
昨晩投稿した流れに引き続き、夜更かししながらあらためて読みました、私が影響を受けた小説の中身の紹介です。
自分の思うところをすぐに発信したがる単細胞な男ですが、ブログとはプロフィールでは書き認めることの出来ない自身の考えなどを発信する大切なツールだと思っていますので連投お許しください。
しかも画像無しの長文につき、退屈と思われる方はご退出下さいませ。
ちなみに池波正太郎は様々な著書の中で
「時間」の在り方についていくつもの人生観を説いている。
特に著作「男の作法」は昭和50年代に出版されたものですが、はじめに書かれているとおりすでにこの時代をもっても
「所詮 私の時代の常識であり、現代の男たちには恐らく実行不可能でありましょう。時代と社会がそれほど変わってしまっているということです」と書いています。
しかしこの平成の現代においても参考になる文言、とりわけこの時間というものの考えかたについては若き日の自分にとって色々と教えられたものです。
現代の特に若い方には是非ご一読頂きたいお勧めの書です。
『池波正太郎著作 男の作法』
【ク セ】 より
ぼくらの仲間でも締め切りが迫ってこないと書けないという人もいる。
これは一種のクセなんですよ。
たとえ締切り前の一日だけ手許(てもと)に置いておくだけでも作品はましになる。
読み返して手を入れることによってね。
.....中略
締切りギリギリでやった仕事は出来栄えがよくないばかりでなく、自分の健康にも有害なんだ。
.....中略
ぼくは、甘い期待はしないで、つねに、
「最悪の場合を想定しながら、やる・・・・・・」
という主義なんだ。
.....中略
いつも五分五分、入るかも(文芸各賞への入選を意味する)しれないし落ちるかもしれない、その率は五分五分であると僕はつねに思っているから。
と、いうことは、戦争に出て戦死するかもしれない、あるいは生き残って帰ってくるかもしれない、その率は五分五分なんだ。
すべてが五分五分なんだ。
そういう人生観、というのも大げさだけれども、だから落ちたからといってガックリはしない。
もう、すぐその日から仕事ができる。
その考えでいかないと、時間というものがロスになってしまう。
.....略(終章)
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幼少期の夏休みの宿題・課題(笑)。
よく追い込まれたもんでした。
そして社会人になってからの仕事の期日や約束事の期日。
時間に余裕を持って作業を終えると気持ちの良いものです。
同じ労力を使って達成できても、早い仕事と遅い仕事では、確かに出来栄えやその質は違いますね。
早く出来るだけが仕事ではないけど、仕事においかけられると良い仕事も出来たモノじゃない。
こう言うことを教わった内容でもあります。
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【約 束】 より
この「時間」の問題というものは、もう一つ大事なことがある。
それは、自分の人生が一つであると同時に、他人の人生も一つであるということだ。
自分と他人のつきあいでもって世の中は成り立っているんだからね。
だから時間がいかに貴重なものということを知っていれば、他人に時間の上において迷惑をかけることは非常に恥ずべきことなんだ。
われわれの仲間で、年に二回ある会合に必ず毎回遅れてくるのが二人いるんだよ。
作家が五人集まるんだけど、いつも遅れるのは同じ二人。
Aという人は都心から遠いところにいるが決して遅れない。
タクシーだのハイヤーを使うと途中で渋滞する恐れがあるから、電車で一時間前に着いて、三十分ぐらいその辺でショッピングしたり本を見たりして、定刻三十分前に来る。
Bもだいたい同じようなこと。
他の人に迷惑をかけてはいけないという気があるんだ。
ところが、あとの二人のうち一人は絶対に間に合ったためしがない。
たまに遅れてくるのはわかるよ。
それが毎回なんだ。
こういう人は、自分の持っている時間、自分の生きている時間の貴重さもわかっていないんじゃないかと思いますね。
そういうことにルーズなのが作家の特権であるというのは大間違いだ。
.....中略
昔の作家はそんなことをしないわけですよ。
夏目漱石でも泉鏡花でも、あるいは森鴎外でも島崎藤村でも、自分の生活でたとえ女狂いしていようと、会合の時に時間に遅れるなどということはしていない。
みんなきちんとしていますよ。
だけど他人との接触においては一人の社会人としてふるまわなければならない。
.....略(終章)
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本当身に染みて若いころに『時間』というものを考えさせられた一文です。
当時は他人の事なんておかまいなしですからね。
人間だから遅れるのは当然ありますが、その遅れ方にも信用・信頼のおける遅れ方があるものだと体感いたしました。
あくまでも私個人の考えですが、ここで書かれている通り、他の人の時間を大切に考える方は、相手の言葉や考えも大切にします。
相手を尊重するというのですかねぇ。
そして若い時分はとりわけ単純に時間にルーズって者が多い。
でも歳くってお金も地位も手に入れると、特に我が強くなり相手の時間を大切にしなくなる輩も多い。
お金は無いけど歳をそれなりにくって参りましたワタス。
久し振りに読み返してあらためて襟を正さないとと感じる次第です。
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【寿 命】より
戦国時代なり江戸時代の場合は、現代(いま)のように医学というものが発達していないから、死ぬ人が多い。
赤ん坊のうちに死ぬし、若いうちに死ぬし、どんどん病気で死ぬわけだよ。
だから、死というものを子どものうちから身近に見て育つわけですよ。
.....中略
だから当然感覚的に、
(人間はいつかは死ぬものだ・・・・・・)
ということがわかっているわけですね。
ところがいまは寿命が延びて、なかなか死ななくなったということは結構だけれども、人間は死ぬということを考えなくなっちゃったわけだ。
.....略(終章)
【死】 より
男をみがくにも、そのみがきどきというものがある。
.....中略
苦境に立ち至ったときはみがかざるを得ないんだよ。
男をみがくか、下へ落っこちゃうか、どっちかなんだよ。
もっとむずかしいのは、なんでもないときにそれをやることだね。
.....中略
いま、自分は三十(歳)であるとしよう。
「いつまで生きられるか・・・・・・」
ということをまず考えないとね。
そこから始まるんだよ、根本は。
三十歳だったら本当に生きていて仕事がというのは、うまく行って七十までだね。
それ以上生きても、五年か十年でもって結局は、間もなく死ぬわけだから、あと自分が生きている年数というものは何年か、それをまず考えなきゃならない。
それが全部基本になるんだよ。
われわれの時代というのは二十一、あるいは十八か十九で、それを考えなきゃならなかった。
ぼくだけじゃなくて、だれしも。
というのは、戦争というのがあって、よっぽどの病人でない限り、戦争に出なきゃならないんだから。
そうすれば、生きて帰ってくる、あるいは戦死するという率は、七・三ぐらいかも知れないけど、うまく行って五分五分ですよ。
そしたら一応「死ぬ」ことは考えなきゃいけないわけだよ。
いままで、ぼくがここまで来たのは、やっぱり、それが根本にあって生きてきているわけ。
ところで、きみたち、自分が死ぬということを一度でも考えたことあるの?
四十年、五十年なんて言ったって、あっという間だからね。
だから、ぼくはこう言うんですよ。
「自分が死ぬということを、若いうちから考えないといけない・・・・・・」と。
人生の常識という意味から言っても、一番わかっていることなんじゃないか。
自分が、
「死ぬとことに向かって生きている・・・・・・」
ということだけが、はっきりわかっている。
.....略(終章)
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自分が死生観に直面したのも二十代中盤の時の祖父の死が、身近な死に直面した最初でした。
幼少期はもちろん青年期においても身近に死というものに直面しなかった私ではございますが、四十も後半になってくると、様々な死に直面します。
そしてそのはかなさや一時の時間の貴重さを今この歳になってようやく感じます。
今まさに流れているこの当たり前の安穏とした時間も実は大切な時間なのですよね。
今一度人生に色々とその年齢で出来ることをカウントダウンしてみると、より有意義な時間が過ごせるかもしれません。
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久し振り読んで、内容は古くとも現在に通ずる普遍的な生き方が多数書かれていますね。
読んであらためて忘れていた事を多数気付かされるのでした。
あ~、当分の間寝不足必至(笑)。
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Posted at
2017/04/19 11:03:26