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【赤木智弘】泥まみれで復旧作業した子供らが炎上…なぜ日本人は過剰に「心を磨き」たがるのか 九州豪雨からの復興のさなかに
「美談」への指摘
7月上旬に発生した熊本県を中心に発生した豪雨。これを書いている時点で死者は78人で行方不明が6人。水害により多くの住宅が被害を受け、今なお多くの人が避難所に身を寄せている。
そんな大災害からの復興のために地元の人たちは汗を流していたわけだが、ある報道記事の写真が議論を呼んだ。それは地元のサッカーチームの子どもたちが復興の手伝いをしていることを報じた記事であり、写真にはサッカーのユニフォームで泥さらいをする子どもたちの姿が映っていた。
この写真に対して、多くの人たちが「服装が軽装過ぎて危険である」という指摘を行ったのである。
一番心配されたのは破傷風だ。
水害で堆積した泥には下水などの汚水なども混じり不衛生であることはもちろん、路上設置物の損壊などによって流れてきた釘や金属片などが含まれることもある。それらに不用意に触り手足に怪我をすれば、そこから菌が入り込み、破傷風を発症するかもしれない。破傷風は死に至る可能性もある、非常に恐ろしい病気である。
子供であれば四種混合ワクチンとして破傷風ワクチンは接種していることから、免疫はあるはずなので、実際に破傷風を発症する可能性は低いが、ワクチンに頼って危険性を無視していいはずもない。
ゴム製のズボンなどがあればいいが、最低でも服装は長袖長ズボン。手は泥がしみこみにくいゴム手袋。長靴は当然として、落ちている釘などを踏んだときでも足を怪我しないように、踏み抜き防止用の鉄板の入った中敷きを入れるなど、水害で発生した汚泥を触るときにはそれ相応の装備が必要である。
「心を磨くこと」?
Twitterなどでの「子供たちの服装が軽装過ぎる」という指摘に対し、チームは公式サイトで「選手の安全を預かる立場として、作業にあたり服装や準備物など指導が行き届かず、ご指摘のお声を頂戴しております。ご心配をお掛けしましたことをお詫び申し上げます。」と謝罪を行っている( https://roasso-k.com/news/4190 )。
この一件を見て、僕は別の話を思い出した。
とあるカー用品店の創業者が広めたとされる「トイレを素手で掃除する」という行為である。素手でブラシやぞうきんなどを使って掃除するのではなく、指の腹や爪をつかって、直接便器の汚れなどを磨いて落とすのである。
別に個人が自分の家のトイレを素手で掃除するなら勝手にやっていればいいのだが、「トイレを磨くことは心を磨くこと」などとして、教師やPTAそして素手でのトイレ掃除を推進する会などが学校に持ち込み、子供たちにやらせているのである。
当然、便器が大腸菌をはじめとする様々な菌の巣窟であることは言うまでもない。子供たちに素手でトイレ掃除をしても大丈夫、むしろ素手で掃除するべきと教えることは、誤った衛生管理の概念を植え付けかねない。
ちなみに、こうした活動を行っているNPOのサイトを見たところ、コロナ下においては手袋を着用しての掃除を推奨していた。日頃は菌やウィルスの危険性なんて気にしない活動を行っているにも関わらず、コロナだけは過剰に気にするというのも、彼らの信念があるようで信念のない雑な思想を表しているといえよう。
本当に「自発的」なのか
これら、子供に不衛生な事をやらせる案件であり、子供たちが危険に晒されている。
だが、方や豪雨災害という緊急事態におけるボランティア行為。方や常態として広められようとする行為。前者には同情の余地がないわけではない。
しかし、この2つが本質的に同じなのは、そのどちらもが「権力によって下の人間が不衛生な行為をしなければならない状況下に置かれる」ということだ。
素手でトイレ掃除が権力によるものであることはわかりやすいだろう。学校で行われる例では生徒たちは活動に参加せざるを得ず、また掃除の感想を求められれば「良い経験になりました」などと言わなければならない。
これは会社でも同じである。件のカー用品店の創業者は会社で素手でのトイレ掃除を続けていたようだが、するとやがて社員たちも自発的に参加し始めたのだという。これを「自発的」であると素直に思えるのは、経営者くらいなものだろう。実際には経営者に対する媚びや、やらざるを得ない空気に押されてやっているに過ぎないのである。
経営者というのは、好むと好まざるに関わらず、その会社で生きる社員の生殺与奪の権を握るのであり、社長と社員という関係下の行為が、掛け値無しに自発的であることなどありえないのだ。
地域貢献の意識は否定しないが
では豪雨災害におけるボランティア行為は、素手でトイレ掃除と同じような権力下での行動なのだろうか?
まず、被災地において被災者が生活のために、被害の後始末に追われるのは当然のことである。大人たちがみんな頑張っているときに泥さらいの作業を提案されて、子供が否定するはずもない。子供は断れない状況下にあったと言える。また、当然子供たちの頭の中には今後のチームでの扱いという、会社員たちと同じような判断があったはずだ。
そこに純然たる地域貢献の意識があったことは否定しないし、チームのみんなで一生懸命に手伝いをしたことは子供たちにとっては、またとない経験となるだろう。だが一方で、子供たちに泥さらいの作業にそぐわないチームユニフォームを着せて作業させたことは、子供たちをチームの宣伝に利用したとも言えるのである。
話は変わるが、皆さんは「ナイチンゲール」にどのようなイメージを持っているだろうか。そう、あの「クリミアの天使」と呼ばれたナイチンゲールである。日本でよく言われるナイチンゲールのイメージは「戦いで傷ついた兵士たちを、懸命に看護し、天使のように優しくいたわった素晴らしい女性」である。
しかし、ナイチンゲールが後世にまで語り継がれる偉人になった理由は、けっして彼女が優しかったからではない。彼女は医療現場に衛生管理の概念を持ち込み近代化を推し進め、多くの兵士たちの命を救ったからこそ、偉人として称えられているのである。
さまざまな資料を読むと、男尊女卑が当たり前の時代において、ナイチンゲールが軍部に疎まれながらも、統計などを駆使した科学的アプローチやその政治力により軍部に野戦病院の環境改善を迫り、病院の過密と不衛生さを排したことで、多くの兵士の命を救ったという事実が浮かび上がってくる。
従軍看護を終えた後も、ナイチンゲールは病院管理に関するデータを集めて調査書を書き、病院や兵舎の改善に取り組み続けた。さらに看護学校を設立し後進の育成にも力を注いだのである。ナイチンゲールは社会貢献のために闇雲に働いたのではなく、しっかりとした根拠を衛生管理の重要さを伝えるために働いたのである。そして目的を果たすためには上の立場の人間と対立することもいとわなかった。
根拠に基づく、基本に忠実な活動こそ必要
ナイチンゲールの例を出したのは、彼女の仕事が衛生管理の重要性を伝えるものだったという意味で、不衛生な行為を子供たちにさせることの批判もある。だがそれ以上に重要なのは、社会貢献のために重要なのは「心を磨くこと」や「チームみんなでの共通体験」といった心の充足ではなく、しっかりとした根拠に基づく、基本に忠実な活動こそ必要だと言うことである。
掃除であれば、ゴム手袋などをちゃんと装備し、ブラシの使い方などはもちろん、トイレの構造を理解させ、汚れが溜まりやすい場所を確認させたり、トイレ用洗剤を混ぜて使わないなどの基本こそ教えるべきなのである。
泥さらいであれば先ほど書いたような装備と、泥の中に混じっているものの注意喚起。また十分な洗浄乾燥、そして消毒の必要性など、将来子供たちが大人になり再び水害に見舞われたときに、周囲の大人や子供たちに指導できるような知識を教えるべきなのだ。
子供に間違った知識を教えることは教育でもなければ道徳でもなく、単なる大人のエゴを押しつけているに過ぎない。大人のために子供を利用するのではなく、子供のためになることを大人がちゃんと教えるべきなのである。
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何が言いたいのかよく分からないけど、そんなオツムで思ったのは「問題点其処?(服装がどうの)」と言う事?、服装がどうのなんかよりその下に隠れているものを問えって事?、で合ってる?
(クラブの監督が提案したんだとして)サッカーバカだからこう言う時はどうしたら良いかまで頭が回らなかったのかな。
でも子供達から或いは親御さん達から、それちょっと違うんじゃ?、と指摘はし辛いと。折角の善行に水を差すとか。
でも、こう言う場合はこう言う服装また装備が適していますよ、と言われるのの何がいかんのかな。
そこで、あぁそうか、となるのが人ってもんで。折角のボクチンの美談遂行にアヤ付けられちゃった、と拗ねる方がおかしいのであって。多分それを気にして子供達も親御さん達も口を出さなかったのかななんて。
いや、私のオツムではそう思ったのであって。
しかし。
馬鹿創始者のコロナのくだり、(笑)を何回付けたろかw。コロナもとい武漢ウイルスは怖くて便所の菌は怖くないと。こんなんでよく会社興せたもんだ。カー用品って、、、思い付くところは黄色い帽子と自動後退くらいなもんだけど、他にも有ったっけ?
Posted at 2020/07/24 18:59:16 | |
今日のボヤキ | 日記