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@河童のブログ一覧

2015年03月31日 イイね!

長崎にて③(軍艦島上陸編)

長崎にて③(軍艦島上陸編) 軍艦島(端島)ツアー、今回は念願の上陸編です。ただですね、上陸と言っても、特別な許可を長崎市から貰った上での上陸で無い場合、島の南部に設置された数百m程度の遊歩道から島の様子を見ることが出来るのみ。長年この島への上陸に思いを馳せた者としては、非常に忸怩たる思いが残る上陸でもあるわけです。ただ、カメラ持って建物の間近や内部も見てみたいと思うものの、何時崩落するか解らない危険、そして何よりここの建物が建てられた頃に多用されていたはずのアスベストのことを考えると、これは仕方の無いことでもある。万が一何かが起きて人的被害が出たら、それこそ永遠に誰も立ち入ることが出来なくなってしまうわけですから。

 ドルフィン桟橋から島に上ると、そこには進み続ける外界とは異なる空間が広がっていた。先刻承知の上で上陸したはずだが、やはり肉眼でその世界を見ると圧倒される荒涼感がヤヴァい。

島内の景色とは全く異質な観光用に整備された遊歩道から、柵を越えた向こう側は、彼方此方地面が陥没していて、鉄筋鉄骨を腐らせる潮の影響を改めて思い知らされる。頑丈に思えるコンクリートも、中に仕込まれた鉄筋が破断すれば実に脆い。


 上陸前に見えていた端島小中学校を真正面から。

最上階の天井が崩落しかけているが、この部分は校舎本体竣工後に増築された部分であり、元から構造的に弱かったらしいのだが、それを見越して閉山後に崩落の兆しが見えかけた頃に天井を支える支柱を追加したんだそうだが、その支柱も今や落ちてくる天板の重さに耐えかねて曲がってしまっている。最初は少し下がってきたかな~程度だったものが、今や風前の灯火。実はこの校舎、基礎が堤防の決壊によって基礎部分の地面が流出してしまい、流入した海水の浸食によって基礎支柱が殆ど崩落してしまっていて、宙に浮いたような状態で建っている為、本当にいつ崩落してもおかしくはない状態とのこと。

 学校前の三角屋根の建物が変電所。そこから坑道に向かって伸びているコの字型の石柱群はベルトコンベアの跡。この周囲には様々な採掘関係の施設が建ち並んでいたが、住居エリアと異なりそうした施設は悉く閉山時に破壊されたとのこと。


島の一番高いところにそびえ立つ3号棟。ここは、三菱の管理職が住むセレブ棟だったんだそうだ。他の一般住居とは異なり、風呂や上下水道も完備されていたらしい。一般の抗員も日本の当時の平均賃金
の1.5倍ほどの給料を貰っていたそうだが、管理職ともなると更にその数倍の給料を貰っていた高給取りだった。にも関わらず、常に死と隣り合わせという過酷な労働と、一周1kmチョイの小さな島に缶詰にされるという過酷な生活環境から、自ら進んでこの島に来る者はそれほど多くなく、多くの住民が何かしらの事情を抱えつつ一旗挙げるのを夢見て此処に身を投じてきたという話。ハイリスクハイリターン。


 貯水槽。この島での生活の最大の問題点が「水」の確保。元が瀬だったとこを人工的に拡張して島にしただけに、この島には湧き水など出ない。特に昭和7年に給水船が毎日水を島に運んでくるようになるまでは、当時あった蒸留水精製技術を駆使し、海水や雨水から僅かな真水を作り出して使っていたようで、こと水に関しては頗る環境が劣悪だったとのこと。昭和7年からは給水船が水を運んでくるようになり、その水を貯水する為に建築されたのがこの貯水槽。それでも増加する島の人口に対して水か常に枯渇し、戦後になって大規模な工事の元、長崎から海底水道管を伝って水が供給されるようになったのは、昭和42年になってからのこと。閉山の7年前だった。
 


 赤煉瓦作りの資材事務所。その後方には総合事務所のも見える。資材事務所は元々は第三坑の石炭捲座だったが、廃坑の後に事務所として使われた。日本初の鉄筋コンクリート建築物である30号棟よりもずっと前に建てられた明治期の建物。



会社総合事務所跡と総合会議室跡。この辺りの建物は、居住区の建物に比べて損傷が著しく激しい。




先の会社事務所に併設して朽ちていた竪坑桟橋。

ここには竪坑用の櫓も組まれていた。その櫓から地下数百mの現場まで坑夫達は毎日降りて仕事に行っていた。竪坑を捲座からのワイヤー式簡易エレベータで降りるのだが、大量の人員をピストン輸送する都合もあって、その降下速度は絶叫アトラクションを超えるレベルだったそうで、初めて降りる人は本気と書いてマジでチビっちゃうらしい。

 そして、この竪坑桟橋に未だ残る階段が、この端島炭坑のシンボルとも言うべき通称「命の階段」。転落事故や落盤事故など、命に関わる事故との隣り合わせの抗夫達自身は勿論、送り出した彼らの家族も、抗夫達がこの階段から現場に行き、そして階段を降りて帰ってくることが何よりも「命」を感じたのだそうだ。


鍛冶工場跡。掘削機など数多くの機材をメンテナンスするのに、一々本土の本社送りにしていたんじゃ話にならないわけで、そうした機材のメンテナンスを一手に引き受けていたのがこの工場。

こちらは仕上げ工場。鍛冶工場から出てきた機材を最終的に点検・メンテするセクション。一階が工場であり、二階はメンテナンスセクションの職員の為のオリエンテーションルームや共同風呂があった。


島の東側からも垣間見える日本初の鉄筋コンクリート(RC法)による建築物の30号棟。


島の南側に回ると、その30号棟の手前に第二抗の捲座跡。



観光上陸で唯一と言っても良い目前で見れる建物が、この島最古にして日本最古のの鉄筋コンクリート高層建築の30号棟。外観は立方体の建物の如く見えるが、実際は真ん中に吹き抜けがあるチクワ構造。1905年大正6年の建造である。
 そもそも何故にこの島に、日本で最初に斯様な建造物が建てられたのか。実はこのことは、前述の水問題や人口過密問題とリンクしている。と、言うのも、万年水不足の中でひとたび火事が起きると大変な被害になるのだ。しかも、台風ともなれば島の1/3を覆うほどの高潮も起きていたらしく、そうした条件下で「頑丈な建物」の必要性が、兎に角この島では頗る高かった。そこで、当時はまだ「鉄筋コンクリで家も作れる」という話題程度だった技術を、良くも悪くも試験的に導入してこの30号棟は建てられた。内部には6畳一間の居住スペースが145もあり、僅かな占有面積で多くの人に住居を提供出来たことで、島の人口と居住スペースの問題を大きく解決に導いた。その一方で、初モノにはつきもののトラブルも散発。特に問題だったのは、建造時に建物そのものの排水性を全く考慮していなかったことから、雨水が屋上から行き場を失い、壁や柱を伝って室内に侵入してきたこと。しかしながら

閉山前まで沢山の建物が混在していたこのエリアから、この30号棟以外の建物が殆ど崩れてしまっているのに対し、30号棟そのものは100年近い年月を経ても、未だその形状を保っていることから、従来からあった木造建築よりも、この鉄筋コンクリート建築の方が、この島に於ける住環境の提供という面から言えばベストな選択だったのは間違いない。



 階段を隔てて30号棟の横には昭和32年に竣工された31号棟が並ぶ。この31号棟、実は島の西からの高波により、これが建てられる前は付近の木造建築が再三破壊されるという問題があった場所にわざわざ建てられた。勿論坑員住宅ではあるのだが、それよりもこのデカい建物を島の海岸線に沿うような歪な形状を保たせることで、単なるアパートではなく、高潮発生時の高位防潮堤の役割を担っていたのだそうだ。

・・・で、ここで上陸観光は終わり。それでもやっぱり肉眼でこの情景を見れたことには万感の思いがある。そして、年々風化し時間と共にリアルタイムで崩壊しているこの島の様子を、また次に来たときに見てみたいと思ったのであった。


 初めて上陸して、今後改めて出掛ける際に注意しておきたい気付いたことを幾つか。

・先ず、上陸のみならず、勝手な不法侵入防止の為、移動に関してもガイドの指示に従う必要がある為、三脚立ててじっくり撮るというのは、不可能では無いけど他の人の大迷惑になるだけなので出来ないと思っておいた方がイイ。今回も二組ほど居たが、自撮り棒で撮影とか言語道断。狭い観光用遊歩道でアホみたいに自撮り棒振り回されると危なくて近寄れない。ディズニーがコレを禁止してる理由が今回よく判った。

・一方で、3箇所の観察ポイントでガイドが懇切に解説をしてくれるが、二回目以降の上陸時には、ガイドの説明よりも観察に主眼を置いた方がイイ。ガイドは「後で撮影の時間も取りますから~」と解説に注目させたがるが、実際には滞在時間が40分程度しか無い為に、マトモに聞いていたら観察時間も撮影時間も全く足りない。ただし、ガイド、特に稼働当時にこの島に住んでた方がガイドだった場合には、解説の話は1度はちゃんと聞いた方がイイと思う。凄く貴重な話が沢山聞けます。

・不法上陸による撮影と違って、見られる範囲が凄く限られているので撮影は上陸よりも周遊時の方が見るべきスポットが多い。ただし、揺れる船内からの撮影になる為、撮影方法に工夫と前もっての心構えが必要。特に重要なのは、船での着席位置。これが確保出来なければどうにもならない。

・兎に角、先ずは行く前に端島の事を或る程度調べて予備知識を持っていた方が楽しめる。また、簡易マップを自作しておくと色々面白い発見もあると思う。

・デジイチなら200~300mm程度の望遠は最低限必要。立ち入り禁止と言っても建物を囲んでいるわけでは無いので、400mm以上のレンズを持っていけば、肉眼ではよく見えないような建物内部なんかも見えるし写せる筈。


コッソリ上陸して建物内部まで入ってみたくなるけど、現状ではやはり今回利用したようなツアーでの観光が色々な意味でベスト。そして、見に行った後で、↑の様なドローン撮影の動画を見たりすると感慨一入かと思います。


 長崎から帰還すると、とうとうエボじゅうの総走行距離が20000kmを超えてしまった。26ヶ月で20000kmなので、月平均700km程度の使用。でも、そんなに乗った気はしないんだけどな~。

 前回交換から5000km程乗ったし半年の区切りも近いので、帰還直後にオイル交換。昨年4月にコーティングを施工して以降は、基本メンテ以外何も手を加えていない。なんもせんまま1年が過ぎそうだ。ストリートユース(ワインディング走行や高速道走行含)メインだと、この車って何ら不満が出ないので、手を加えようにも思い当たるところが無いんだよな~。まぁ、強いて言えば高速域からフルブレーキングすると、若干だがフロントに振れを感じる位か。
Posted at 2015/03/31 20:30:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2015年03月27日 イイね!

長崎にて②(軍艦島周遊編)

長崎にて②(軍艦島周遊編) っつーことで、念願だった軍艦島(端島)に行ってきました。そもそも、この端島が軍艦島と呼ばれるのは、大正時代に三菱造船所で建造された加賀型戦艦「土佐」に見紛うばかりのシルエットだったことに由来する。明治期に石炭が採れる小さな瀬だった端島を三菱財閥が権利者から買い取り私有地化。埋め立てて面積を広げると共に堅坑を次々構築し、黒ダイヤとも呼ばれるようになる良質な石炭を採掘する重要拠点となった。場所が場所だけに大量に動員が必要な労働力の移送が難しく、島内にて衣食住を充実させ、抗員を直接島に住まわせることで労働力を確保。そのため島内には、抗員社宅は勿論の事、教育・娯楽・商取引等の日常生活に必要な設備の全てが、島内に整っていたと言われている。
 また、炭鉱での労働は高いリスクを伴った命懸けの仕事でもあり大変厳しいものだったが、その対価として当時としては非常に高い賃金が支払われていたそうで、三菱の全面的なサポートもあって暮らしぶりは裕福であった。こんな閉鎖されたアルカトラズみたいなとこで、何と日本初の鉄筋コンクリート製高層住宅が建造されていたりするし、テレビがまだ町内に一台なんて時代に島では一家に一台が当たり前だったらしい。しかし、一方では島からおいそれと出られないという厳しい環境面の問題から、高い賃金にも関わらずこの島での暮らしを自ら望む者は多くなく、大正から第二次大戦期に掛けては、中国や朝鮮と言った外国人労働者の徴用に頼っていたと言われている。戦後は、朝鮮戦争特需なんかもあって石炭需要が増加、最盛期には4000人とも5000人とも言われる人達が島内で暮らしていたそうだが、エネルギー革命により需要の中心が石炭から石油へと急激に移行したのに伴って島の重要度も大きく低下し、1974年の閉山を以て無人島と化し島全体が廃墟と化した。以来40年間、人の消え去った島には無機質な建物だけが残され、外海の荒波と潮風に晒され続け風化の一途を辿っている。

私が小学生の頃に見たACのCM。自分にとっては、このCMが軍艦島のことを知った初めての縁。町から人が消えていなくなったという光景に惹かれ、機会あれば一度訪れてみたいと思ってから、気が付けば30年以上が過ぎた。その間、ドキュメンタリーを見たり、プロカメラマンによる写真集を買ったりもしたが、やはりこういうのは自分の目で見たいと思うのが人の情。ただ、所謂 廃墟マニアによる密航潜入なんて真似はしたくない。そんな折、2009年の春から、念願の「周遊上陸ツアー」が長崎市の指導監督の下に許可された。

 と、まぁそんな経過を辿って、今回私も恩恵に与り、とうとう肉眼で軍艦島を拝む機会を得たのであった。長崎に行けば何時でも上陸出来るというものでは無く、特に接岸ポイントであるドルフィン桟橋の構造的問題が有って、島の東側の波の高さ0.5m、風速5m/sec、視界良好という条件が一つでもアウトだと上陸が出来ない。そのため、上陸出来る日数は年間の半分にも満たないと言われ、事実私の友人知人の間でも、周遊は出来たけど上陸は出来なかったってな話を多く聞いている。地元の人なら上陸出来る日を狙い撃ちすりゃいいんだが、余所者には中々厳しい条件である。

 今回は、前以て予約することはせずに、「こりゃ行ける」と踏んだ23日の前日夜に席を予約、この方法だと早々に満席になるとアウトだが、席さえ空いていれば高確率で上陸が出来ると思ってのこと。更に、上陸時間が限られている上に観光ポイントが島の南側の一辺にしか無いということもあって、周遊時の観光も非常に重要って事で、吹きさらしのキャビン席がある船を持つツアー会社を選択した。利用したのは軍艦島コンシェルジュというツアー会社。

 
別にこの会社から何か貰ったわけじゃないが、個人的に一番オススメのツアー。先ず、船がそこそこ大きくて安定性が高く、また二階に吹きさらしのキャビン席がある。更には、顧客サービスも充実していて、現地でのガイドもネットでのレポを見る限り良さそうだった。尚、各ツアー会社は長崎市の監督の下に営業しており、当然常例は厳守しなければならない。なので、ツアー会社によって「アッチは上陸したのにコッチはダメだった」とか「アッチの会社の方が上陸時間が長かった」とか言う差異は生じないようになっている。ただし、ツアーの催行時間が会社によって異なっていて、今回の場合、少し遅めの午後二時出発のコースを催行している軍艦島コンシェルジュを利用することが、スケジュール的にも都合が良かった。
 このツアーを利用する上での周遊観光で重要なポイントは、午後の場合だと14:00出航なので一時間前の13:00には受付に並び、受け付け開始早々に手続きを済ませ、待合室の出入り口付近に陣取ること。と、言うのも、乗船は基本的に先着順であり、その着順は待合室にて着席待ちしてる入り口付近の人から順番となる為だ(子連れの家族は最優先)。
 そして、乗船する際に、往路は軍艦島以外の撮影ポイントが悉く右側に集中しているので、右の外際、可能なら最後列の席を確保する。私は、最後列は確保出来なかったが、後ろから二列目の外際を無事確保出来た。

これは、今年の世界遺産登録を目指す「九州・山口近代化産業遺産群」の一つである三菱造船所のハンマーヘッド型起重機。1909年の建造なので、こう見えて築100年オーバーの設備でありながら、未だ現役稼働中。

これは、同じく遺産群の一つで三菱長崎造船所向島第三ドック。1905年竣工以来、当時のそのままの状態で残されている唯一のドックである。

これは遺産群には入っていないが、その筋には有名な第2ドック。と、言うのも、先頃フィリピン沖で発見された戦艦「武蔵」は、この第二ドックで建造されたのだ。
 他にも船上から見ることが出来る遺産群には小菅修船場跡というのもあるのだが、これは左舷側でないと見ることが出来ない。
 他にも、海自の船がメンテか何かで足場組まれて作業中だったり、エラいデカい豪華客船らしき船が建造中だった。




 これは、右舷側から遠巻きに見ることが出来る神ノ島教会と海の上のマリア像。110mm(35mm換算で280mm程度)のズームレンズではコレが精一杯。フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して昭和24年に高さ4.5mのこのマリア像が建立された。

このマリア像を撮影する辺りまでは内海エリアで、風は冷たく強かったものの波は比較的穏やかだったのだが、外海が近付くにつれ海上の状態が急激に変わり、軍艦島に近付くまではウォーターライドみたいな状態で船は大揺れになる上に盛大に波しぶきを浴びるので、カメラ保護の為にとても撮影など出来なかった。乗船時に雨合羽が配布されたのはこの為だったか(笑。二階のキャビン席は、乗船中も撮影に勤しむことが出来る反面、波しぶきを被るのは御約束のようだ。この波しぶきが顔にビッシビシ直撃して痛かったし、風も手がかじかんで感覚がボケる位冷たかった。

そして、遂にあのテレビや写真でしか見たことが無かった軍艦島が見えてきた。島の遠景が見えた時点で、オッサンは既にテンションMAX状態。上陸出来るか否かは出港時ではなく、この端島周辺に着いてから決まるのだが、外海の波をまともに食らう西側と異なり、桟橋のある東側では何とか着岸出来るということで、目出度く無事上陸することが出来た。

 上陸時の話は次回に譲るとして、今回は先ず上陸前後に行われた周遊コースの紹介から。上陸前はキャビン席の右側に着座したが、約45分の上陸観光後の再乗船時には左側に着座位置を変更。と、言うのも、利用した軍艦島コンシェルジュの周遊コースでは、右列左列問わずに乗客が島を撮影出来るように配慮して、船を上手に旋回させてくれるのが基本なのだが、今回のように波が荒れているときは安全第一で島を反時計回りに周回するのみという事も多いらしい。そうなった場合、船の左側からしか島を撮影することが出来なくなるのだ。で、今回はそうなりそうだという予測の下、敢えて団体の前方位置で移動し、早々に船に乗り込んで左側の席を確保。この手の情報は慣れてる人には周知されているらしく、狙っていた左舷側最後列はまたして確保できなかったものの、中々良いポジションを確保出来た。そして、出航した後に、予想通りの「申し訳ないが波が荒れているので今回は反時計回り一周とさせて貰う」との通達があった。

 島の周囲では、船も可能な限り船速を緩めてくれるので、水しぶきは殆ど浴びることは無かったが、それでも「ピント合わせて~、構図決めて~、フォーカス合わして~、露出とシャッタースピード調節して~」とか大揺れの船内でやっとるような余裕は無く、前日のペンギン水族館での練習の成果とばかりに、シャッター速度優先でなるべく高速にし、露出がLoに成るのにだけは気を付けつつ、後は運任せで連写しまくり。水しぶきが飛んできたら速攻カメラを守り、時折その島の不気味な佇まいを肉眼で眺めたりもして、気が付けば周遊タイムはあっと言う間に終わってしまった。尚、ここに掲載してる画像は、フォトアルバムのもの(JPEG保存)と同じ画像ではなく、RAW現像に於いてコントラストやトーンカーブを少々弄くった加工画像です。

端島小中学校(70号棟)。昭和33年に建造された7階建て(元は6階建てだったが増築)の校舎。増築部分の7階天井の経年劣化が激しく既に崩落を始めている。鉄骨鉄筋の建物故に、塩分タップリの潮を浴び続けていては、たかだか築60年でもこの有様である。手前の体育館に至っては、昭和40年代に建造されたにも関わらずアーチ状の屋根は今や原形をとどめていない。

この島最大の建造物であり(昭和20年建造!)、317戸入居の65号棟抗員社宅。コの字型の建物で、最上階には屋上幼稚園があった。エレベーターの無い高層住宅の屋上に幼稚園という発想が、この島の土地の狭さを物語る(当時の東京の人口密度の9倍だったと言われている)。


島の北側から見た70号棟(学校)と65号棟。学校の前の空間には校庭やテニスコートがあるらしい。



65号棟の手前に写っているのが端島病院。4階建ての病院棟(69号棟)と隣接される白壁の隔離病棟(68号棟)からなる。


抗員社宅群。一枚目の画像で奥に見える大きなのが先述の65号棟で、その西側、隔離病棟の隣が単身寮67号棟。隣が独身合宿寮の66号棟。その奥にある三つの似たような形の三棟が北側から61、60、59号棟。この三棟には、抗員家族が生活用品等を調達していた生協や、一部幹部社宅以外は部屋に風呂が無かった事から共同浴場が設置されていた。

昭和36年建造の8階建て抗員社宅51号棟。この裏手には日給社宅と呼ばれる16~20号棟の5棟が連なっているが、乱立する建物に遮られて殆ど見えない。



抗員社宅群の丁度真ん中付近。流石に人口過密状態だっただけに、建物が文字通り乱立していて 歪な佇まいである。一番高い位置に在るのが幹部職員用の社宅3号棟。この社宅は高い位置に在るだけでは無く、横に大型貯水槽を伴っていて、下界の皆さんが共同風呂なのに対して、各部屋に風呂が設置されていたらしい。
 3号棟の手前に見えるのが中央住宅と呼ばれる14号棟。その横に少し見えるのが20号棟の一部で更にその手前が48号棟。48号棟には雀荘やパチンコホールが設置されていた。

 先述の48号棟南側には、公民館(39号棟)や社宅の13号棟が在る。この辺りにはレンガ造りの映画館(50号棟)や木造モルタル建築の建物なども在ったが、大型の台風襲来などでその多くが崩落してしまったらしい。労働が過酷な事もあって、娯楽が無ければ精神的に保たない事から、この島には様々な娯楽施設が彼方此方に設置されていた。

昭和32年建造の31号棟。この社宅には、郵便局が併設されていて、また共同浴場があった。裏手には職員クラブハウスと呼ばれる7号棟も在ったが、やはり度重なる風雨や閉山時の坑道破壊作業の影響で崩落してしまっているとのこと。31号棟西側の二階部分に、他の開口部(窓)とは一線を画す大穴が開いている。ここは建物の中をベルトコンベアが通っていて、石炭精製時に出る捨て石(ポタ)を海に捨てていたんだそうな。このコンベアの周辺の部屋に住んでいた住民は、その騒音に悩まされたんだろうと思いきや、「コンベアが止まる=異常事態発生」を意味することから、むしろコンベアの音に家族の安全を報告されているようで安心していたんだとか。


グルッと島を一周して、最後に戦艦「土佐」と見紛うたと言われる軍艦島の全景を、この時だけは船を回転させて、右舷側も左舷側もじっくり見れるようにツアー会社が配慮してくれた。

次回は、上陸編です。
Posted at 2015/03/28 13:26:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | えぼじゅう | 日記
2015年03月26日 イイね!

長崎にて①(ペンギン水族館)

長崎にて①(ペンギン水族館) 先月も移動が多かったが、今月も彼方此方ウロウロ。ただ、宿泊を要した仕事が博多と長崎の二箇所だったので、先月よりは随分マシではある。
 アルトバン先生はじめ、我が家の他の車もフル活用したけど、それでもエボじゅうの総走行距離がとうとう20,000kmを超えてしまった。普段は乗らない車と言えど、20,000kmも乗れば流石に乗り回すのに慣れた(何を今更(´Д`))



 で、長崎には4泊5日の長丁場の仕事だったのだが、これは休業日を挟んでいた都合によるものだったので、空いた時間に旧長崎水族館で今では科学大学のキャンパス兼ペンギン水族館になってる施設と、廃墟好きの聖地「端島(軍艦島)」に行ってきた。今回はペンギンの画像ばかりで、次回と次々回のエントリー更新で軍艦島ツアーのレポをしてみようかと。尚、軍艦島で撮った画像は、先行してフォトアルバムって機能を使ってUP DATEしてみました

 と、その前に、地元の人には周知されてんのかもしれないけど、イチゲンの余所者には中々手厳しい設置が為されているオービスが、長崎道に設置されていたのでその話から。

 長崎道の大村インター付近に設置してある筈のオービスに、GPS地点情報を元にエボじゅう搭載のレー探付電波時計と、最近ナビにインスコしたオービスマップが反応したので注意していたのだが、いざ設置地点に差し掛かると、路上のアーチに設置されていたはずのHシステム式オービスが撤去されていて、基部のアーチが残っているだけになっていた。最初は「ははーーん、老朽化したオービスを次々撤去中って聞いてたけど、これがそうなのね」って思ったんだが、通過直後に差し掛かった橋桁に隠れるような形でコッソリと再度 警告看板 が登場。「え?さっき通り過ぎたよ!?」って思ったら、光電管式のオービスがででーーんと登場w。これはぶっちゃけ罠(TRAP)ですやね。一発目過ぎて「さぁ踏んじゃうぞ」とかヤッっちゃった余所者イチゲンさんの御仁は、これは食らっちゃう率高いんじゃね?オービスの更に先にて移動オービスやステルス派で構える二段式と或る意味同じ手法とも言える。つっても、ここは制限100km/hの区間だから、このオービス光らせるって事は相当に速度が出てるわけで、そういう意味では罠とか何とか言う前に自業自得な訳ですが、、、

 さて、ペンギン水族館。

全く気にも留めていなかった施設なのだが、偶々仕事先の近くに建ってるのを知ったので、ものは試しで行ってみた。どうやらイワトビペンギンも居るらしいと聞いて、是非とも写真に撮りたいというのもあった。








 ん~、行った時間が悪かったらしく、ふれあいタイムを含めペンギンを近くで見れるイベントが既に終わってしまっていた。なんとかフンボルトペンギンのエサやりイベントだけ見れたので、ユニークで可愛い姿をアホみたいにパシパシ撮影。お目当てのイワトビペンギンは、見ることは出来たけど、どうやら性格が攻撃的らしく、フンボルトペンギンの自由時間には、端っこのガラスの向こうに隔離されていて、そのガラスも水滴だらけだったので撮影は断念。大学生くらいの女子軍団が、鰯の水槽で「あ~、これ天ぷらにしても美味しいよね♪」とかワイワイやっとった(´Д`)

 実は、この水族館行きの一番の目的は、愛用してるカメラ NIKON 1の使いこなしの練習の為。というのも、折角長崎に来てるんだから、前々からの念願だった軍艦島に行くことにしたのだが、どうやら軍艦島周辺は四六時中海がうねってるらしく、上陸出来る可能性は年間100日~150日程度、上陸出来なくても島の周囲を周回は可能な場合が多く、その場合、大揺れの船上から撮影せねばならない為に、露出が確保出来る範囲内での最速のシャッター速度で尚且つ連写撮影するしか無い事も考えられるとのこと。もっと上位の一眼なら別な手法も採れるのだが、愛用のミラーレス機NIKON 1だと、先述の策しか思い浮かばんっつーことで、どうせ練習するなら面白そうな被写体でって事で、ペンギン撮影に挑んだってのが話の真相です。

 っつーことで、ペンギンで散々練習した上で、ペンギン撮った翌日の午後の便で、念願の軍艦島に行ってきた。天候は晴れだったが、風が強く波も白波立てての荒れ気味だったが、無事に上陸を果たせました。初挑戦で一発上陸ってのは、運がいい話らしい。ちょっと画像の量も多いので、次回改めてレポります。

 っつーことで、ペンギンと戯れた跡は、取引先の方からの御接待を賜りまして、中華街の京華園

なる中華料理屋で、何やら高そうな料理をたらふく御馳走になりました。北京ダックやべぇ。あ、料理の画像は流石に先方の手前お恥ずかしいので撮っておりませぬ(・∀・)
Posted at 2015/03/27 00:15:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | えぼじゅう | 日記
2015年03月06日 イイね!

ブーコン調整

ブーコン調整 ジュネーブモーターショーでNSXと共に市販バージョンプロトが公開されたシビックTYPE-R。予想よりも更に上のスペックで、310ps/40.8kgmという、およそFFとは思えない尖った事になっとりますね。これくらいのエンジン出力だと、トルクステアとかトラクションの問題はどう解決してるのか気になるわけですが、先日フォードから発表されたフォーカスRSとか、Cセグの皮を被ったお化けの先陣を切ったとも言えるメガーヌR.Sや、価格はちょっと上過ぎるけど見た目は同一クラスのA45AMG等々、小型ハッチバックにランエボやWRXがぶっこ抜かれる時代になってきてますな。走行データ上では、0-100kmh加速が5.9secと意外と大したことないんですが、最高速が270km/hオーバーって事ですから、先述のトルクステアやトラクションのネガティブな問題を緩衝させるべく、ギア比がハイギヤ-ド寄りに設定されてるのかも知れません。
 元来NAの方が好きな自分にとって、ホンダのTYPE-Rは1度は所有してみたかった車の一つ。実際、S15に乗ってた頃にFD2とFN2の登場時には結構真剣に購入を考えていたことがあって、特にFN2はディーラーから正式発表前にコッソリ案内が来てて発注予約するとこまで行ってたんですが、シャーシ性能が実はFD2よりも劣ってる(Fitのプラットフォーム)上に、見た目に反して車重がFD2よりも重く、車載オーディオの交換も一筋縄でいかないなどの情報を得て、結果発注を寸前で止めちゃったなんてこともありました。EP3の時は足回りが「改造すんな」仕様な上にエクステリアがどうしても気に入らず、FD2はやはりアウトフォルムが気に入らず、FN2はアウトフォルムは凄く気に入ったのに中身が気に入らずと、自分にとっては中々縁遠い車種でもある。今回は時代の流れもあって過給器付になっちゃったので現状では「欲しい!」って気には今のところサッパリならないんですが、実物が日本市場で出てきたら気が変わるかもしれない。少なくとも、アウトフォルムを含めたエクステリアコンポーネンツは、私にはストライクゾーンですね。


 さて、先日の瀬戸内一周出張ドライブの折、ちょっと思うところあってブーストコントローラーを色々弄くってみた。ブーコンでのブースト圧制御ってお手軽な反面、調整する”場所”が確保出来ないのが悩みの種。とくに負荷が掛かる4速や5速ギアでのセッティングは、先ず公道上では法律上不可なのであって、サーキットでもそれが可能なストレートを有するコースって茂木とFSW位じゃなかろうか。ただ、シャーシダイナモ等の機材を用いれば、実走と全く同じというわけにはいかないけど、一応コレが可能になるって事で、ECUでの空燃比と点火のマネージングの都合もあって私のエボじゅうはショップに丸投げでセッティングが為されている。

 ところが、このセッティングを真夏の高温多湿の中で施工して貰った為に、今のような寒い時期だとブーストが上がりすぎてしまうんですよね。実際、ショップのセッティングで一番出力が出る設定をこの時期選ぶと、4速や5速でシフトダウン無しのフルスロットルとかしちゃうと、ブースト計のワーニングが鳴りっぱなしになる。そこで、この時期は4つあるメモリされた設定の中で、一番低いターゲットブーストになってるchを使用することになるのだが、これだと一旦ハイブーストの加速を知ってしまった身には何だかちょっとかったるい。ならば制御用の数値を今の時期に合わせて変更してやれば良いじゃないかって事になるのだが、先述の通り調整しようにも5速レッドゾーンまで回した日にはお縄になっちゃうし、そもそもそんな速度で走行しながらコントローラーのディスプレイなんて見てらんない。そこで、ショップ施工のデータを活用して、装着してから今まで使用してなかった「スクランブルブースト機能」を使って、低ブースト設定のchとハイブースト設定のchを相互に有効活用出来ないだろうかと思って、高速道を延々走ってる間に色々試してみた訳です。

 で、色々試してみた結果、当初の思惑とはちょっと違っちゃったんだけど、やはりスクランブル機能を使った方が踏んでて面白いと解った。しかしながら、使用しているBLITZのブーコンはデュアルソレノイドという機構もあって、他社のように「スクランブルボタンを押してGO」みたいなシステムでは無く、ブースト0.35kPaより上に上がる時に指定秒数だけ発動して、指定時間を超えるかスロットルを抜いてから圧が0kPa以下に落ちると再び作動するというシステムになっているので、この指定秒数ってのが難しい。長いと低速ギアでは特に指定時間達する前にレブが吹け切っちゃうし高速ギアだと高負荷状態が長く続いてしまう。かと言って、短すぎると”これから”って時に低ブーストモードに戻されてしまう。この長いか短いかが、2秒~5秒という非常に僅かな秒差での話なのに、実走だと様々な状況がある事も相まって、落としどころが中々見つからない感じ。

 過給器付エンジン初心者とも言える自分にとって、このブーコンで一番困るのが、付属インストの使い方説明書が実に役に立たないというか、「皆さんブーコンの使い方なんて先刻ご承知でござんしょ」って感じになってて、私みたいなのには

ほんとに何言ってるのかワカンナイ状態(笑。まぁ、お陰で色んなとこから情報やHOW TO拾い上げて漸く理解するに至った事で随分勉強にはなりましたけど。
Posted at 2015/03/06 02:49:39 | コメント(2) | トラックバック(0) | えぼじゅう | 日記

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