平城京跡南の郊外にある奈良県大和郡山市の南六条北ミノ遺跡で、奈良時代(8世紀)に計画的に整備された畑の跡とみられる遺構を、県立橿原考古学研究所が確認した。南北35メートル、東西60メートルの広範囲に多数の溝が規則正しく掘られていた。平城京跡周辺で大規模な耕作地の跡が見つかった例はなく、同研究所は「都人の暮らしを支えた食糧供給体制の一端を明らかにする発見」としている。
同研究所によると、調査地は平城京南端の羅城門跡の南約2キロ。8世紀前半~中頃に、東西方向の溝(幅30~40センチ、深さ約20センチ)を多数掘り、その後に南北方向の溝(同)を3メートル間隔で作っていたことがわかった。
東西方向の溝は開墾した跡、南北方向の溝は畝を設けるために掘った跡とみられる。都に近い立地や規模の大きさから、国営か、藤原氏ら有力者が営んでいた農地との見方が有力だ。
栄原永遠男とわお・大阪市立大名誉教授(古代史)は「長屋王家木簡には、奈良盆地各地から平城京の長屋王邸に野菜が運ばれていたことが書かれており、そうした実態を裏付ける証拠になるかもしれない。非常に重要な遺跡だ」と指摘する。
畑には、碁盤の目のように整える古代の耕地区画法・条里制の痕跡がうかがえるという。条里制は奈良時代、全国的に施行されたが、奈良盆地では明確な痕跡が見つからず、中世に始まったとみられていた。
奈良時代の平城京の人口は、推定約10万人。同研究所は「食糧が都にどのように供給されていたのかは不明だったが、今回の調査で都のすぐ近くに大規模生産地があったことが判明した」としている。
平城京跡などで出土した木簡や文献には、アワやキビ、ヒエなどの雑穀、大豆や小豆などの豆類、大根、里芋、ウリなどの野菜の名が記されており、今回見つかった畑でも栽培されていた可能性がある。
田辺征夫いくお・奈良県立大特任教授(考古学)は「収穫された作物は役人らに支給されたのか、市で売られたのか。階層によって食べ物が異なっており、誰が食べたかも興味深い」と話す。
調査地は埋め戻されており、現地説明会はない。
和田萃あつむ・京都教育大名誉教授(古代史)の話「この時期、平城京の南部がどうなっていたのかは記録がない。条里制に関わる初の発見ではないか。奈良盆地全体を計画的に土地利用していたことを知る手がかりになる」
南六条北ミノ遺跡 西名阪道と京奈和道を結ぶジャンクション建設に伴う発掘調査が2012年度などに行われ、縄文時代~平安時代の川の跡や建物跡などが出土した。西側を古代の幹線道路「下ツ道(しもつみち)」の跡が通る。
(2013年4月24日 読売新聞)
奈良は、田舎で日本の原風景が残っていていいよね。
平城宮跡に行ったときに、鳥の鳴き声を聞いてそう思った。
※2020年4月 奈良に行った時の写真追加
Posted at 2013/04/24 13:51:08 | |
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