創造的な意欲が高ければ高いほど、いつまで経っても理想は実力の上を行く。
肉体的なものがそれを支えているのならなおさらに。
一般的に、あらゆる創作活動は、道楽でない限りは費用対効果の経済学で語られる。
なぜなら、命の時間にはコストが掛かる。存在コストより何倍かのリターンが無ければ、吸収と睡眠の時間を加味すると、結局労働時間の8時間で24時間の呼吸を支えなければならない理屈だ。
「これで行こう!」ととある決定権限者か、推進役が仕切らなければ、創作者は何時まででも手を加える。 一方で、創作者は頂点と気が付かず、通り過ぎて振り返ることもある。
「あれ?、なってこったい、そこじゃなかった!」とかね。
工業的なものは、99%が物理的なもので答えは有る。しかし感性的なもの、生物的な創造は、化学的で、あいまいだが再現性のあるもの。にも関わらず、一瞬の交点であるため、引き返せないことが大半だ。人間の心模様と似ている。
車に限らず工業製品の、それも様々な要素部品、装置の集合体となる大規模な機械になれば、良いところも、もう一つのところも、総合的な品質をクリア出来ていれば、一応合格。
しかし、自動車ほど、その機械レベルの高さと一般大衆の嗜好で選別される商品は無いと思う。故に最近問題と思うようになった点を述べてみたい。
<費用対効果>
私の好きな自動車達でも、技術的価値の方向性にはメーカなり、車種なりの方向性がある。しかしその展開される技術には、たまたま優秀な技術者がひらめいた!、という事が有っても、99%はプロジェクトの方針、商品性の方向性に合致したものだけが拾われて、うまく行けば日の目を見て、市場の評価を仰ぐことになる。つまり、世に知られず埋もれているすごいものもたくさんあるはず。
さて、と言っても例外を除けば理論的に費用対効果を必死で見ているのはマーケティングや企画の者であり、市場のユーザ目線で見ている「自動車評論家」は少ない。かく言う私も10年ぐらい前なら、個人的嗜好や、オタク目線でのプライオリティで、評価している点が多々あった。しかしながら、今の自動車が走る(使われる)環境で、重要な優先順位は随分と激変した。そのことを踏まえない評価には、化石ジジイ(それはそれでうるわしいよもやま話は楽しいのだけれど)のたわごとになってしまう。
「走る、曲がる、止まる」の基本的品質で、ここまで出来れば十分カモ、、、と言う車が大衆レベルで実現できたのが私の場合は15年前。レガシィ3.0RのBLEを得た時だ。この車でほぼ、車に私が欲しいと思う90%は叶えられていたように思う。若干の静けさ遮音UPと、後席の乗り心地、一番は燃費と税金w。しかし今、もう一度、ブラッシュアップされた新品が同じ値段で販売されるなら、追従クルコンさえ備えていたらまた買ったと思う。
それぐらい、基礎点では、もう満足していたのだ。そこからの15年間。何が進歩したのか、何が消費者の求めたニーズだったのか?。
①エコエコ燃費。
②衝突安全、運転アシスト
③車内の快適性(リッチな内装?)
この3つにコストを集中して開発されて来た。その出来栄えに対して、市場は評価し、売れ行きが左右されたことは間違いない。その中身に素直な評価としてジャーナリズムは伝えて来ただろうか?。確かに、車の基礎点で順位差はある。自動車評論家として操安に一言いたい個体も有るだろう、しかしそれが「危険」だったり「買うやつはアホだ」と言われるほどの差は無いと思う。その上で、①②③の優劣さを評価しただろうか?。まさにここがユーザがメディア不振に思う評価の差だったと思う。
カタログ燃費に対して、実用燃費の差を実証した記事が有ったかな?。
その燃費力とドライバビリティを対比して評価したかな?。
衝突安全は難しいとしても軽自動車に普通車をぶつけた衝突安全評価があったかな?。
アイサイトが他をリードしていた時、大いにメーカの優劣が付いた時期が有ったが、一番遅れた大手メーカが追い付くまで、喧伝された記事は無かったように思う。
さらに衝突軽減ブレーキの各社の弱点をさらした記事があったかな?。
③は、ユーザの主観的嗜好もあるが、ディーラに行けばばれてしまう所でもあり、余りひいきには書きづらい、オプションやグレード違いでごまかして、「エンドユーザ価」できちんと評価した記事は余りなかったように思う。
コスト無視した輸入車と国産車の「絶対評価」。そのコスト差を分解して、機能割付けした記事が有っただろうか?。3年後の維持費、消耗品予想、サービスパッケージのお得度合いなど、横並びして見るだけでも有難いだろうに。
これらを横に置いて、相変わらず車の「基礎点」にこだわって論評するのも悪いわけではない。しかしもはや一般の試乗程度では差異はわからないだろう。それは不幸かどうかは本人次第。ただ、特定の場面でそれが有るのなら、その条件を提示し、ユーザに取捨させればよい。評論家が言えるのは、「私の好みではない」との主観評価止まりだろう。
一方で、メーカが力をこめて喧伝したい部分は、メーカ間の条件を揃えた比較評価でモノを言うべきだろう。渡された能書きを写すだけなら、バイトでもいい。
ちょっと脱線したけれど、言いたい論旨はこうなのだ。日本のものづくりは基本追及の職人気質が現場には多い。だがそれをそのままにしておくと対ユーザの望む費用対効果の分配が上手く行かない。基礎点は愚直にコツコツ磨いてゆけばいいが、カタログに踊る、分かりやすいセールスポイントには、コストを掛けるべきなのだ。問題はその掛け方がキチンと見返りのある技術に消化されているのか?、中途半端な〇×比較で「同等」とするためだけの装備やオプション化ではないのか?、と評価してもらいたい。
そうでなければ、新興国の自動車や、部品寄せ集めの電気自動車を作るメーカに「表面的な商品力」で同等とみなされ、結果としてメーカの収益を減らし、コツコツと愚直に磨く「基礎点」の高いメーカや車種が滅んでしまうのだ。(間違っても、表面的な目に付きやすい媚びた機能を評価しろと言っているのではありません:某国製みたいな目に付くところは「同等」で安いw)
一番の問題は、消費者にメーカの将来を憂うような「ファン」を囲えているのか、また先導を任せられる論評や核たる評価軸を持った評論家が乏しいことだろう。メーカもまた、キチンと技術を防御し、安易にまねされた時、「同じじゃん!」と言わせない論点をアピールできるように評論家と一緒に真贋を磨く力を持つべきだが、実際はスポンサーのお金には逆らえないのかもしれない。だからこそ。その筆に「揺らぎ」を持たれるような記事は慎重であるべきなのだ。
例えば基礎点の「技術力」はモータスポーツの世界にあった。もちろん直結では無くても、その「性能評価」が出来る人材が有ることは間違いなかった。が、その「走る・曲がる・止まる」の差異が縮まり、一般の外から見える車の技術力の客観評価がわからなくなった。
だから、衝突安全回避能力レースだったり、省燃費ラリーだったり、「速度」に代わる評価軸の可視化を「公平」に出来ないのかと思う。公平と言うのは「コスト」をキチンと評価すること。そうすれば、「ぼったくり」なのか、「コストをかけた場所」なのか、生産技術が下手なのか?違いがわかるだろう。
そして一番危惧するところが、「基礎点」が一般人には差異が付かないほど、車のレベルが上がった事だ。品質管理をかじった人なら、パレート図はよく知っているでしょう。
BをAレベルの目標品質に上げる場合、最初の3,4点の改善で80%ぐらいが達成できる。しかしそこからの10%は倍の改善が倍のコストが必要になる。 しかし、ユーザはBがAに80%良くなったことは誰でも実感できるが、80から90に上がった10%はわかる人にしかわからない。評価されないのだ。
理想家は、「スタートを決めるのは自分自身だが、終わりを決めるのは自分ではない。」
職人気質、芸術家肌の理想家は素晴らしいが、商業の世界では、破産してしまう。
どこで見切って、何を捨てるか。その決断もまた評価すべき点だ。
真面目な技術と努力をしている企業や車を、キチンとわかるようにアピールし、そうではない部分や、メーカが目をつぶった部分を表に出して、「コストと商品力の配分」に対してユーザが評価できるように解析した記事を書いてほしい。その理由は、そういうメーカが生き残ってほしいからだ。今のままだと、日本のものづくりは危うい。100均の商品と差がわからないプロパガンダまみれとなる。
そういう意味で、ユーザや評価する側の人間が、「ここまでやれば十分だ」というストップもかけてほしい。そして「今、力を入れるべきは○○だ」と言えればいいのだが、そここそがプロパガンダの餌食で、「EVだ」「自動運転だ」と言っている。ホントにそうか?。
今日の文章は、うまくまとまっていない、悪しからず<(_ _)>