
いやはや…どうにもこうにも年度末はいかんですねぇ…。本業は年度末に一切左右されないで暇でも忙しくも無いんですけど、町内会業務が年度末やら新年度の絡みでバタバタとしておりまして苦しんでおりました。
さて、3月7日発売のデアゴスティーニの隔週刊「第二次世界大戦 傑作機コレクション」vol.29、川崎 二式複座戦闘機 屠龍(キ45改)です。なんだか、陸軍機が続きますね~。
1930年代~1940年代にかけて航空機(軍用機)は複葉機から全金属製の低翼単葉機となり、主脚は固定脚から引き込み脚へと変わっていくなど大きな技術革新を遂げた時期でした。そんな中で欧米各国では単発の戦闘機よりも高馬力で速力、航続距離の向上を狙った双発の戦闘機の開発が流行となり、日本でも欧米諸国同様双発戦闘機の開発が始まりました。
昭和12年(1937年)、陸軍は双発複座戦闘機の開発に着手するにあたり中島、川崎、三菱の3社に双発複座戦闘機の開発研究を指示します。その際、各メーカーにはキ37(中島)、キ38(川崎)、キ39(三菱)とそれぞれ試作機の番号が与えられた訳ですが、実際に開発が進んだのは川崎のキ38のみでした。その後、陸軍はキ38の開発を中止させた後、新たにキ45として川崎に対して開発を指示する事になります。キ45は昭和14(1939年)1月に試作第1号機が完成しますが、このキ45という試作機には様々な問題が出てきます。双発機ということで単発機よりも高い速力を期待していたにもかかわらず、キ45の試作機の最高速度は480km/h程度とかなりの期待はずれとなり、その他にもエンジン取り付け部の空気の乱れによる失速現象(エンジンナセルストール)や引き込み脚の動作不良など次々に問題が発生しました。その後、試作機7号機よりハ20乙型空冷星型9気筒からハ25型空冷星型複列14気筒に換装され、エンジンに関する不安面は解消されていきますが、エンジンナセルストールなどの諸々の問題は未解決のままであり、結局昭和15年(1940年)10月にはキ45の開発が中止となりました。開発中止と前後して昭和15年8月頃より川崎の土井武夫技師(後に三式戦、五式戦も手掛ける人物)の下で既に制式採用が決定していた九九式双発軽爆撃機(キ48)の設計をベースとして改修型の設計に着手しており、これがキ45改と呼ばれる事になります。キ45改は翌年の昭和16年(1941年)に設計が完了し、同年9月には試作第1号機が完成します。その後、昭和17年(1942年)2月に二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」として制式採用される事となります。キ45改はハ102型空冷星型複列14気筒 1080hp(海軍名 : 瑞星二一型)が搭載される事となり、キ45よりも更に高馬力となりました。
こうして約5年もの歳月を費やして制式採用された双発複座戦闘機ですが、単発機に比べて旋回性能などが劣るなどの理由から戦闘機としての実績があがりませんでした。そうしたなかで、戦闘機としてではなく、双発機の航続距離の長さを生かした長距離偵察機や戦闘爆撃機などの用途で運用する事で二式複戦の活路を見出していきます。二式複戦が制式採用された昭和17年頃には、既に単発機でも高馬力エンジンを搭載した単葉機が登場しつつある時代でしたので、二式複戦はまさに遅く生まれてしまった戦闘機なのでしょうね。しかしながら、この二式複戦は昭和20年8月の終戦まで運用される事となり、特に大戦後期の日本本土上空におけるB-29など戦略爆撃機の迎撃には一定の戦果を挙げるなどの活躍を見せています。紆余曲折を経てようやく制式採用となった二式複戦でしたが、当初の計画していた運用法とは違った高高度における迎撃という、ある意味日本の戦闘機が苦手としていた運用方で一定の戦果を挙げたというところが実に面白いですね。
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Posted at
2017/03/17 00:04:43