
軍艦島(端島)ツアー、今回は念願の上陸編です。ただですね、上陸と言っても、特別な許可を長崎市から貰った上での上陸で無い場合、島の南部に設置された数百m程度の遊歩道から島の様子を見ることが出来るのみ。長年この島への上陸に思いを馳せた者としては、非常に忸怩たる思いが残る上陸でもあるわけです。ただ、カメラ持って建物の間近や内部も見てみたいと思うものの、何時崩落するか解らない危険、そして何よりここの建物が建てられた頃に多用されていたはずのアスベストのことを考えると、これは仕方の無いことでもある。万が一何かが起きて人的被害が出たら、それこそ永遠に誰も立ち入ることが出来なくなってしまうわけですから。
ドルフィン桟橋から島に上ると、そこには進み続ける外界とは異なる空間が広がっていた。先刻承知の上で上陸したはずだが、やはり肉眼でその世界を見ると圧倒される荒涼感がヤヴァい。

島内の景色とは全く異質な観光用に整備された遊歩道から、柵を越えた向こう側は、彼方此方地面が陥没していて、鉄筋鉄骨を腐らせる潮の影響を改めて思い知らされる。頑丈に思えるコンクリートも、中に仕込まれた鉄筋が破断すれば実に脆い。
上陸前に見えていた端島小中学校を真正面から。

最上階の天井が崩落しかけているが、この部分は校舎本体竣工後に増築された部分であり、元から構造的に弱かったらしいのだが、それを見越して閉山後に崩落の兆しが見えかけた頃に天井を支える支柱を追加したんだそうだが、その支柱も今や落ちてくる天板の重さに耐えかねて曲がってしまっている。最初は少し下がってきたかな~程度だったものが、今や風前の灯火。実はこの校舎、基礎が堤防の決壊によって基礎部分の地面が流出してしまい、流入した海水の浸食によって基礎支柱が殆ど崩落してしまっていて、宙に浮いたような状態で建っている為、本当にいつ崩落してもおかしくはない状態とのこと。

学校前の三角屋根の建物が変電所。そこから坑道に向かって伸びているコの字型の石柱群はベルトコンベアの跡。この周囲には様々な採掘関係の施設が建ち並んでいたが、住居エリアと異なりそうした施設は悉く閉山時に破壊されたとのこと。

島の一番高いところにそびえ立つ3号棟。ここは、三菱の管理職が住むセレブ棟だったんだそうだ。他の一般住居とは異なり、風呂や上下水道も完備されていたらしい。一般の抗員も日本の当時の平均賃金
の1.5倍ほどの給料を貰っていたそうだが、管理職ともなると更にその数倍の給料を貰っていた高給取りだった。にも関わらず、常に死と隣り合わせという過酷な労働と、一周1kmチョイの小さな島に缶詰にされるという過酷な生活環境から、自ら進んでこの島に来る者はそれほど多くなく、多くの住民が何かしらの事情を抱えつつ一旗挙げるのを夢見て此処に身を投じてきたという話。ハイリスクハイリターン。

貯水槽。この島での生活の最大の問題点が「水」の確保。元が瀬だったとこを人工的に拡張して島にしただけに、この島には湧き水など出ない。特に昭和7年に給水船が毎日水を島に運んでくるようになるまでは、当時あった蒸留水精製技術を駆使し、海水や雨水から僅かな真水を作り出して使っていたようで、こと水に関しては頗る環境が劣悪だったとのこと。昭和7年からは給水船が水を運んでくるようになり、その水を貯水する為に建築されたのがこの貯水槽。それでも増加する島の人口に対して水か常に枯渇し、戦後になって大規模な工事の元、長崎から海底水道管を伝って水が供給されるようになったのは、昭和42年になってからのこと。閉山の7年前だった。

赤煉瓦作りの資材事務所。その後方には総合事務所のも見える。資材事務所は元々は第三坑の石炭捲座だったが、廃坑の後に事務所として使われた。日本初の鉄筋コンクリート建築物である30号棟よりもずっと前に建てられた明治期の建物。

会社総合事務所跡と総合会議室跡。この辺りの建物は、居住区の建物に比べて損傷が著しく激しい。
先の会社事務所に併設して朽ちていた竪坑桟橋。

ここには竪坑用の櫓も組まれていた。その櫓から地下数百mの現場まで坑夫達は毎日降りて仕事に行っていた。竪坑を捲座からのワイヤー式簡易エレベータで降りるのだが、大量の人員をピストン輸送する都合もあって、その降下速度は絶叫アトラクションを超えるレベルだったそうで、初めて降りる人は本気と書いてマジでチビっちゃうらしい。

そして、この竪坑桟橋に未だ残る階段が、この端島炭坑のシンボルとも言うべき通称「命の階段」。転落事故や落盤事故など、命に関わる事故との隣り合わせの抗夫達自身は勿論、送り出した彼らの家族も、抗夫達がこの階段から現場に行き、そして階段を降りて帰ってくることが何よりも「命」を感じたのだそうだ。

鍛冶工場跡。掘削機など数多くの機材をメンテナンスするのに、一々本土の本社送りにしていたんじゃ話にならないわけで、そうした機材のメンテナンスを一手に引き受けていたのがこの工場。

こちらは仕上げ工場。鍛冶工場から出てきた機材を最終的に点検・メンテするセクション。一階が工場であり、二階はメンテナンスセクションの職員の為のオリエンテーションルームや共同風呂があった。

島の東側からも垣間見える日本初の鉄筋コンクリート(RC法)による建築物の30号棟。

島の南側に回ると、その30号棟の手前に第二抗の捲座跡。

観光上陸で唯一と言っても良い目前で見れる建物が、この島最古にして日本最古のの鉄筋コンクリート高層建築の30号棟。外観は立方体の建物の如く見えるが、実際は真ん中に吹き抜けがあるチクワ構造。1905年大正6年の建造である。
そもそも何故にこの島に、日本で最初に斯様な建造物が建てられたのか。実はこのことは、前述の水問題や人口過密問題とリンクしている。と、言うのも、万年水不足の中でひとたび火事が起きると大変な被害になるのだ。しかも、台風ともなれば島の1/3を覆うほどの高潮も起きていたらしく、そうした条件下で「頑丈な建物」の必要性が、兎に角この島では頗る高かった。そこで、当時はまだ「鉄筋コンクリで家も作れる」という話題程度だった技術を、良くも悪くも試験的に導入してこの30号棟は建てられた。内部には6畳一間の居住スペースが145もあり、僅かな占有面積で多くの人に住居を提供出来たことで、島の人口と居住スペースの問題を大きく解決に導いた。その一方で、初モノにはつきもののトラブルも散発。特に問題だったのは、建造時に建物そのものの排水性を全く考慮していなかったことから、雨水が屋上から行き場を失い、壁や柱を伝って室内に侵入してきたこと。しかしながら

閉山前まで沢山の建物が混在していたこのエリアから、この30号棟以外の建物が殆ど崩れてしまっているのに対し、30号棟そのものは100年近い年月を経ても、未だその形状を保っていることから、従来からあった木造建築よりも、この鉄筋コンクリート建築の方が、この島に於ける住環境の提供という面から言えばベストな選択だったのは間違いない。

階段を隔てて30号棟の横には昭和32年に竣工された31号棟が並ぶ。この31号棟、実は島の西からの高波により、これが建てられる前は付近の木造建築が再三破壊されるという問題があった場所にわざわざ建てられた。勿論坑員住宅ではあるのだが、それよりもこのデカい建物を島の海岸線に沿うような歪な形状を保たせることで、単なるアパートではなく、高潮発生時の高位防潮堤の役割を担っていたのだそうだ。
・・・で、ここで上陸観光は終わり。それでもやっぱり肉眼でこの情景を見れたことには万感の思いがある。そして、年々風化し時間と共にリアルタイムで崩壊しているこの島の様子を、また次に来たときに見てみたいと思ったのであった。

初めて上陸して、今後改めて出掛ける際に注意しておきたい気付いたことを幾つか。
・先ず、上陸のみならず、勝手な不法侵入防止の為、移動に関してもガイドの指示に従う必要がある為、三脚立ててじっくり撮るというのは、不可能では無いけど他の人の大迷惑になるだけなので出来ないと思っておいた方がイイ。今回も二組ほど居たが、自撮り棒で撮影とか言語道断。狭い観光用遊歩道でアホみたいに自撮り棒振り回されると危なくて近寄れない。ディズニーがコレを禁止してる理由が今回よく判った。
・一方で、3箇所の観察ポイントでガイドが懇切に解説をしてくれるが、二回目以降の上陸時には、ガイドの説明よりも観察に主眼を置いた方がイイ。ガイドは「後で撮影の時間も取りますから~」と解説に注目させたがるが、実際には滞在時間が40分程度しか無い為に、マトモに聞いていたら観察時間も撮影時間も全く足りない。ただし、ガイド、特に稼働当時にこの島に住んでた方がガイドだった場合には、解説の話は1度はちゃんと聞いた方がイイと思う。凄く貴重な話が沢山聞けます。
・不法上陸による撮影と違って、見られる範囲が凄く限られているので撮影は上陸よりも周遊時の方が見るべきスポットが多い。ただし、揺れる船内からの撮影になる為、撮影方法に工夫と前もっての心構えが必要。特に重要なのは、船での着席位置。これが確保出来なければどうにもならない。
・兎に角、先ずは行く前に端島の事を或る程度調べて予備知識を持っていた方が楽しめる。また、簡易マップを自作しておくと色々面白い発見もあると思う。
・デジイチなら200~300mm程度の望遠は最低限必要。立ち入り禁止と言っても建物を囲んでいるわけでは無いので、400mm以上のレンズを持っていけば、肉眼ではよく見えないような建物内部なんかも見えるし写せる筈。
コッソリ上陸して建物内部まで入ってみたくなるけど、現状ではやはり今回利用したようなツアーでの観光が色々な意味でベスト。そして、見に行った後で、↑の様なドローン撮影の動画を見たりすると感慨一入かと思います。
長崎から帰還すると、とうとうエボじゅうの総走行距離が20000kmを超えてしまった。26ヶ月で20000kmなので、月平均700km程度の使用。でも、そんなに乗った気はしないんだけどな~。

前回交換から5000km程乗ったし半年の区切りも近いので、帰還直後にオイル交換。昨年4月にコーティングを施工して以降は、基本メンテ以外何も手を加えていない。なんもせんまま1年が過ぎそうだ。ストリートユース(ワインディング走行や高速道走行含)メインだと、この車って何ら不満が出ないので、手を加えようにも思い当たるところが無いんだよな~。まぁ、強いて言えば高速域からフルブレーキングすると、若干だがフロントに振れを感じる位か。
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2015/03/31 20:30:08