
1月24日発売のデアゴスティーニの隔週刊「第二次世界大戦 傑作機コレクション」vol.26、中島 九七式戦闘機(キ27)です。前号の二式戦「鐘馗」に続いて今回も日本陸軍機ですね。九七式戦闘機(以下、九七戦)と言えば、日本帝国陸軍にとって初めてとなる全金属製低翼単葉の戦闘機として知られ、日米開戦以前の昭和10年代前半に於けるソ連軍との軍事衝突「ノモンハン事件」などではその運動性能の高さを発揮したと言われます。
昭和10年(1935年)、海軍機として三菱重工が全金属製低翼単葉の九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)の開発に成功した事により、日本の軍用機もこれまでの複葉機から単葉機の時代へと一気に移っていく事になり、陸軍でも新型戦闘機の開発を進める事になります。当初、陸軍は海軍の了承のもと、三菱の開発した九試単戦を陸軍用に改修したものを発注し、「キ18」として審査を行いました。しかしながら、結果的にはエンジンに不満を挙げて不採用となり、代わりに複葉機の川崎航空機製、九五式戦闘機(キ10)が制式採用される事になります。しかしながら、もはや時代は複葉機の時代ではなく、改めて新型戦闘機の開発を行う事となり、昭和11年4月に三菱重工、中島飛行機、川崎航空機の3社に低翼単葉機の試作を指示しました。
このうち、三菱は九試単戦を陸軍仕様に改造したもの「キ33」、川崎はV型12気筒の液冷エンジンを搭載した「キ28」をそれぞれ陸軍に提案しましたが、最終的に中島が試作、提案した「キ27」が昭和12年(皇紀2597年)に制式採用され、九七式戦闘機として運用が開始されます。各メーカーへの試作機発注の指示から九七戦の制式採用までの間、中国大陸では盧溝橋事件などが起こり、日中間が非常に緊迫してきた状況でもあった為、陸軍としても新型戦闘機の戦線投入を急ぐ状況でした。
九五戦の後継機として運用が開始された九七戦は、日中戦争での中国空軍との戦闘で敵機を圧倒し、昭和14年にはソ連軍のI‐153やI‐16といった戦闘機とモンゴル上空で格闘戦で圧倒するなど、大きな戦果を挙げる事に成功します(第1次ノモンハン航空戦)。しかしながら、この時期の航空機の技術進歩はめざましく、更にはソ連軍による九七戦の攻略によって次第に陳腐化していき、日米開戦を迎える昭和16年頃には技術面でも性能面でも旧態依然の戦闘機となってしまい、後継機の一式戦「隼」に置換えられていく事となり、その後は練習機や特攻機として運用されました。制式採用された昭和10年代前半に軽戦闘機を評価するうえで重要視される旋回性能を如何なく発揮した九七戦でしたが、世界情勢の移り変りと当時の技術進歩の早さによって、九七戦が輝ける事ができた時間は短いものでした。しかしながら、中島飛行機の設計陣が設計したこの九七戦がなければ一式戦「隼」や二式戦「鐘馗」、四式戦「疾風」も生み出すことは出来なかった訳ですから、陸軍の戦闘機における最大の傑作機とは、この九七戦の事なのかもしれませんね。
機体的特徴としては、後に登場する一式戦「隼」よりも機体がだいぶ小型であり、エンジンは中島製「ハ1乙」空冷星型9気筒、710hp(海軍名 : 寿)が搭載されており、最高速度は468km/hでした。全金属製低翼単葉機ではありましたが、主脚は固定脚が採用され、照準器はキャノピーから突出した単眼鏡仕様のもの、プロペラは固定ピッチの2枚ブレードのものがそれぞれ採用されており、昭和10年代前半の発展途上的な部分もあちこちに見る事ができます。ちなみに九七戦の固定ピッチの2枚ブレードプロペラの開発、製造は日本楽器製造(現・ヤマハ)によるものです。
まぁ…こうして九七戦をまじまじと見ますと、大東亜戦争後期に登場する四式戦「疾風」に至るまで中島飛行機の造る戦闘機の基本的な設計思想がブレていない事が前緑直線翼(直線テーパー翼)の機体形状からもよく分かりますね~。フラップ部分の「ノルナ」の表記が良い味出してます(笑)。
Posted at 2017/01/26 22:37:05 | |
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