
日本酒における食中酒とはなんぞや、と。
私としては、詰めて考えれば、造り手の食の環境に左右されるものであろうし、求められている地域の食との相性に関連している、その辺りが基本ではないか。
その中で、評論家に「評判の良い味」の酒と、「食中酒」との関連性などを考えると、ドメーヌ、テロワールやら自然派なんたらや、というものを標榜すればするほど「評判の良い味」とは違うベクトルのものになるのではないかと妄想をしますが、似たかよったかの味わい(同位体分析をすれば成分構成は違うでしょうが)になっているのが多いのでは、というのが実感です。
むしろ評論家に(誰?)「評判の良い味」を、北から南の日本の領土で製造するのですから、そりゃそうなります。
それについては、日本酒の製造技術の経緯などを妄想すると、米の品質の良し悪しをできるだけ平らかにして、味わいの再現性を担保するための技術ではなかったのか。
100年前の文献を読んでいると、山廃で製造をして腐造が多発した事案について、それは生酛の造りに優位性があったわけではなく、温度の操作を、生酛と同じ方法で山廃造りをしたことが原因だと指摘していました。
生酛には生酛の、山廃には山廃のやり方があり、その帰着点は同じであると。
100年前の、収穫された米の品質にばらつきが多かった時代、外皮の硬軟に、今のような一定した安定性があったのであろうか、などと妄想をします。
などと考えると、きょうびにおける「生酛」や「山廃」造りにおいては、米の外皮の硬質さは、当時とはどのような差異があり、それをどのように「調整をしている」のか。それとも、これまでの酒造適合米よりも、外皮が硬質化している原材料の米を使っている、と想像もしてしまいます。
厳密に、「昔の製造技術」を再現できているのか、それともそのつもりはないのか。
「昔の製造技術」を「現代に合わせている」と解釈するのが、私には妥当のように思えますし、「昔の製造技術」を採用していても、現代の評論家(誰?)の「評判の良い味わい」を再現し続けられているのですから、やはりそのようなことであると、私は妄想をします。
なぜこのようなことを書いているかというと、食中酒として意識を強く持ったと、裏書に書いてある日本酒を購入し、開栓初日に飲んだ印象は、白ワインにおける食中酒のメソッドを日本酒に持ち込んだだけではないか、と疑念を持ったからです。
どのような料理にも、ご飯と合わせるように「合う」という裏書の文言の信憑性を、現在私は、担保できていません。
そのような文言のない、トラディショナルな姿勢の日本酒の方が、食べ物の方向性に捉われずに、邪魔をせず、寄り添うような印象で食事と合わさってくれている、ということを実感しています。
ちなみにこちらは、開栓2ヶ月、常温保存であります。私のような下戸にはもってこいの日本酒であります。
食事に「合う」とは、どのような状態になるのか、どのようなことを指しているのか、これも問題になります。お漬物を口にした方がマシ、という場合もあります。
日本酒とお漬物の機能の差異はどこに出てくるのか、色々考えると楽しいものです。
自動車の購入時にも通じるものがあるのではないかと考えます。
メーカーもしくは販売店が、この車はこのような環境で使っていただければ、よりよく自動車の性能を堪能することができます、ということを、カタログの写真くらいでしか表現していないのは、論理的な事柄に対して、どこか飛び越えさせるような瞬間が、売り手買い手の双方にあるからでしょうか(笑)
どうも私は、へそ曲がりでいけません。もっと素直になるのが、私の人生の目標です(遠い目)
Posted at 2022/10/16 11:49:02 |
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