
12月13日発売のデアゴスティーニの隔週刊「第二次世界大戦 傑作機コレクション」vol.23、日本海軍局地戦闘機 九州 震電です。前回のvol.22の九七艦攻に引き続き、今回も日本海軍の航空機の登場ですね!今回は終戦間際に完成した試作機、九州飛行機の局地戦闘機 震電です。
この震電を語るうえで外すことのできないのが、なんと言ってもこのジェット機の様な前翼型(エンテ型、先尾翼型とも言います)と呼ばれる機体形状ですね。
この世界的にも例の少ない前翼型の航空機の開発は日本海軍の海軍航空技術廠(以下、空技廠)の鶴野正敬技術大尉の発案によって始まります。海軍の技術将校でありながら、自らも数々の航空機のテストパイロットを務め、航空機の操縦経験も豊富な鶴野大尉は、空技廠に着任後の昭和17年(1942年)の初め頃よりこれまでに例のない着想によって前翼型機の基礎設計案をまとめ、模型による風洞実験などで空力特性の優秀性を訴えた結果、同年12月には検証実験の為の試作機体の設計製作が決まります。翌年の昭和18年(1943年)3月、風洞実験などの実験データを元に実験試作機の設計が始まり、MXY6と呼ばれる木製モノコックのモーターグライダーが完成します。同年11月に初号機が完成し、さらに翌年の昭和19年1月から試験飛行が行われました。試験飛行により空中での一定高度の維持が確認され、操縦性にもこれといった問題が認められなかった事で、実用化に向けて十八試局地戦闘機(J7W1)として開発が進んでいくこととなりました。
しかしながら、空技廠やその他の航空機メーカー(三菱、中島、愛知、川西など)が他の航空機(試作機を含む)の生産や開発に手一杯の状況であった為,、十八試戦の開発と製造は小規模メーカーの九州飛行機が手掛ける事となりました。この時、鶴野大尉も空技廠から九州飛行機に出向する形で試作機の設計、開発に関わっていきます。海軍より十八試戦の発注が正式に出されたのは昭和19年5月となります。同年11月には設計が完了し、試作1号機の実機製作に移っていきますが、搭載されるエンジンである三菱製「ハ43-42型」空冷星型複列18気筒(2130hp)と住友金属製のVDM油圧式恒速6ブレードプロペラが工場に届くのが昭和20年4月頃となり、結局試作1号機の完成は同年6月となりました。そして、同年8月3日に試製震電とも言える試作1号機のJ7W1はようやく初飛行を行いました。初飛行に引き続き8月6日、9日にも試験飛行が実施され、次回の試験飛行の日程を8月17日に控えていたところで8月15日の終戦を迎える事になり、結果として8月3日~9日までの計3回の試験飛行のみで震電はその役目を終える事となりました。
結局、実機として完成していたのは1機のみであり、3回の試験飛行ではエンジン出力も押さえられた状態での低空飛行のみだった事もあり、前翼型戦闘機としての上昇性能、高高度飛行性能、空戦性能、航続性能など、その実力は全く証明される事はありませんでした。終戦後、試作機は何者かによって破壊されてしまいますが(一説では敗戦に憤慨した工員が破壊したと言われています)、同年9月に進駐してきた米軍の指示によって破壊された機体は外観のみ復元されました。現存する震電の写真はこの復元時に撮影されたものとなります。その後、10月には分解、梱包された状態でアメリカ本国に運ばれていきました。アメリカに輸送後、震電はテストされる事はなかったようで、その機体は現在も分解された状態でスミソニアン博物館で保管されています。
震電は試作されたプロペラ機ですら3回の試験飛行のみで終戦を迎えていますが、量産図面の製図なども試作機の開発と併行して進められており、機体後方に搭載されるエンジンをレシプロエンジンから「ネ-130型」と呼ばれるジェットエンジンに換装した震電改(J7W2)といった構想も存在していたようです。また、震電に搭載される武装は30mm機関砲×4門といった強力なものであったり、防弾対策などがこれまでの日本の戦闘機などと比較するとかなり考慮されている様で、この辺りが自重3525kgといった重量的な欠点を生む要因となっているのかもしれません。
ただ、試作機の発注、エンジンやプロペラなどの完成時期の問題こそあったものの、震電の前年より三菱が開発を行っていた十七試艦戦こと「烈風」は搭載するエンジンの安定性に悩まされて試作機の完成が遅々として進まなかった事を考えると、震電の開発は比較的順調に進んでいた事が分かりますよね。開発が開始された時期が時期なら雷電などに代わる海軍の主力局地戦闘機として戦果を挙げていたのかもしれませんねぇ。
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Posted at
2016/12/14 23:54:02