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石井竜也が「あたし、おかあさんだから」を酷評 「プロの作る歌詞じゃない」
絵本作家・のぶみさんが作詞した「あたし、おかあさんだから」が、母親の自己犠牲を美化し過ぎだと批判を浴びた。2月8日には、のぶみさんがフェイスブックで騒動を謝罪。楽曲はHuluから削除されるなど、波紋は広がるばかりだ。
こうした中、2月9日の「5時に夢中!」(TOKYO MX)では、米米CLUBの石井竜也さんがこの件に触れた。批判を浴びた歌詞を「プロの作る歌詞じゃない」と一蹴した。
母親と女は別の存在「それを一緒にしちゃだめなんですよ」
スタジオでは、出演者のミッツ・マングローブさんが楽曲に寄せられた不満を紹介し、「『母親の自己犠牲を賛美している』って、賛美しているなら結構な話なのではないかと思うけれど」と肯定的な見方を示したが、石井さんは次のように語った。
「母親っていう存在と女性っていう存在は違うんですよ。女を歌うんだったらことごとく女を歌ってあげればいい、母親を歌うんだったらことごとく母親を大事に歌う。その中間にいるからこれだけ責められるんですよ。それを一緒にしちゃだめなんですよ。だから、これはプロの歌詞じゃない」
歌詞は、「おかあさんになるまえ ヒールはいてネイルして 立派に働けるって強がってた 今は爪切るわ 子どもと遊ぶため 走れる服着るの パート行くから」など、母親になったことで、かつて自分が楽しんでいたことが出来なくなった女性を描いていた。
石井さんは、母親という役割はアイデンティティ―のごく一部でしかないのに、まるで本人の全てであるように記述してしまったことが炎上原因と見ているようだ。
「公に出す人間ていうのは気を付けて書かないと。色んな立場の人が聞くから」
同じような例として石井さんは、自身がクリスマスソングを作詞する時のことを例に上げた。
「お父さんとお母さんと楽しいクリスマス、そんな子どもばっかりじゃないでしょう? お父さんがいない子もいるかもしれない、お父さんとお母さんどっちもいない子もいるかもしれない、クリスマスさえやってもらえない子もいるかもしれない。その時にクリスマスソングに『パパ』と『ママ』って入れてしまうと、クリスマスソングが平等なものじゃなくなっちゃう」
歌にはパパやママ、プレゼントといった家族をイメージさせる言葉を入れず、「サンタクロースと君の話だよってする」という。
「そのぐらい、公に出す人間ていうのは気を付けて書かないと。色んな立場の人が聞くから」と、自身のこだわりを明かすと、スタジオの中尾ミエさんから「素晴らしい。やっとまともな意見が聞けた」と賞賛されていた。
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まだやってるんか。歌手wや芸能人は暇人ばっかなんか?
まあこの人の考えも分からんではないけど、たからなに?、と。
お前は日本歌謡界のご意見番かよと。
以前の私はこうだったのよでも今は〜、それの何処がおかしいの?
だったらそう歌っている歌全てに噛み付いてよね。
子供向けの歌にパパママ使っている歌があれば全てに噛み付いてよね。
とーせ、乗るなら今だ式なんじゃないの?(笑)。
最近アンタの話題聞かないもんねぇ。
>まるで本人の全てであるように
だからー、あくまでも1例でしょ、アンタも「この歌の様にするべきだ」
と勝手に思い込んでる派なの?
でも沢山の人が聞くんだぜ?、だからなに?、高がイチ歌に洗脳される
人がそんなにいるとでも?、歌は歌でしょ?、「惑わされる方がバカなんだろ」。
>その中間にいるからこれだけ責められるんですよ
母親になる前は女性だったんですが。
以前と今の違いを歌っちゃいかんのですか?
>かつて自分が楽しんでいたことが出来なくなった
と何処にうたってます?、母親になった事を何処に恨んでます?
私には母親になった気持ちを歌っただけに聞こえますが?
クドいけど、歌のようになれとどこにありますか?と。
なんでそんなに過敏症な人が多いのかしら。
もう一つ、子供の犠牲になれとどこにある?
『そう思い込むのは勝手、だが自分の胸に収めるだけにしとけ』。
『これも母親の1形態』、何故そう取れないのか。
最後に、ババァすっこんでろ。
Posted at 2018/02/11 15:02:05 | |
呆れ | 日記