
購入してきた日本酒の経過を観察します。
一本は、十年貯蔵(製造元)の山田錦ブランド。
もう一本は、四合瓶千円でお釣りが来る、日常使い向けのもの。
この両者において共通していたのは、開栓した瞬間では、幅のある味わいを楽しめられない、ということでした。
開栓初日から数日間は、常温(冷や)でも、四十度弱のお燗に仕立てても、ラベル内容から察することができる、思うような味わいを感じることができず、それこそ、チンチコチン(笑)になるまで熱くしてみましたが、ただ熱くなり、辛口に感じられるだけ。
このような場合、更なる時間の経過が必要か、それとも、もうこのまま過ぎるのか。
私にはよく見極められませんが、少なくとも、山田錦ブランドから引き出される味わいの構成としては、酸味と甘味が出てきてほしいところですが、その気配がありません。
このような見方は、論理的で、味わいの偶然性を軽視する傾向があると思われるようですが(妄想)、個性というものが、人と同じことをしていても、どうしても違ってくること、だと捉えると、山田錦という材料を使って、作り手と、その土地の環境で制限されたゆえの味わいが出てくるのであれば、それは、個性となりえるでしょう。
私は偶然性を徹底的に排除した後の、偶然性、というものには興味があります。
そこには、未だ至らない技術の可能性があるからです。
二週間ほど経過したある日、経過観察に口にしてみると、十年貯蔵酒から、ようやく味わいの変化を感じられます。
口当たりに酸味がきて、やや甘く感じられます。
・・・なかなか、難しい。
貯蔵酒としては、まだパンチ(存在感)が不足しているような気もします。
この先にまだ本質が、隠れているのでありましょうか。
さて、もう一方の、日常使い向きの価格設定の日本酒も、開栓当初は、十年貯蔵酒と同様な印象でありました。
色沢淡麗、味わいは、固く締まった感のある、ネガティブに言えば、味わいの幅がなく、アルコールの後味(刺激)が「辛口」に感じられる構成。
なるほど、「淡麗辛口」の酒とは、このような表現になるだろうという、お手本のような仕上がりです。
数日間、観察を繰り返しましたが、味わいに変化は訪れず。
これに類似する酒質は、東広島でも同様な傾向を持った味わいの酒を口にしたことがあることを思い出しながら、これも二週間ほど時間を経ると、飲み口から、味わいの複雑感が前に出て、味わいのバランス感の良さからもたらされるであろう、まろやかさと、喉越しの良さのスッキリした後味が、開栓当初の、味わいが少ないがゆえの辛口とは別の、辛口感を、覚えます。
山地と海辺に挟まれた生活圏で好まれる、良き純米酒の姿であると考えます。
そして、この酒質を、「淡麗辛口」と呼ぶよりも、「淡麗旨辛口」と称した方が、名称と中身との整合性が出てきそうなものですが、過去の宣伝文句の「淡麗辛口」と、名称と中身の掛け違ったボタンの影響は、数十年経過した現在でも、強い影響を残しているようです。
一升瓶での飲用が考慮され、耐久性を有している、むしろ時間を経過、酸化させて味わいを引き出すような清酒を一日で飲み干してしまうのは、勿体無い場合もある、のでしょう。
一升瓶のある生活か。
私の世代の感覚でも、導入するのには、ハードルがあるよなと。
自分の生活で考えれば、例えば、一本あたり三千円でお釣りが来るものを、三本、地域別で揃えて、ローテーションしながら三ヶ月を楽しむ。
地域は、例えば、灘系、広島系、北陸系の三つを揃えれば、食中酒として、かなりの範囲をカバーすることができるのだろうと。
ワインとは違い、温度帯を幅広く変えることができるので、それだけでも食中酒として、アドバンテージがある。
などと考えていると、清酒というものは、欧州におけるブランデーに枠組みをするとと、整合性が取れるのではなかろうか、と、不意に、頭をよぎります。
Posted at 2024/03/27 17:20:56 |
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