
正月なのでという訳ではありませんが、珍しく本日2回目のブログ更新をしてみます。
昨年(令和4年)の秋頃…10月か11月頃だったか、行きつけの地元の書店で買った雑誌、月刊「地図中心」です。
日頃、地元の書店にデアゴスティーニの隔週刊「仮面ライダーDVDコレクション」と「仮面ライダーDVDコレクション 平成編」の定期購読をお願いしており、月に2回ほど書店を訪れるのですが、その際に決まって店員さんと雑談をするんです。僕が歴史が好きで、特に郷土史の本に興味があって探しているという話をしたところ「こんな雑誌があるんですよ」と見せてもらったのが、この「地図中心」というマニアックな地図雑誌でした。たまたま通巻600号目にして我が地元の新潟市が特集されている号で、パラパラとめくって少し中身を見せてもらったら凄く興味が沸く内容でしたので店員さんにお願いして注文してもらいました。
雑誌の中では、地理や歴史における各分野の専門家が【新潟市域の土地の成り立ち】、【新潟市域の鉄道路線網の形成】、【新潟市とその周辺の地形】、【新潟砂丘の地形について】など、それぞれのジャンルごとに記事を書いており、雑誌の後半部分では現在の新潟市域の地形段彩図や、明治期(23年、24年、33年、34年、44年)、大正期(2年、10年、13年)、昭和期(6年、12年、20年、35年、43年、58年)、平成期(15年、16年、19年)の地形図及び航空写真が掲載されており新潟市域の土地の変遷を見る事ができます。
元々歴史が好きな僕としては、地図を眺めているだけでも歴史の遷り変りを見る事ができて何時間でも悶々としていられるのですが(笑)、特に興味深いのがアメリカ公文書館所蔵の昭和20年5月25日に撮影された米軍撮影空中写真で、旧新潟市域を写真に収めたものです。昭和20年5月25日という時期的にも原爆投下候補地の一つとなっていた新潟市の地形把握などの為に撮影されたものではないかと思います。そういった歴史的な視点で見ても大変貴重で興味深い写真ですね。ちなみに、広島、長崎、小倉と並んで原爆投下の最終候補地となっていた新潟市は8月10日付に【原爆疎開】の知事布告が発表され、8月14日頃まで新潟市内は殆ど無人に近い状態になっていたようです(布告の解除は8月17日)。この都市部における【原爆疎開】というのは今日においても史上唯一の例だそうです。
戦争以外の視点でこの昭和20年撮影の新潟市域の写真を見ますと、新潟市の関屋地区(現在の中央区信濃町、浜浦町、文京町と呼ばれる地域)に、かつての新潟競馬場がはっきりと写っているのが確認できます。新潟競馬場は昭和39年に関屋分水路開削工事の着工による立ち退き住民の代替地捻出のために廃止され、現在の新潟市北区笹山(旧豊栄市)に移転し現在に至ります。ちなみに夏の中央競馬新潟開催の際に新潟競馬場で行われる重賞競走(GⅢ)【関屋記念】は、かつて新潟競馬場が関屋地区に在った事に由来するものです。
そして前述の関屋分水路ですが、信濃川下流域の洪水対策として大河津分水路に次ぐ2つ目の分水路として着工し、昭和47年8月に通水します。昭和20年の航空写真を見ますと、旧新潟競馬場のすぐ西側に小さな河川のようなものが確認できますが、これは明治42年に坂井輪郷の排水を日本海へ流すために開削された【関屋掘割】と呼ばれる堀で、この「地図中心」に掲載されている明治44年の地図にも既に競馬場と共に載っているのが確認できます。関屋分水路はこの関屋掘割とほぼ同じルートで開削されており、関屋分水路通水によって関屋地区を始めとする信濃川下流域左岸地域は北側を日本海、東側を信濃川、南西側を関屋分水路で分断された地形へと変化した事により「島」の形状となった事から、これ以降【新潟島(にいがたじま)】と呼ばれるようになり今日に至ります。
こんな風に、自分が生まれ育ち現在も暮らす地域の土地の遷り変りを見るというのは、歴史を学ぶうえでは一番身近で取っつき易いので、歴史好きなおじさんとしては歴史に興味を持つ少年少女諸君に是非ともお薦めしたい雑誌ですね(笑)。歴史が好きで尚且つ鉄道も好きな僕としては、新潟市内の鉄道路線網の変遷なんてテーマで悶々とするのも大変お薦めなんですが、これはまた次の機会に当ブログで取り上げてみたいと思います(笑)。

通称【新潟島】の様子。
画像左側に見える日本海へ一直線に注ぐ河川が関屋分水路。この分水路の通水によって信濃川左岸下流域の新潟市街地が『島』となっているのが分かります。
Posted at 2023/01/02 20:04:17 | |
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