2024年05月18日
”私のミャンマー 3”からの続きです。
ハノイのホテルはレイクサイドホテルでした。英語名でしたが、中国(台湾かもしれませんが)資本のようで、メインダイは中華でした。
N社のハノイ支店を訪ねました。その時に日本からの視察団が来ていたようで忙しくされていたので、not welcomeを感じていました。ここではハノイの日系企業一覧表をいただきました。ベトナム人の方のアテンドでハノイの会社訪問しました。
ハノイには外国人用の医療機関が多数ありました。ヤンゴンにあったAEAもあり、スイス資本のクリックもありました。AEAはヤンゴンのそれと同じポリシーでMedical Evacuationが可能であるならそうするが、ダメなら国内での治療というものでした。スイス資本のクリニックはそこまでの大掛かりなものでなく外国人医師のいるクリニックということでした。私の立場(日本の医療機関の人間)は話してますから、同業者ということでなかなか立ち回り辛かった覚えです。
企業訪問で記憶に残っているのは、野村が造成していたハイフォン工業団地です。会ったのは女性でした。こういう工業団地にクリニックを作るてのもありかなとこの時に思いました。
またその女性は数日後にここを退職してサイゴンのホテルに就職すると。彼女はもともとホテルで就労したかったようですが、ホテル経験がないとちゃんとしたホテルへの就職はできなとのことで、まずは途上国のちゃんとしたホテルで経験を積んでステップアップする計画だそうでした。なかなか勉強になりました。
アボが埋まらなかった時に、ホテルのフロントのおねーさんに頼みこんでハノイの観光案内を頼みました。市中の亀が御神体みたいな寺に連れてってくれました。彼女から説明(英語)を受けてる時に横から欧米人に割り込んできてその女性に質問します。了見の狭いは私ですから言葉にはしませんでしたが、バカヤローと叫んで!(笑)。
彼女にはお礼として夕食をと考えていました。ソフィテルホテルがハノイにあったのでそこでと思ったのですが、高額と思ったのでしょうか、もう少しリーズナブルなレストランに連れてってくれました。
そんないい思いができたハノイからサイゴンへ飛行機移動です。やはり、ベトナムエアーにて。
サイゴンもN社の日本人K氏にアテンドしていただきました。ヤンゴンのY氏もこのK氏も帝大の工学部卒とのことで、工学部から商社にかあとびっくりしてました。今は商社に理系からの就職っていうのは理解してますがね。
私は帝大ではありませんが、地方国大の工学部卒で良かったなあと当時は思いました(笑)。その後、自分の学科の卒業者名簿見たら、豊通が多かったし、日商岩井もありましたから、たまたま私の学年がなかったんですかね。学科は元々は機織科でその後、紡織科→繊維工学→繊維高分子工学→高分子工学→有機材料工学と変わっていきますが、いわゆる繊維科の時は豊通が多かったんでしょうね。当地には、豊田紡織、豊田自動織機がありますから。
サイゴンにもAEAがあり、デンタルチェアーが3台もありました。他にもハノイと同じように複数の外国人用クリニックが。ハノイよりは数が多かったですね。
この頃のベトナムは米国との手打ちが終わり、まさに離陸していく時だったと思います。サイゴンのAEAを見ると複雑な思いが生まれてきました。
ホテルはエコートリアルでした。3つの中では一番快適なホテルでした。日本食レストランもあり、久しぶりのカツ丼とビールは極楽だったことを今でも覚えています。
ハノイでホテルのおねーさんに良くしてもらったことで図に乗ってホテルのゲストリレーションの日本人のM氏(当然女性)にベトナムについて教えて欲しいから、時間がある時にいっぱい付き合ってくれませんかとオファーしてました。そうしたら、ちゃんと一度一緒にホテルのバーで飲めました。
そこでの会話というか話は今も私の中に残っていています。まあこういう途上国ですから、売春に話にもなります。
M 日本人が私にね日本人がどこに行ったら女を買えるんか?とへっちゃらで聞いてきますよ。
私 えっ、女性のMさんいですか?
M そう、私が女性ってことはお構いなしですよ。
私 (絶句)
M そこでね言ってやるんですよ。”あなた自分のパスポート見られてますか?そにはこの人間は日本国民だから帰国ではお守りくださいって書いてありますから、あなたは多分日本に送り返されるだけでしょうが、相手の女性はどうなるかわかりませんよ。当局に引っ張られて帰ってこれなくなったベトナム人女性を多く知ってます。そのお覚悟があるならお好きにどうぞ”と言ってやりますよ。
私 えっ、パスポートにそんなん書いてありますか。部屋に帰って直ぐに見てみます。
まあこんな会話で、あんまり色気のあることはありませんでした(汗)。でも、このことは自分の中ではセンセーションでその後の私の海外での立ち振る舞いには影響がありました。
この3都市訪問はやはり女性運はありました!
サイゴンの最終日にN社のK氏と一杯やりました。サイゴン滞在中によくゴルフしなくていいですかと聞かれていました。この時も聞かれたんで、”私はゴルフは大好きです。日本ではほぼ毎週自分の会員のクラブに行っています。でも職場(病院)の連中はこのミャンマー、ベトナム訪問は理事長命令でもどうせ大したことしてないんやろと思っています。もしゴルフして怪我でもしたら何を言われるか。ゴルフは帰ってから直ぐできますからお気遣いなく。ありがとうございます。”と。
日本への帰国は、ベトナムエアーでバンコクに。そこでJALに乗り換えて名古屋です。ヤンゴンを出る時に腹を壊しましたが、その後は何も無かったように覚えています。
3都市の候補地については、私の結論は出ました。ベトナムはToo Lateです。今から計画してオープンできるまでの時間考えてもすごい出遅れになります。かたや、ミャンマーは国際的に制裁を受けていて、まだ外国資本が動く気配もありません。そう我々にとってのニッチがあると思いました。
1996年の訪緬はこの一回だけでした。
5に続く
Posted at 2024/05/18 08:17:48 | |
トラックバック(0) |
ミャンマー | 日記
2024年05月18日
”私のミャンマー 2”からの続きです。
1996年、初めてのヤンゴン滞在です。
今思えば当たり前ですが、市中に銃を持った兵士はいません。いたってノンビリの街です。ただし、ヤンゴンの中心地はゴチャゴチャで忙しさは感じられました。
N社の所長から紹介された数名の現地在住の日本人の方にミャンマーでの医療についてお話をお聞きしました。お会いした時の第一声は、”こんな所によく来たね”でした。それはミャンマーをディスってのことではなくて歓迎の意味だと思ってました。なぜなら皆さんはミャンマーが好きなんです!帰国後に知りましたが、”ビルキチ”、”ミャンキチ”って言葉です。ビルマ(ミャンマー)好きってことです。
ミャンマーに儒教はないと思いますが、親を敬い、ポライトリーであり、日本人とは比べ物にならない敬虔な仏教信者です。(英国統治の関係でクリスチャンもそれなりにいますし、隣国の関係でモスリムもいます) 夜に女性が出歩いても安全な街でした。そして親切です、よく日本で財布を落としても返ってくるって外国人は驚いていますが、当時のミャンマーもそうでした。
そんな人々、街だからビルキチが生まれたんでしょうね。
医療関係の所の訪問ですが、公立病院には外国人は原則立ち入りができませんでした。お話を聞いた日本人の方からは、あんなんは野戦病院みたいなもんだから、行ったら病気になるよと。日本人に限らず外国人は私立病院に行くようでした。外国人が行くような私立病院には公立病院で働く有名な医師がアルバイトに来ていますから、ちゃんとエアコンのある私立病院の方が快適でありそこに教授なりの有名な医者が来ますからそこでの診察、治療の方が衛生的で快適です。機材もそれなりにはあるようでした。医療費は日本のような健康保険はありませんが、公立病院は原則無料です。タダだから何にもしてもらえないって言う人もいましたがね。私立病院は100%実費です。ですので、富裕層しか行きません。
実際、夕食をアテンドしていただいたY氏は私立クリニックの急外で診てもらってるとのことでした。この急外が外国人用診察室だったんです。面会のアポを入れていただいていたんですが、急用とかでその院長にはお会いできませんでしたが、後から分かったことでその後懇意にしていただいた元ヤンゴン第一医科大学学長のProf. Myo Myint(今後いっぱいこの方のことは書くと思います)さんでした。専門は整形外科です。
もう一箇所は、AEA(Asia Emergency Assistance)です。その後このAEAはSOSに変名します。
AEAは国外に移送できるならば移送する。それが生命に危険を及ぼすなら国内で治療するという考えの医療機関です。その国内治療のためにヤンゴン総合病院(ミャンマーで一番の病院です)の病室一室をキープしてるとのことでした。ここで初めてMedical Evacuation という言葉を耳にしました。Evacuationなんて聞いたことがなかったので(汗)。とは言え国外移送なんてそんな大事が頻繁に起こることはありませんので、外個人医師のいる小さなクリニックと言ったところです。この1996年の時点では郊外の小規模ホテルの中にあったような覚えです、その後、GAVIを飲めたインヤレークホテルに移転しています。
この私の訪緬の半年くらい前に、A病院の事務局長が訪緬しています。それはA病院の顧問弁護士事務所が企画するアジア経済視察団の一員としてです。そのグループには東京の有名なタレントプロダクションとかも入っていたようで、ミャンマー側との交流会ではそのプロダクションがミャンマー人を招聘してタレントにすとか、A病院が医療機材のドネーションをするとかの手形(カラ手形?)を切ってきたようです。ただし、ミャンマー側は経済関係の部署で保健省関係ではなかったようでした。
そのカラ手形の具体化も私のミッションにありましたので、まずは保健省(Ministry of Hualth)の役人にあう段取りはY氏にお願いしていました。ヤンゴンの保健省は局によって建物の場所が違いました。アポは保健省の保健局( Dept. of Heaith)でした。何を話したかは忘れました。多分、こんな計画をしてますってことだと思います。なんせ初めての保険省ですから。
私自身の記憶のBrush Upのために自分の資料ひっくり返して保健省の構成を。
————————————————————
大臣ー副大臣の下に5つの局がある。
Dept. of Health Planning
Dept. of Medical Research
Dept. of Health
Dept. of Medical Science
Dept. of Traditional Medicine
海外からの窓口はInternational Health Divisionで、大臣直轄のような位置にある。それぞれの局のトップをDG(Director General)とよび、その中がいろいろな課にわかれている。
———————————————————
です。
この私の滞在時に、シンガポール資本で新たな高級ホテルが建設が行われていて、ソフトオープンと言うことを知りましたので、次回の訪問のためにとそのホテルを訪問しました。セドナ・ホテルと言います。ホテルの後ろには大きなプールがあり、アイランド・バーがありました。担当の女性に部屋を見せてもらいました。まだ私も40歳くらいの若さで、女性とホテルの部屋で二人になるような経験もなくワクワクでした(笑)。当時のミャンマーですから、いかに新築の5つ星ホテルと言っても出張規約の宿泊費でカバーできるプライスだったので、次回はここにしようと思いました。
最終日の夕食はこのソフトオープンのセドナホテルにてお世話になったN社の所長、Y氏と一緒にとセットしました。多分、中華だったと思います。
翌日の朝はホテルをチェックアウトして空港に向かいますが、起床してから腹の調子が・・・・・・。
空港についても腹の調子は改善しません。ハノイへはバンコクで乗り継ぎです。
RGNーBKKは何とミャンマーエアーに乗ってました。多分これが最初で最後ですね。BKK-HANはベトナム航空でした。
ハノイに着いた時は腹は最悪でした。多分、ハノイでの初日は最悪だったような。それが初めての訪問するハノイの印象を悪くしたかな(笑)。後からこのお二方に確認しましたが、何も体調変化は無かったとのこと。私はミャンマーの歓迎を受けてたんですね。(笑)
4に続く
Posted at 2024/05/18 07:08:44 | |
トラックバック(0) |
ミャンマー | 日記