
読んでいて都度思ったことや注意したいことを書いていく。
「オーディオABC」
まさに、オーディオとはなんぞや、の解説書。復習をしつつ進んでいくため非常にわかりやすい。ですます調ではあっても瀬川氏の人の成りが伝わってくる。
ただし、リンク先は図を見ろと指示があっても、図は載っていないので少し困る。(オーディオ経験者ならある程度、ああ、あのことね、と想像できる)
ご丁寧にもイコライザーの使い方まで指南してくれている。イコライザーとはイコールが語源、元のバランスとイコールする……、そういう使い方こそがまともな使い方。
スピーカーの動かし方も指南している。これはオーディオにハマったときに散々実験したから身に付いているが、やはり体験としては必要なことだったのだなァ。
「声高に喋る」について。
声を高くするとピッチが上がることになるから、「大きな声で喋る」が正しい。……言われてみればそうだ。例えば何かの宣言をするとき「彼は声高々に言い放った」とあったら、甲高い声を出してる描写の可能性に繋がるわけだ(笑)
ミュージック出力。
は~、そんなのがあったのか。廃れてる明記方法だ。
「瀬川冬樹のステレオテクニック」
こちらは瀬川氏が亡くなったあとに瀬川氏の文章を菅野さんが監修したもの。オーディオABCを読んでいればまた復習のようなもの。
アンプの電源を入れて、すぐにプリのボリュームを回さない。
しばらくしてからボリュームを回すこと。
調整はできるだけ大きな音ですること。
小さな音で調整して大きく聴いたときに問題を見つけることは多々あるが、逆は滅多にないから。
電源を入れる時は上流から、切る時は下流から。
(一編に入れられるのであれば、それが良いという)
セパレートアンプについてのところで、「わかれた分だけコストが高くなります。少なくとも、シャーシ、電源、梱包費、輸送費とざっと考えてみただけでもそれぞれが二倍かかります」と述べている。つまりこの余計な分を覆すだけのメリットがないものはセパレートにするだけの理由がないと言えるわけ。じゃあ、それを買うのは何故と言えば、音質に期待するから。トランスポートとDACについても同じ。
アンプやプレイヤーをセパレートにするということは、色々なメーカーのものを組み合わせて楽しむことができるわけだ。けれど、SACDプレイヤーは同一メーカーでなければSACDの信号が送れなくなるという仕方なさから同一メーカーを選ぶとして(CD再生だけをやっていたのなら組み合わせを楽しむと思うけど)、リンのアンプはそのデザインのまとめ方が素晴らしい(どちらかと言えばパワーアンプ。消費電力や放熱機構、取り回しの良さなど。ただしスピーカーケーブル接続はやりにくいのが欠点)ので、他メーカーのアンプを組み合わせる気にならない。
スピーカーのエージング(慣らし運転)について。
ノイズ系でエージングをするより、ちゃんとした音楽、それも自分が聴くものを鳴らしてじっくりやるのが良いとのこと。ノイズでやると音が汚くなった経験から、その考えに至ったようだ。ノイズでのエージングは色々な周波数が出てるから、いちいち変えなくてもそれを流しっぱなしにしていればそれでいいと、横着をするのは良くないと言うことか。アンプやプレイヤーも同じなんだろうか?書いてないからなァ。
気温が適温でない(特に低い)場合は、第二関節背中で部材を触って温度ではなく、素材の質感が判れば適している状態であるという計り方、面白い。
変な音が鳴っているときに「これは変だ、おかしいぞ」と思えないと、それ以上、音は良くならない。五感の内、聴覚を除いた他の、視覚、嗅覚、味覚、触覚、見ておかしい、嗅いでおかしい、味わっておかしい、触っておかしい、と思えることと同じことだという。確かにそうだ。
他人の意見だけでオーディオを買ってしまう。
……うーむ、私からするととても信じられないが自分の考えがまとまってない、何を求めたら良いのかわからない人は言いなりになるのかもしれないね。売上を伸ばしたいだけの店員がいたら絶好のカモだな。100%店員が悪いわけじゃないけれど。(自分を持ってないのも悪い)
「オーディオABC」、「瀬川冬樹のステレオテクニック」はオーディオ初心者熟練者問わず良い書籍だ。
「オーディオの系譜」
オーディオの音の良さは一朝一夕で出来たものではない。先人たちの努力、工夫、創作など、あるいはそれを認め、支え、企業を後押ししたファンがいてこそ、成り立っているものである。それならば、どういう成り立ちで現在に続いてきているのか、瀬川氏の主観から系譜を知ろうではないか、という書籍。
ターンテーブルの回転負荷変動について、ステレオサウンド30号で初めて指摘したとのことだ。画期的な提案をしていたのだなァ。最近はそういうのまったくないけど、それだけ性能が上がっていてちょっとやそっとでは指摘する所などないってことなのか……? そう言えば、当時のステレオサウンドはとにかく事細かに測定もしていて、メーカーからすると暴かないでくれっていうのもあったそうで(笑)、今の感覚だと、メーカーが何ふざけたこと言ってるの?という感想でしかない。チャンピオンデータってのは今もあるだろうけど、平均的には随分それと掛け離れてるものを作ってお客さんを騙しちゃいけないよ、ということだな。しかし、それが最初から出来るのならメーカーだってやっていたに違いない。それが出来ないほど、まだ技術も発展途上だったわけだ。
それにしてもCDプレイヤーが世に出たときのことを振り返って、スクラッチノイズが失くなった、音の質感はいまいちだった……、と割と目にするが、回転の負荷変動のことについては(非接触のレーザーだから起こりようもないが)どうだったかはあまり目にしない。音の質感はいまいちだったとしても一定速度でピッチ変化も起こらないはずなので、そこの指摘はなかったのかな? それともそんなの本来なら聴けて当たり前のことだから、取り立てて記憶に残らないことなのか。
当時の未来志向のレシーバーの行く先は、「現代のスマホ」なのだろうか。
多くの(オーディオには疎い)人々が一定水準で聴けてしまう音質を出せて、通信機器として成り立ち、画面を見ながら情報を確認できて、それらを簡便に操作しうるもの。更には、掌サイズだ。ひとつの到達点に辿り着いてしまっているのかもしれない。……ただし、音質の高みを目指す人にとっては物足りないもの、というのもこれはレシーバーらしさというものなのだろう。
昨今はスピーカーの音もグローバルになってきて、かつての強烈な個性が和らいできた、なんて風潮があるようだけど、KEFのレイモンド・クックは当時の日本のスピーカーの音を攻撃的だと言っていたという。これは日本の音と言っても差し支えない。しかし日本人は日本の音を海外のスピーカーに比べ、個性的とは思わない。では攻撃的な音の国の住人がKEFのスピーカーをどう鳴らしているか……。それが私です(笑)
瀬川冬樹氏曰く「KEFのことを日本では「ケフ」と呼ぶ人が多いが、正しくは「ケー・イー・エフ」だとはっきり仰っている。
ほほう。それ見たことか。
新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のようにすげー爽やかな気分だぜ。
そう……、ケー・イー・エフと読んでもよォ~~~ッ
これで全然おかしくねーわけだな~~~~っ
後ろ盾を得た気分だ。
瀬川氏はKEFに愛着を持っていたのが伝わってくる。
私もKEFの音質、好きよ。
因みにDAC(D/Aコンバーター)と表記したら、「ダック」と呼ぶ人も多い業界である。アヒル。私は「コンバーター」の語感が好きなのでDACと書いてもD/Aコンバーターと呼ぶことにしている。でもMOSFETってあったら「モスフェット」って読んじゃうんだな~。Metal-Oxide-Semiconductor Field Effect Transistor、メタル・オキサイド・セミコンダクター・フィールド・エフェクト・トランジスターだよ。エム・オー・エス・エフ・イー・ティーじゃないよ。
読み方と言えば「音場」。
磁場、出場、現場、会場、広場、劇場、足場、職場、式場、戦場、本場、立場、登場、道場など、「場」の使い方には色々とありますが。面倒なので「サウンドステージ」と脳内で読むのだ(ずるい)
最近は故・岩崎千明氏の書籍
「オーディオ彷徨」を読んでます。
風景の描写が小説みたいで面食らった。
スイス、バーゼルの描写なんか、ああ、わかるわーって。
Posted at 2020/11/15 17:22:21 | |
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