経験から観察していると、口にした「低アルコール原酒」においては、非常に酔い方がよろしくない印象を持ちます。
濃醇酒として製造された清酒を、加水(常温、湯割り)して、適度にアルコール度数を落としたものの方が、酔い方も、酔いの覚め方も、良好である印象を持ちます。
無論、「低アルコール原酒」の中においても、酔いも覚め方も良好(良質)と感じられたものもありますが、片手で数える程度でありますから、技術的に、濃醇酒を加水して低アルコール化させる方に分があるのが、2023年の現状なのでしょう。

低アルコール清酒において、課題とされるとすれば、長期保存に耐えうる酒質であるか否か、となると、100年前にも議論にあげられています。

100年前の議論の中でも、葡萄酒程度のアルコール度数にする、というのが一つの目安であったようです。
では、それが現在のような度数であったのかどうか。
100年前の葡萄酒と、それ以前の葡萄酒のアルコール度数と。
そして、それ以前の葡萄酒のアルコール度数は、現在よりさらに低く、そしてそれは、長期保存に耐えうる酒質であった、となると、アルコール度数の高さと、長期保存に適した酒質との関連性にも、興味を惹かれることになります。
Posted at 2023/12/24 10:38:27 | トラックバック(0) | 路線名 | 日記
2023年12月12日 イイね!

四条通

四条通今年に書き溜めていたブログを、今年のうちに消化しようと考えました。
第一日目は、ものづくりにおける「自然派」とは、どういうことか。
わかっていないことを、文章にしています。


欧州のワインビジネスモデルに、葡萄酒づくりにおいて、付加価値の一つとして、自然派という制作の考えがあります。

そこで疑問に考えている事柄の一つに、どこまでが人間の意志で「制作」されているのか、ということがあります。

どこまでが「自然」で、どこまでが人間の意志が入った「制作」であるか。
この「人間の意志」が、できるだけ遠ざけられていること(もしくはそのような印象を持たせること)に「付加価値」を認めるビジネスモデルは、昨今において「清酒」にも導入されているモデルでもあります。

このようなことは、哲学の歴史にも表れていたことで、アリストテレスとイオニアの自然哲学と対比させられているものでもあるようです。

アリストテレスは自然の生成と人間による制作(ポイエーシス)を区別した。彼の考えでは、自然学は制作者がいないものを対象とするのだから、制作的な学ではないし、実践的な学でもない。《制作される事物においては、この事物の外にあるところの制作者の内にその原理があるからであり(そしてこの原理は制作者の理性か技術かあるいはそうした或る能力である)、また行為〔実践〕される事柄においても、その原理は行為する者のうちにあるからである》。故に、自然学は理論的な学である、と彼はいう。柄谷行人 『哲学の起源』104頁 岩波現代文庫

しかし、アリストテレスが自然の内に目的因を見出すとき、実は、神=制作者の観点から自然を見た上で、それを自然に内在化しているのである。それに対して、イオニア派は目的因を拒否する。自然の「生成」は、目的を持たないがゆえに、「制作」とは異なるのである。だが、生成をこのように考えることは、制作の意義を否定することにはならない。それどころか、イオニアの自然哲学者は制作や技術を重視し、それにもとづいて生成を考えたのである。柄谷行人 『哲学の起源』105頁 岩波現代文庫

さて、自然なもの、から、生成されるものはどのような特徴を持つのか。

その地域の自然環境に強く影響を受けた、「独特なもの」に、ならざるを得ないと、私は考えます。

これを人間の側が、できるだけ自然の意思に沿った作り方を、というのは、思想の話であって、現実的には、人間の制作(意志と技術)が関わり合わざるを得ないだろう、と考えます。

私は純粋主義者ではありませんので、これらの(自然に寄り添う意志:人間の制作する意志)割合の塩梅が、自然派という印象を持たすことができるのだろうと、観察しています。

この辺り、東洋哲学的には、どのような解釈を古代の人はしていたのか、そういうことにも興味が向きます。
Posted at 2023/12/12 22:03:56 | トラックバック(0) | 路線名 | 日記
2023年11月03日 イイね!

名岐バイパス

名岐バイパススーパーで買い出しをして、日本酒コーナーに足を向けると、黒松剣菱の五合瓶が目に入ります。

日付を見ると、5ヶ月前。これは塩梅が良さそう(謎)

わたしは大雑把なA型がきいているのか、北西角部屋の2階の部屋に、一年も二年も純米酒を常温で放置してしまったりする傾向があります。
それから比較すれば、スーパーで半年近く、放置されているのは、気温や湿度も一定に近く、日光の紫外線による影響も受けにくい環境であります。

常時3本ほど常温で保管している、この時の開栓済みの日本酒を飲み進めるのに、少々手こずっていた上に、口がどうも日本酒を欲しがる様子もなく、どうしたものかと思索していたところ、お燗にした方がよいのではないかと気がつき、お燗にして、ようやく、飲み進めることができていたそのような中、ついつい自分の好みの性質を持ち合わせたものに、手を伸ばしてしまいました。

帰宅して、夕食と共に飲み始めますが、好みの味わいということもあり、苦労なく(謎)飲みつけることができます。
ただ、飲むというよりも、舐めるというのが、わたしの飲酒事情であります。

トータルのバランス感が、非常に良く出てきているという印象。
角がなく、かといって、まろやかな印象が、後味のキレ感を減衰するようなこともなく、メーカーの想定した味わいの通りの順番で、楽しむことができます。

製品として、きちんと、仕上げられている、ということを、しっかりと感じることができます。

果たして、このように仕上げられている製品が、「自ずと」醸造されるような印象を持たされている、芸術品のような印象を受けるものに、劣るようなところがあるのか、というのが、私の昨今の懸案事項であります。

これは、芸術品の側から、比較をするな、と言われているような気もします。
では、自然な造り、という枠組みと、製品としての枠組みとの比較ではどうでしょうか。

製品として仕上げられている、ということが、≠自然な造り、であると考えるのは、どうしてなのだろうか。

自然とは、再現をすることであると考えれば、人間は、人為的に自然を真似しようとするにあたって、技術、というものを媒介に、自然の再現を作り出す目的があったのではないか、と、勝手に、妄想をします。

人為的な行為に、技術が媒介することで、自然の再現性を真似る。

人の技術とは、自然と対立するものではなく、自然を再現するための要素であった、などと考えると、人が作り出したものが、自然的ではない場合は、それは、人為的な要素ゆえ、ではなく、再現させる人の技術が不足、未熟であったからだと考えることもできます。

技術というものに、人為選択というものに、マイナスの印象を持つようになるのは、産業資本主義経済における資本の効率化のための、技術、と、混同するからではないでしょうか。

「おのずと創り出される」というフレーズに、どのような印象を持つのか。

自然にお任せした造り、人の意思を持ち込まない、謙虚に、自然の作用に委ねた作り、といった印象を持つことができます。

しかし福沢諭吉先生は、いいます。

文明開化とは、「束縛化翁是開明」=進化(自然)の神を縛り上げ、是を人間の生活の幸せの為に使いこなすこと、是が文明開化というものだ=

などと、飲めない酒を飲んでわたしが考えることですから、大したことはありません。

私は、独身生活者である分、偏った生活感になりやすい傾向を持っているので、芸術品よりもバランスの取れた製品に接することで、総合的に見て帳尻を取ることができるようにしているのでしょう(苦笑)
Posted at 2023/11/03 00:14:43 | トラックバック(0) | 路線名 | 日記

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