
デアゴスティーニの隔週刊「第二次世界大戦 傑作機コレクション」vol.17、三菱 烈風(A7M2)です。
今回は実戦配備される前に終戦を迎えた、零戦の後継機とも言える艦上戦闘機、烈風の登場です。三菱の戦闘機設計の集大成とも言える機体ですね。昭和16年の日米開戦当時、零戦は紛れもなく世界水準を越えた戦闘機でしたが、昭和18年頃になると欧米各国のライバル機の進化によって、その優位性も徐々に薄れてくる様になりました。日本海軍は零戦の改良や後継機となる新型艦上戦闘機の開発を、日米開戦以降の昭和17年頃から計画しており、新型機の開発については同年4月に三菱に対して十七試艦上戦闘機の試作が内示されました。この試作機こそが後の艦上戦闘機「烈風」となる訳です。設計主務者は零戦や雷電同様に堀越二郎氏でした。
大戦中期以降では既に戦闘機同士の格闘戦が主流ではなくなっていましたが、海軍から三菱に示された新型艦上戦闘機の計画要求書には格闘戦重視の設計が書かれていました。時代は零戦の様な1000hp級エンジンではなく、2000hp級エンジンが主流となりつつあり、十七試艦戦の機体は零戦よりも一回り以上も大きなものとなりました。エンジンは零戦の時に叶わなかった自社製エンジンの搭載を海軍に主張しましたが、当時三菱が開発を進めていた「ハ43」は完成に至っておらず、十七試艦戦には中島製「誉」が搭載される事に決まりました。しかしながら、この誉エンジンは14気筒の栄エンジンをベースに18気筒化したもので、2000hp級エンジンの設計としては余裕のないもので、そうしたギリギリの設計が元となり様々な不具合が頻発する事となります。結局、誉エンジンを搭載した十七試艦戦は零戦よりも低い性能となり、三菱製のハ43-11型 空冷複列星型18気筒、2200hpに換装され、当初より計画されていた性能を発揮する事となり烈風一一型(A7M2)として制式採用されました。
制式採用されたと言っても、結果的に十七試艦上戦闘機(A7M1)として制作された試作機8機のうち、3機が烈風一一型として改修された訳で、その量産一号機の完成直前に終戦を迎える事となり、遂に烈風は実戦配備される事なく退役する事となりました。烈風の現存する写真は数少なく、終戦後に三沢基地でプロペラを外した状態の写真(下)は烈風の姿をよく写したものとして有名であり、大変貴重な歴史資料ですよね。また、烈風の外観上の特徴として挙げられるのが、上反角のない中央翼に対して約7°程度の上反角が与えられた外翼ですよね。艦上攻撃機「流星」やF4Uコルセアの逆ガル翼と比較すれば僅かな上反角ですが、この微妙な角度が如何にも烈風らしくて格好良いですね!
昭和19年、20年頃には既に制空権は奪われ、海軍に残された空母の数も僅かばかりでした。大鳳や信濃といった大型の空母に烈風や流星などの大型の航空機の搭載を計画していましたが、いずれの空母も竣工から僅かでその姿を消してしまいました。この烈風に関しては零戦の再来と称される事が多い事もあり、当時の米軍の最新鋭機F8FベアキャットやP-51Hマスタングとの実力差は如何ほどであったか…など、想像すると興味は尽きません。
Posted at 2016/10/05 23:25:24 | |
トラックバック(0) |
その他乗り物