
会社は一応昨日で仕事納めでしたが、今日は休日出勤でした。まぁ…とりあえず、今日で僕も今年の仕事納めだった訳です。これで心置きなく冬休みの宿題として町内会業務に取りかかれるってもんです。
さて今日のネタは、またもや1ヶ月振りとなりましたが、12月26日発売のデアゴスティーニの隔週刊「第二次世界大戦 傑作機コレクション」vol.50、愛知 晴嵐です。いやはや…3号連続で日本機は水上機のラインナップですか!?まさに水上機祭りですね(笑)。
今回の特殊攻撃機「晴嵐(せいらん)」は、昭和19年12月から終戦の昭和20年8月まで日本海軍で運用された航空機です。この晴嵐の最大の特徴はなんと言っても、伊四百型潜水艦(イ400、イ401、イ402)に搭載され、洋上から米国本土に攻撃を行うといったコンセプトで開発された事ですね。
日本軍は当時世界的に見ても最も多くの水上機を開発し運用していた国であり、まさに「お家芸」と呼ぶに相応しい質と量の水上機が運用されていました。そんななか、日本海軍は大型潜水艦に攻撃機を搭載して米国本土東海岸を攻撃するという計画を発案し、その計画を基に伊四百型潜水艦の開発と併せて、昭和17年5月に晴嵐の開発を水上機開発に定評のある愛知航空機に「十七試(特殊)攻撃機」として発注しました。晴嵐は伊四百型潜水艦の飛行機格納筒に主翼や尾翼を折り畳んだ状態で搭載される為、主翼は1本のピンで固定されており、このピンを外す事によって主翼の前側が下方向に90度回転し、その状態で後方に折り畳まれます。また、水平尾翼は根元(胴体側)から下方向に折り畳まれ、垂直尾翼は上端のみが右側横方向に折り畳まれる様になっています。フロートは格納筒搭載時には外された状態ですが、機体の近くに配置されておりすぐに装着できる様になっています。晴嵐のエンジンは愛知航空機製の「アツタ三二型」液冷倒立V型12気筒(1400hp)が採用されており、このエンジンは同盟国ドイツのダイムラーベンツDB601型エンジンのライセンス生産版で、海軍の艦上爆撃機「彗星一二型」や陸軍では「ハ140」の名称で三式戦闘機「飛燕Ⅱ型」などに採用されました。
翌年の昭和18年11月には試作1号機完成し、フロート装着時の最高速度が当時運用されていた最新型水上機の「瑞雲」を凌ぐなど、全体的な性能は概ね良好だったようです。その後、昭和19年2月頃より量産が本格化し、部隊に配置されていきます。ちなみに、晴嵐は海軍に制式採用されたという公的な施行がされないまま運用されていたので、名称としては「試製晴嵐」などと記述されていた様です。伊号潜水艦の飛行機格納筒には3機の晴嵐が搭載されており、伊号潜水艦の浮上から晴嵐の組立て、エンジンの暖機を行い、カタパルトから3機全てを射出するまでに要する時間は約35分といった記述もありますが、これは整備員や搭乗員の錬度によって時間が前後するものでしょうし、洋上での発艦は船体の揺れなどの影響から、危険度の高いものであり、発艦に失敗すれば最悪の場合は機体が海面に突っ込んでいく事になります。なお、爆弾や魚雷は格納筒に搭載されている状態でも機体に爆装、雷装されていたそうです。また、暖機の時間を短縮する為に潤滑油や冷却水を加温して注入できる様にも工夫されていたなど、この晴嵐の完成度はかなりのものだったのではないでしょうか。また、晴嵐のフロートを廃し、引込脚を装着させて陸上機化した「南山」(M6A1-K)(試製晴嵐改)といった陸上攻撃機も派生機として開発されました。
晴嵐の運用では、米国本土の東海岸やパナマ運河などを攻撃目標として作戦が計画されていましたが、結局最終的にはウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃を特攻として行う作戦へと変更され、攻撃予定日は8月17日となっていましたが、2日前の8月15日に終戦を迎えた為、翌日の16日には作戦中止命令が出て、晴嵐は特攻は勿論、一度も出撃する事なく終戦を迎え、主翼を折り畳んだままの状態で海中投棄されました。この時、晴嵐は戦時国際法違反を承知で米国機の塗装が施され偽装された状態でしたが、海中投棄の際に搭乗員の希望により米国の星が塗りつぶされ、日の丸が描かれたといいます。
晴嵐は愛知県内の工廠から米軍が接収した機体が、修繕を施された状態で現在もスミソニアン博物館に保存されています。
ブログ一覧 |
その他乗り物 | 趣味
Posted at
2017/12/29 18:57:48