●
闇サイト殺人事件 残虐な犯行に対する「死刑判決」はなぜ覆ったのか
(部分引用)
暗証番号を聞き出した犯人らは、これほどの脅迫で聞き出した番号にまさか間違いはあるまいと思い込み、その場で預金の払戻しを試すこともなく、もはや用済みとばかりに、車内で命乞いをする利恵さんの首を腕で絞めつけ、金槌で頭部を何度も殴打し、ロープを頸に巻き付けてさらに頸を締め付けるなどして、最後まで生きようとし続けた利恵さんを絶命させ、その亡骸を山中に遺棄したのです。その犯行態様は凄惨かつ容赦のないものであり戦慄を覚えざるを得ないものでした。
また、裁判外においても、犯人らの極刑を求める署名活動を街頭やご自身のホームページ上で続けられました。自らの個人情報を明らかにして活動を続けられたため、ときには、見ず知らずの者が突然、自宅に訪れたこともあります。しかし、そういった心身に危険が及ぶ事態すら想定されるなかでも、娘の利恵さんの無念を晴らし、犯人らの極刑を望むという一心が、富美子さんの活動の原動力となっていたのです。
2009年3月の第1審の地方裁判所では、自首をした被告人のみ無期懲役、他の2人の被告人には死刑の判決が下されました。その後、3人は控訴しましたが、死刑判決を受けていた被告人のうちの1人は、自ら控訴を取り下げたことにより死刑が確定しました。
その結果、第2審の高等裁判所では自首をした被告人ともう1人のみについて裁判が続けられることになったのですが、ここで第1審の判決が覆されてしまいます。
第2審の判決では、自首をした犯人だけでなく、もう1人の犯人もまた「犯罪傾向は進んでいない」「被害者は1名である」などを理由として無期懲役の判決が言い渡されました。
そして、最終的に最高裁判所にて2012年7月に無期懲役が確定しました。
同じ死刑基準でも結論に大きな差
今回の事件では、第1審・第2審ともに判決の中で、死刑適用の判断にあたって、いわゆる「永山基準」と同様の基準を用いることが明言されていました。ここで言う、死刑基準とは次のことを指します。
「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない」
このなかに出てくる「一般予防」とは、罪を犯した者を処罰することで、世間一般に警告して再び犯罪が発生しないよう戒める、いわゆる「見せしめ」的な考え方を指します。
このように第1審・第2審ともに、同じ死刑基準を採用すると明言していたにもかかわらず、結論に大きな差が生まれた理由は、「インターネットを通じて短期間の間に残虐な凶悪犯罪を計画して遂行した」という今回の事件の特徴的・象徴的な部分についての評価や、被害者数が1名であることについての評価について、第1審と第2審で考え方が分かれたことに大きな原因があるように思われます。
第一審では厳罰な処置が検討された
第1審判決では、見ず知らずの者同士が虚勢をはったり、悪知恵を出し合うなどして互いの力を利用しあうことで、1人ではできない犯罪が遂行できるようになり、犯罪の凶悪化、巧妙化に繋がる危険性が高いと指摘しました。そして、今回の事件はまさに、犯罪の凶悪化・巧妙化に繋がる危険性が現実化した事件であると判断したのです。
さらに、相互に素性を知らない匿名性の強い集団であるために、犯行グループが解消され、お互いに連絡手段を絶ってしまえば、犯人を発見し、逮捕することは極めて困難になることが予想されます。第1審ではこうした事態を考慮して、判決で「犯罪が模倣されるおそれも高く、社会の安全に与える影響も大きく、今後同様の犯罪の発生を防止するためにも、他の強盗殺人事件に比べて厳罰をもって臨む必要がある」ことが強調されました。
「犯罪傾向が進んでいない」というための不可思議な論理展開
これに対して、第2審判決では、おおむね次の点を指摘しました。
(1)見ず知らずの者同士の犯行の場合には、意思疎通の不十分さから計画も不十分となり、犯行が失敗に終わりやすい面があること
(2)今回の事件でも利恵さんが、富美子さんのために必死に預金を守ろうとして真実とは異なる暗証番号を伝えた結果、犯人らが奪ったキャッシュカードでの預金の払戻しに失敗するなど、犯行がさほど巧妙ではなかったこと
(3)素性を知らない者同士ゆえに結束力の乏しさから早期の検挙にも繋がったこと
さらには、第1審で挙げられた「インターネットを通じて集まった素性を知らない者同士が短期間で犯罪を計画遂行する場合に、お互いに虚勢を張り合うなどして、犯罪が凶悪化しやすい」点については、「そのような状況であるがゆえに、犯罪傾向が進んでおらず矯正可能性がある者であっても今回のような罪を犯しかねない」と指摘したのです。
そして、あろうことか、殺害の態様が残虐になったのは、利恵さんが簡単に絶命しなかったためであるという驚くべき判断をしたのでした。
つまり、2審の判決は、被告人らは犯罪傾向が進んでおらず、矯正可能性もある者であり、この凶悪犯罪が起こった原因は、犯行当時の状況によるものだと言っているに等しいのです。
死刑回避を前提にした不合理さ
とりわけ不合理さを感じたのは、「犯行がさほど巧妙ではなかった」「殺害態様が残虐になったのは被害者が簡単に絶命しなかったため、殺害の手段を次々に変えた結果」などという点を死刑回避の事情の一つとして指摘していたことです。
利恵さんが預金を必死に守ろうと機転を利かせて異なる暗証番号を告げたために犯行が失敗に終わったこと、そして、生きることを最後まで諦めなかったために凄惨な方法で殺害されたという、その経緯が死刑判決を回避するための方便として使われてしまっています。
そのこと自体、利恵さんや遺されたご家族の想いを踏みにじるものであり、二次被害そのものではないでしょうか。
第1審判決と第2審判決の判決理由を比較するたびに、死刑を選択した第1審判決の方が説得力を持っていると感じざるを得ません。
自首をした犯人については、第1審・第2審を通じて自首による減刑を認め、無期懲役の判決が下され確定しています。
一方、死刑から無期懲役となった犯人の1人は、その後、闇サイト殺人事件以前に犯していた別の強盗殺人事件で検挙され、2019年8月に改めて最高裁判所で死刑が確定するに至っています。「矯正可能性がある」などとして死刑を回避した当時の第2審判決は、あくまでも今回の事件の刑事裁判で提出された証拠に基づいて判断されたものです。しかし、実際には当時発覚していなかった余罪が既にあり、今回の事件もまた複数実行されていた凶悪犯罪の一つでしかなかったことが明らかになるにつれ、「矯正可能性がある」とした当時の第2審の判決理由には虚しさを覚えざるを得ません。実際のところは「被害者数が1名である」場合には死刑を回避することを前提に、不合理とも呼べる理由を積み重ねて、判決が下されていたとしか思えないことは、これまで述べたとおりです。
1人だけの殺害なら刑務所に入るだけで済む?
犠牲になられた被害者が複数でなければ死刑にはならないという誤った認識のもと、刑務所に入ることを希望して、意図的に犠牲者数を調整のうえ、事件を犯したのではないかと疑いを持たざるを得ない、いわゆる2018年新幹線殺傷事件のような事件も起きています。
死刑基準がひとり歩きすれば、1人だけなら殺害しても刑務所に入るだけで済むという誤ったメッセージを社会に垂れ流すことになりかねません。
人の生命を1人でも奪う凶悪犯罪には、死刑をもって臨むのが原則であるという毅然とした姿勢を社会に発信し続けていくことが、犯行を防止するとともに、社会に対する大きな戒めにもなり、本当に国民にとって安全安心な社会が実現する礎になるのではないかと思わずにはいられません。
(ちっとも部分引用になってないな、すまん)
ーーーーー:ーーーーー:ーーーーー:ーーーーー:ーーーーー:ーー
阿呆か(絶句)・・・。なんで殺されようとしている時にあっさり生きる事を諦めなきゃいかんのだ。まるで被害者が中々死なないから凄惨な方法を取らざるを得なかったとアンタ(この時の判事)はそう言っている様に聞こえるぞ。何故裁判官が被告の肩を持つ様な判断をせねばならぬのか。
しかも命の数は一つでは極刑無理が罷り通っている現在の司法、これなら江戸時代のお白州の方がまともに思えるわ。
奉行が「そうかそうか、中々死ななかったから殺すのに苦労したんだな、うんうん、よし減一等だ」なんて言うか?言う訳無えだろ。それに一人でも残虐なら当然今で言う死刑だし。あの頃は何とか基準なんて糞なものは無く当然それに従う事も無く。
悪い事は悪い、それが裁きと言うもの、なのに現代の裁きときたら。
だから命の数ではなくその過程や方法で判断せよと。それが裁きってもんじゃねえんですかい。
今回の件で言うと「3人で寄って集って凄惨に嬲り殺し」だ、そらアンタ等の機械的判断でいくと被害者は1人だから其々は1/3だろうよ、でも中々死なねえってんで死ぬまで凄惨な方法でやり続けた、こう言う過程は無視なんですかい。あくまでも命の数に拘るんですかいっ。
命の数は一つだが共同でやったと言う事は其々の責任は1人分だ。でも崇高(笑)な司法の場ではそんな考えは全く起きないんだろ?、それが仇討ちの代弁者かね。
そう、私は誰が何と言おうと仇討ちの代弁者と思っている。だから殺しには1人だろうと死刑、の筈なんだが司法の世界では人の命は軽いらしい。
『人の生命を1人でも奪う凶悪犯罪には、死刑をもって臨むのが原則である』、全く以てその通りなんだが現代の日本の司法ではそうではないらしい。何の為の裁きなんですかね。
『他人の命を奪った代償は己が命』、裁きの原則だと思うけどね。
個人的には其処に(その場に)加担していたのなら全員同罪だと思うんだがね。其々が何をしたか(役割分担とか)関係無く。
最初からまた途中で止めなかったと言う事は他者の考えに同ずると言う事。ならば加担のレベルは違おうが同罪だと。
これが市井と司法の奴等との違い。なんせ奴等は個々に別けて考えるんだもんな。
こんな、よくもまあ思い付くもんだと寒気がする方法で3人で殺しておいても3人に差が出るなんてこちらからしたらとても信じられない。3人共その場に居て3人で行(おこな)ったのに。
次の#2にある、被害者は生きていないのに公金で生かされ病気の際は公金で治療され、等等。
刑罰が決まる前ならそれ等も致し方無いだろうが決まった後ならほかっとけよと。『悪い事をしなければそんな目に会う事も無かったんだ』とね。