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「ら抜き言葉」が進行した「れ足す言葉」が、明らかに「誤用」だと断言できる理由
これらは「合理的な言語変化」ではない
┃「れ足す言葉」を知っていますか?
現代日本語の〈誤用表現〉として広く知られているのは、「見れる・来れる・食べれる」などの例で知られる「ら抜き言葉」でしょう。「見れる・来れる・食べれる」は、現時点で話し言葉としてはかなり定着してしまった感がありますが、一般には、書き言葉での「ら抜き言葉」は〈誤用表現〉とされています。
なお、ここでいう〈誤用表現〉とは、共通語の規範的な運用から逸脱した言語表現のことをいいます。規範的な共通語は、東京語を基盤として成立していますが、歴史的にみれば、東京語は、かつての後期江戸語において主に教養のある人たちが用いていた言葉遣いの流れをくんでいます。
東京語以外の日本方言の中に「ら抜き言葉」と同様の表現がありますが、それを方言として使用することには何の問題もなく、むしろ、方言は守るべき日本語です。ですから、方言使用と規範的な共通語の〈誤用表現〉とを混同して議論すべきではありません。
そして、「ら抜き言葉」がさらに進行した「れ足す言葉」をご存じでしょうか。「れ足す言葉」は、「ら抜き言葉」ほどの知名度はありませんが、〈誤用表現〉のひとつです。
「れ足す言葉」の例を挙げると、「行けれる・読めれる・書けれる・飛べれる」などという言い方です。
「行く・読む・書く・飛ぶ」などの動詞を五段活用動詞といいますが、それを「行ける・読める・書ける・飛べる」のように下一段活用動詞に変えた動詞のことを「可能動詞」といいます。
「可能動詞」は、その名のとおり、動詞自体に「〜することができる」という意味があるのですが、「れ足す言葉」は、この可能動詞に、さらに可能の意味を表す助動詞の「れる」をつけた表現です。従って、「れ足す言葉」の「行けれる」は、「行くことができることができる」という過剰な可能の意味になります。
「可能動詞」に、さらに可能の「れる」がつく「れ足す言葉」と同種の〈誤用表現〉として、近年では、「出来れる」という言い方も発生しています。国立国語研究所が公開しているコーパス(言語資料の大規模データベース)のひとつである『国語研日本語ウェブコーパス(NWJC)』を検索してみると、次の例のような「出来れる」という言い方はウェブ上で69件確認できます。
「9月から始まり12月に試験がある、12月の試験日には立ち会いが出来れるようになりたいものだ」(NWJCでの検索例)
┃「れ足す言葉」はいつ発生したのか
「れ足す言葉」について早くに言及した日本語の研究書に『日本語文法がわかる事典』(林巨樹・池上秋彦・安藤千鶴子編、2004年、東京堂出版)があります。「れ足す言葉」が〈誤用表現〉として知られるようになったのは、西暦2000年代以前からのようです。
国立国語研究所がインターネット上で公開している『現代日本語書き言葉均衡コーパス検索システム(BCCWJ)』によると、次例のような「れ足す言葉」の例が検索できます。ただし、著者の坂田次男氏は高知県の出身で、高知県内の小学校に勤務されていたので、方言使用である可能性があります。
「たかふみ、学校行けれるかもしれんで」
(『子どもたちの人間宣言』坂田次男、2003年、明治図書出版)
日本の国会の本会議や各種委員会の会議録が、インターネット上の『国会会議録検索システム』において、第1回国会(昭和22・1947年5月)から現在に至るまで公開されています。『国会会議録検索システム』によると、「れ足す言葉」の早い例は次のとおりです。
「この競技法がそういうものの発展に対して阻害になるような項目があれば、それは国会の議を経てそういうものが十分伸びて行けれるように修正を加えればよい」
(栗山良夫氏の発言、第13回国会・参議院・通商産業委員会競輪に関する小委員会 昭和27・1952年3月28日)
「そうするとこの三百五十億の財源は、今ここに提出された平均一割の運賃値上げの中でやつて行けれる財源なのかどうなのか」
(正木清氏の発言、第15回国会・衆議院・運輸委員会 昭和27・1952年12月12日)
栗山良夫氏(明治42・1909年〜昭和63・1988年)は岐阜県関市の出身、正木清氏(明治33・1900年〜昭和36・1961年)は福島県石城郡の出身なので、これらの例も共通語としての「れ足す言葉」というよりは、方言使用の例である可能性があります。しかし、国会内での話し言葉で公的に使用された「行けれる」の早い例です。
可能動詞に助動詞「れる」を加える「書けれる」のような表現のある方言としては、ほかに静岡県遠江地方が挙げられますが、方言使用の流入が、東京語(共通語)の規範的な用法に影響を与え、結果として〈誤用表現〉が発生するという現象は「ら抜き言葉」でも観察されます。
もともと「ら抜き言葉」は、後期江戸語、その後の明治東京語においては使用されることはありませんでした。しかし、関東大震災(大正12・1923年)以降に、地方出身者による東京への大規模な人口流入が発生してから、東京語の中に「ら抜き言葉」が徐々に広まっていったと考えられています。
┃「れ足す言葉」はなぜ生まれたのか?
それでは、「れ足す言葉」はなぜ発生したのでしょうか。
それを考えるには、動詞と助動詞とが複雑に絡みあった日本語の変化の歴史について知っておく必要があります。
現代日本語の動詞は、活用の種類の違いによって5種類に分けられます。五段活用動詞、上一段活用動詞、下一段活用動詞、カ行変格活用動詞、サ行変格活用動詞の5種類です。
カ行変格活用動詞は「来る」の一語、サ行変格活用動詞は「する」の一語しかありません。
動詞の中で、未然形の語尾がア段音になるのが五段活用動詞、未然形の語尾がイ段音になるのが上一段活用動詞、未然形の語尾がエ段音になるのが下一段活用動詞、未然形の語尾がオ段音になるのがカ行変格活用動詞です。
未然形というのは、打消の助動詞「〜ない/ぬ」が接続するときの動詞の活用形のことです。「行か+ない」「見(み)+ない」「食べ+ない」「来(こ)+ない」の「行か・見(み)・食べ・来(こ)」が未然形にあたります。「行か」はア段音で終わるので五段活用動詞の未然形、「見(み)」はイ段音なので上一段活用動詞の未然形、「食べ」はエ段音で終わるので下一段活用動詞の未然形です。
未然形に接続する自発・受身・可能・尊敬の意味を表す助動詞に「れる」と「られる」のふたつがありますが、未然形がア段の五段活用動詞には「れる」がつき、未然形がイ段音・エ段音・オ段音の上一段活用動詞・下一段活用動詞・カ行変格活用動詞には「られる」がつきます。
つまり、助動詞「られる」というのは、未然形がア段音以外のイ段音・エ段音・オ段音になる動詞をア段音に統一するために、ア段の「ら」を加えてそこに「れる」をつけているのです。
しかし、五段活用動詞の中から下一段活用動詞が派生するという、また別の現象が生じました。五段活用動詞「行く」に助動詞「れる」が接続した「行かれる」(これを「助動詞型」といいます)から、下一段活用動詞すなわち可能動詞「行ける」が派生するのです。
「ら抜き言葉」の正体は、助動詞「られる」をつけなければならない上一段活用動詞・下一段活用動詞・カ行変格活用動詞などに助動詞「れる」をつけてしまう〈誤用表現〉です。視点を変えると、「ら抜き言葉」は、本来、五段活用動詞のみに限定されるべき下一段活用動詞(可能動詞)の派生が、上一段活用動詞・下一段活用動詞・カ行変格活用動詞にまで見かけ上で拡大してしまったものといえます。
さて、下一段活用動詞の可能動詞「行ける」は、現代日本語では主に可能の意味を表しましたが、その可能の意味が次第に弱まり、「ら抜き言葉」と同じように、〈誤用表現〉の力が働いて、可能の助動詞「れる」をつけた語形「行けれる」が発生しました。これが「れ足す言葉」です。
この段階になると、五段活用動詞と可能動詞の関係性が、そのまま、上一段活用動詞・下一段活用動詞・カ行変格活用動詞と「ら抜き言葉」との関係に併行して持ち込まれます。つまり、「ら抜き言葉」にも助動詞の「れる」が過剰につけられるようになるのです。ここに新たな段階の〈誤用表現〉である「れれる言葉」が発生することになります。次の図を御覧下さい。
このように、動詞と助動詞に関わる〈誤用表現〉は、「ら抜き言葉」や「れ足す言葉」にとどまることなく、「行けれれる」「見れれる」と、さらにとめどなく進行していくことになり、現代日本語はその〈誤用表現〉の拡大の途上にあります。
┃日本語の「合理的な変化」ではない
“「ら抜き言葉」は日本語の合理的な言語変化である” として、「ら抜き言葉」を擁護したり積極的に評価したりする考え方があります。
そのような説の根拠は、
(1)「ら抜き言葉」は五段活用動詞以外の動詞にも可能動詞が拡大した変化なので合理的である
(2)「ら抜き言葉」と「可能動詞」によって自発・受身・可能・尊敬の四つの意味をもつ助動詞「れる・られる」の文から可能の意味用法だけが特化され、助動詞「れる・られる」の受身・尊敬の意味と区別できるから合理的である
の2点でしょう。
しかし、この2点とも現代日本語の〈誤用表現〉の実態とは異なっているので、間違っています。
(1)については、現実として、「ら抜き言葉」を前提とする「れ足す言葉」が発生し、さらに「れれる言葉」も発生しているので、動詞と助動詞の語形変化は「可能動詞」と「ら抜き言葉」にとどまることはなく、今後も〈誤用表現〉として拡大していくことが明白なので誤りです。
(2)については、現実として、「可能動詞」「ら抜き言葉」「れ足す言葉」などに、可能の意味以外の受身と尊敬の意味を表す例が発生しているので誤りです。
『現代日本語書き言葉均衡コーパス検索システム(BCCWJ)』、『国語研日本語ウェブコーパス(NWJC)』、『国会会議録検索システム』など現在公開されているコーパスや、検索エンジンを検索するだけで、可能以外の意味で使われている「可能動詞」「ら抜き言葉」「れ足す言葉」などの例を容易に見つけ出すことができます。
【受身の「ら抜き言葉」】
「日本語をしゃべってもいないのに、道端で突然日本語で話し掛けれたり、他にも日本人ですか?って…」
(BCCWJ・Yahoo!知恵袋・2005年)
【受身の「れ足す言葉」】
「内閣改造の件だけど、、、環境問題の意味で言うと、小池さんが選べれなかったのが非常に残念だ。。。。。」
(BCCWJ・Yahoo!ブログ・2008年)
【尊敬の「ら抜き言葉」】
「また心のケアの重要性についても、訪問した寺院の先生は強く訴えれていました。」
(あるニュースレター・2011年)
助動詞「れる・られる」は、もともと自発の意味から出発して、受身・可能・尊敬の意味を拡大させていったという歴史的な背景があります。日本語では、自発・受身・可能・尊敬の四つの意味は相互に入り交じっているのです。
日本語全体の歴史から見れば、「可能動詞」「ら抜き言葉」「れ足す言葉」などの表す意味が可能だけにとどまることなく、受身・尊敬の意味にまで拡大しているのは、意味において元の状態である自発・受身・可能・尊敬に戻ろうとしているからです。
「可能動詞」の原型が発生したのは中世ですが、その当時は受身・可能・尊敬の意味用法を備えていたと考えられています。従って、「可能動詞」が発生した中世日本語から、「ら抜き言葉」「れ足す言葉」が発生した現代日本語までの間を視野に入れてみると、「可能動詞」と「ら抜き言葉」と「れ足す言葉」とが意味において可能表現専用であったのは、ほんの一時的な現象であったものと考えられるのです。
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移りにけりとは言うけどさあ、「ら抜き」はまだいいとして(認める訳ではなく)「れ足す」はなんなのあれ。正直言うと気持ち悪い。
なんだよ行けれれれれるって。いやマジで「れ」1個も2個も多く書きそうだわ。「行けられる」がそんなに嫌なら「行く事が出来る」とちょっと長いけどそれでいいだろと。なんだよ行けれれれれれるって。よく口中で舌が回るな。
> 日本語をしゃべってもいないのに、道端で突然日本語で話し掛けれたり、他にも日本人ですか?って…
「掛けれた」は自分がした事だぞ?、相手にされたんだろ?なら立派に「掛けられた」だろ。馬鹿か?なあ、馬鹿だろマジで。
お前等バカ造界で流行っている言葉ではなく社会で使われている言葉を話せ。「ら抜き」とか「れ足す」はバカ造等の中で使われているだろ。
> ほんの一時的な現象であったものと考えられるのです
是非そうであって欲しいわ。