2016年12月21日
あり得ないことが、(122)
職場から電車で新橋まで行き、そこから歩いて店に着いた時には言葉屋はもうテーブルを占めて僕を待っていた。
「やあ、やっと来てくれましたね。さあ、どうぞ。」
言葉屋は僕を笑顔で迎えてくれたが、僕としては笑顔で迎えられたからと言って特に嬉しいということもなかった。
「いろいろ予定があるんでしょうが、申し訳ない。何にしますか。」
言葉屋が僕に注文を聞くのでビールとフレンチフライ、スティックサラダ、そしてチキンのから揚げを頼んでやった。もっとも今日は僕が払うつもりだったのでちょっと安目のものを頼んだのだが。
「じゃあ、乾杯と行きましょうか。」
言葉屋がグラスを持ち上げたので僕もちょっとグラスを差し上げて乾杯をした。
「いや、やっと希望がかなった。でもずい分久しぶりだな、こうして女性と二人で会うというのは。」
『そうかい、お前は女がいないのか。でも間違ってもらっては困るが僕は男だよ。』
そんなことは口が裂けても言ってはいけないので「へえ、そうなんですか。私なんか誘わなくてもすてきな方がたくさんいらっしゃるんじゃないんですか。」なんて月並みなことを言って誤魔化していた。
「そんな方はいないけど、もしも素敵な人がたくさんいたとしても佐山さんは特に十分素敵ですよ。」
「男の人にそんなことを言われたのは初めてです。」
四十数年男として生きて来たのだから実際素敵だろうが、素敵でなかろうが、男から「あなたは素敵だ」と言われたら大問題だろう。ただ、佐山芳恵になってからも、すらり氏、社長そして営業君にも好意的な言辞をいただいたので何かしら男性を刺激するものを持っているのかも知れない。
「いやあ、世間の男も女を見る眼がないなあ。こんな素敵な人を見ないなんて。あの会社もだめかも知れんなあ。」
言葉屋は何だか訳の分からないことを一人で言いまくっていたが、そのうちに姿勢を改めた。僕もちょっと緊張して何を言い出すかと身構えた。
「個人的なことなのであまり深く聞くのもどうかと思うんですけど、あなたは結婚もされていたようだし、男性の恋人もいたと聞いています。でも今は女性の方とお付き合いをされているようだ。それにある時期から、ごく最近のようだけど、全く別人と言っても良いくらいに人が変わってしまったと聞きました。
私にとっては多分変わってくれて幸だったと思うのですが、どうしてそんなに変わってしまったんですか。何か、何かと言っても言えることと言えないことがあるでしょうが、もしも良かったらその訳を聞かせてもらえませんか。」
やっぱりそう来たか。別に話してもかまわないが話しても信じないだろう。でも僕はここでちょっといたずら心を起こして本当のことを話してみようと思った。
「いいわよ。でもこれから私が言うことを何も言わないで最後まで聞いて。約束よ。」
言葉屋は「分かった」と肯いたので僕は、ある朝目が覚めたらこの体になっていたこと、それからは薄氷を踏む思いで日々の生活を生きてきたこと、元の佐山芳恵が付き合っていた男性は振り切ってしまったことなど僕の身に起こった一大事を公に関わる部分を除いて出来るだけ詳しく話してやった。
そして最後に「そういう訳で私の心は男のままなので普通の女性のように男性に添って生きては行けない。私は男として伊藤さんを愛しているし、出来れば最後まで彼女と生きていきたいと思っている。」と付け加えてやった。
言葉屋は約束どおり最後まで黙って僕の話を聞いていた。もしかしたらあまりのことに言葉も出なかったのかも知れない。そして僕が話し終わると「うーん」と一言うめくような言葉にもならない声を出した。
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Posted at
2016/12/21 23:06:02
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