2018年秋の熱川温泉、ジープとともに、
温泉に入って「遠い遠い」とクレームを頂いたドライブの疲れを癒します。
春ごろから顧客満足および競争優位性確立のため品質向上を軸にして足場固めをしてきた中に、加えて副次的に事実上の参入障壁が高まり、
各所まずは西日本が先行して組織化を整え、各所の責任者MTGも雰囲気がよいらしくこれの維持に努め、品質については中長期的に自然と向上していく仕組みとなり、
遅れて東日本でも各所の組織化が進み、責任者の会議体もスタートできる運びになってきたものの、とある部門の関東統括責任者の人選がまだ緩い状況です。他方、近畿は営業力の強化、中京東海はマネジメント力の強化がそれぞれ課題です。
いずれにいたしましても、固まってきた足場の効果成果が目に見えてきたことにより、再ブスートをかけていき、また来春から来夏ごろに足場固めや客先間口を広げて行くのか、
という段取りになっていくのかもしれませんが、
1年前のこの頃は、今のビジネスを立ち上げて1年と三か月頃か、すでに300名を超えた組織になっていた頃です。我が子よりも若いこの会社、我が子換算すれば年少の初夏に準備を始め同年晩夏に立ち上げ、年中もぐいぐい成長し、年長で足場固めに勤しんできた思い出となっていくことになります。
すなわち最近たる2019年10月は創業から丸二年三か月ほど経過し、三年目を数えるようになりますが、まだ三年目に入ったばかりながら日々足りない知能の疲労のせいかだいぶ長くやっているような感覚にもなってきます。
あっという間でありつつも、もう三年目、まだ三年目。
先週末は東西会議のあとに、飲みでしたが、久しぶりに日本酒にも手を出して、ジョギングの成果か、少しずつまたお酒が飲めるようになってきました。
ゴミクソカス「やれ。早くやれ」「なんでやらないんだ、やれ」「給与はらってんだ、仕事しろ、すぐやれ」という暴君的命令形の組織は非常に安易な運営スタイルに思い、楽といえば楽に思いますが、しかしその中で働く人は楽しくなく、つまりは人生がつまらなくなりがちにも思います。比して根底から一気通貫で「お願い申し上げます。」という運営スタイルの組織または経営はけして楽ではない独自の難しさがあるのではないかとも感じなくもありません。
たとえば個人的言動のレイヤーで言いますと、同じように怒って物事を変えていく生き方は即時的突破力に優れていつつも安直的であり、他方相手が誰であろうとどのような状況であろうと「お願い申し上げます。」という生き方はお願いしやって頂いているのですから待っている間の時間がかかったり、尊敬する人にどう業務を依頼し、あるいはさらに注文をお願いするべきなのか、尊敬と遠慮は違い、つまりは尊厳と個性を尊重しながら仕事に遠慮は無用をどう高度にバランスを取っていくのか、
はたまた敬意を強く持った礼儀正しい対話とフレンドリーな対話というものは、前者は距離が縮まりにくく、後者は距離が縮めやすいく、という視点でも「お願い申し上げます。」というスタイルでは距離が縮めにくいままどう信頼関係を深め距離感を縮めていくのか、というような難しさもあると言ってもいいかもしれません。
我慢することなく「お願い申し上げます。」とすれば何らのストレスにならず、感謝と敬意で心も埋まっていくように思いますが、我慢して「お願い申し上げます。」を通していくとそれは比例してストレスも溜っていくことになり運用の限界が来てしまいますので、
運営する側の方向性や特性によっては相性が悪いスタイルということにもなろうかと思います。「お願い申し上げます。」と運営していくスタイルの根本に求められるもの、あるいは親和性が高い価値観は、「一人ひとりの尊重」「個性の尊重」かのようにも感じています。
つまりは個性を尊重するマインドとスキルの錬磨なくして「お願い申し上げますシステム」を稼働させていくとゆがみが大きくなり運用が続かないようにも感じています。
個性を尊重し、敬意を持ち、尊敬し、感謝し、人と人はどのような関係、場合、立場に能力であっても対等であり、相手が何かをわざわざしてくれればそれはして下さったと思い御礼とお願いは申し上げ、
強制はすることなくしかしこのような下地を作っていこうとも、また色々な人が個性を持って集まり仕事し、人間関係を日々繋ぎ、描かれていく人的トラフィックのドラマに下地が見えなくなるほどだと思いますが、
仕事という生きていくに多大な時間とエネルギーを割いていくことに、一人でも活き活きと楽しく繋がっていく環境となることを期して個性を尊重する下地をクリア塗装まで目指して引き続き敷いてみていきたいと考えています。
昭和の香りにリラックスを覚え、この日は社の仕組み作りに何かアイディアが出た日だったように記憶しています。
過去に経営してきた社を合わせ、その会社ごとに感覚値が生まれ、売り上げに利益、大台に乗り喜び、称えていたのが、大台から着実にさらに進み始めていても当たり前の数字になり、物足りなくなり、小さく感じるようになり、まるで新卒で手にした感動の給与が、あっという間に極僅かに思うようになり、年収1,000万に達した感慨など忘れるかのごとくに、つまりはそれが月収でも同じに思いますが、業績についてもこれらに似ているのかもしれないとも思い、
前年同月比、あるいは前月比、業績が伸びても当たり前に感じるか物足りなく感じてしまい、維持の場合でもあっても前月と同等の業務量を回してもらっており当たり前でなく業績が伸びているのであればなおさらにと心得て、有難いことであり感謝を忘れないようにしないといけないと自らに言い聞かせていかねばなりません。
何度か記して来ていますが、
今のビジネスを始めて強烈にセンセーショナルだったことは、ときに社長や経営者として人材という要素をときに俯瞰しときに深い対話を重ねそれらを幾多も重ねという経験を積んできてという要素が、これは私の場合不可欠あってのことですが、
現社を創業し有難いことに多大な応募を頂戴し、10ヵ月ほどで概算を数えてみれば600乃至800名、一件一件衰えることない誠意で対応しながら一人ずつ丁寧に自から面接しましたが、400名ほどを面接したあたりで、
少し大人の階段を登って冷静に人というものを見てみれば、
「世の中にはこんなにも発達障害の人がいるのか。気づかなかった」ということを思った日がありました。
「いや、ちょっと待てよ。自分もそうじゃないか」とよくよく考え、
「いや待てよ、あいつも思ってみればそんな節があるな」と昔を思い返したり、大手企業に勤める「あの人はかなりだな、昔は加味されない要素だったから案外多い」と思ったり、「親も含め団塊の世代以上は「重」がつくその傾向」を感じ、「いやいやいや世の中のすべての人がこれはもう一人ひとり別々に発達障害の要素を持っていて、あとはその軽重なだけではないか」とも思うようになりました。
このような視点を持つようになってから、若い時であれば腹を立てていた「どうしてこの人はそんなことを言うのだろう」「どうしていい歳してこれが分からないのだろう」「どうして人の心のそこが分からないのだろう」「どうしてそんな痛い会話をするのだろう」「どうして自分のことしか考えられず、何も気が付かないのだろう」「どうして大人なのにこのことを考えないのだろう」など「どうして、どうして」と思っていたようなことが、
「あぁこの方も人間関係に苦しんでいる」「この方もどう人間関係をうまくやるかに腐心している」「このおじさんは特段にどうしたらいいのか分からず一所懸命」と人間関係の腐心が見えるようになり、あるいは私の中で翻訳されて見えるようになり、このときは「動画撮って」と自分で頭を洗うところを監督兼主役の指示で撮影し、
部屋に戻ってまたお風呂ですが、「この人も一生懸命に生きている」と「あぁこのおねえさんも」「あぁこのおにいちゃんも」「あぁこの人は特段に人とうまくやれず特段に苦しんで生きているな」と見えるようになり、あるいは「あぁこの人は今絶好調に調子に乗っているから何も見えなていないな」と思ったり、
仕事がうまくいかない人をみれば、同じく若い頃は「このバカが」「無能が」「無能なくせして意見をいうな、勉強してまともに考えて、いや本来は考え抜いて最低限その努力をしてからものをいえ無能なんだから、とはいえ勉強する頭もないであろうが」「いい年してこんなこともできないのか」「50歳になって言葉も知らない?そんな長いこと母国語使ってきて言葉知らないなんていう言い訳が通ると思っているバカ」と、このような感じで思い、ときに言い放ち、という時期もあり、「なぜこんなことができないんだ」「にもかかわらずさした努力もしないくせに不平不満の無駄口ばかりたたきやがって」「そしてそのような大人が多い、実に多い、しかも皆一様に偉そう」と不思議な思いに包まれ、悶々とした怒りも沸々と持っていたように思いますが、
やがて歳を重ねて「仕事ができるとかできないとか関係なく、皆偉そうにしたいものであり、それが尊厳であり、人らしい生き方であり」世の中はそのようなものなんだと等身大で受け止めるようになり、つまりは社会への理解が一歩進み、あるいは今は仕事がうまくいかない人をみれば「その人の個性」と思い、「この人は何が得意だろう」「どんな特性だろう」と考え「得意な要素が活かせる仕事はなんだろう」と考えるようになりました。
他方で、同じ要素でも、若い頃であれば「この人にこれはできない」と感じ判断していたことが、「この要素を持っていても、持って生まれた別のこの要素を活かせば、このままこの仕事でも花開くどころか、むしろスーパーマン的に特異的な存在になるように活かせるのが見える」「もったいない」と思うようにもなりました。
あるいはおっとりした人、マイワールドどっぷり人でもあっても、隠れたるやる気や、日々活き活きとしたい欲求、人によっては仕事に対する貪欲さを根底にもっている場合もあり、それを感じるようになりました。多くの場合「役立っている感」をしっかりと実感さえすれば、それだけでかなり活き活きするようにも思うようになりました。ナチュラルなやり方で活き活きとした毎日。それを感じたときは私も大きく満たされたような気持になるようになりました。
本を読むわけでもない、いや恐らくは活字が苦手で読むのが特段に辛く向いていない、従って知識のインストールが際立って少ない、論理として考え判断することに向いておらず感覚的または感情的に判断し、「普通相手を思えばそんなこと引かれてしまって聞かないだろう」という突拍子もないまたは失礼な質問をしてしまう、他に言い方あるだろうにという中年の方がいたとして、
「この個性をどうしたら活かせるだろう」と考え、二度目の異動でうまく行っていたところに、新しく入ってきた方と反りが合わず相性が悪く、ストレスの日々なのか、
三度目の異動で際立って楽しい毎日になったらしく、仕事も合っているようで、今のところ順調そうですが、
ということもあり、
この方の場合は、特段に情報を収集する能力に長けていると思われ、細目について社の情報を持っており、主題に対して愚痴や不満をメインテーマに不要な情景が異常なほど細かく3分で終わる話が1時間と話は長いがじっくり聞いて差し上げれば貴重な社にとっての課題解決方法を持っており、何度もやり取りしていると要点だけ整理して伝えてくれるようにもなり、いや実は細かい情景の中にヒントや答えがあることもあり、そういえば記していて気づきましたが最近は思ってみれば不思議なほど愚痴や不満も聞かなくなり、
他方とにかく際立って綺麗好きの整理整頓上手でもあり、これは職場の物質面だけでなけでなく、情報やデータについても同じで、社の見えにくいデータをまとめてくれているので知りたいときはこの方に聞きたいと、私にとっても貴重な情報源であり、とにかくよく見ている感受性も頼りにしており、
あるいはこの方は、ある日のランチで「過去にいい思い出がなく、過去の連絡先はすべて消してある」と発言をしたことがあるのですが、意味するところはそれだけ人間関係というものが苦手であり、
それだけ苦しんで生きているということであり、周りが大変なときがあると思いますが、本人が最も苦しんで生きているとも思い、
言葉や生き方、年齢と関係あると若いときは思っていましたが、それは持って生まれたものであり、年を重ねれば指の使い方が上手になる一方かどうか、それは指を持って生まれていなければありえないわけですが、人は見えにくいものだと異なるように考えがちかと思うところ、内面性だと「なんでできないんだ」と憤ってしまいがちで、
あるいは私は不器用さを持って生まれたと思っておりますが、不器用さは年と共に先鋭化され、「苦手なことに取り組む耐性」も気力体力の低下とパラレルに落ちて、正確にいえば老眼により「そもそも見て認識するだけのことに集中力の多くを使うようになり」つまりは合わせて不器用さが増していき、細かい作業をするときの内心は「どうしてその指そう動く?おいおい君、そこの指どうして思った通り動かない?どうしてこんなに不器用なんだ俺は」と思うのですが、恐らくは骨格や筋肉の起因というよりも、指を動かす神経回路および伝達物質やその受容体が弱い構造に脳がなっており、つまりは不器用さも頭が悪い一種であるところ、
細かい作業を繰り返したりトレーニング的に弱点を平均点ぐらいまではもっていけれるとも思いますが、そんなことに取り組んでも結局平均点前後までしかいけず、これは器用界において競争力として何の意味ももたず、食べていくことに苦労すらするレベルに思い、
何ら、またはほとんど努力をしなくとも平均点ぐらいは取れる得意な分野を先鋭化すれば、楽々と平均点を大きく上回るところに当該能力を持っていくことができるのであり、あるいは好きなことは頼まれなくともするのであり、
得意なことをしているゆえに、原則楽しく、例外的に県大会から全国大会へかのようにステージがあがれば「得意な分野が通用しない」とショックが大きいときもありますがしかしそれは糧にして、そうやって能力を伸ばすことも概ね苦痛ではなく、
弱点を伸ばすよりも、長所を伸ばす方が概して楽々にテストでいえば90点台に持っていくことができ、つまり楽して競争力をつけやすく、
これが長所を伸ばすべきか、短所を克服して伸ばすべきかというテーマ、その答えの一つなのではないかと思わなくもありません。
が、上記の答えでは解決できない場合もあるので、それはまた記述したいと思いますが、
このように考える前に、芸術方面たる絵や音楽、あるいは手先を使う何らかの製作、じっとして単純な作業を繰り返すことは発狂しそうになるのでこれも苦手分野であり、立ちっぱなしもどうやら疲労が平均よりも著しく大きく、筋力も飛びぬけた方にはまったく勝てる気がしなく、
そう思った青年期があり、自分が勝負できるステージどころか、近づく資格すらないと悟り、
苦手な分野で勝負をしよう、戦える、やってみたい、と思わなかったことは一つ好材料だったのではないかと年を重ねて総括しても思うところです。
「パパに議論で勝てるようになりたい?」「なりたい」「絶対に勝てるようになる方法があるよ、知りたい?」「知りたい」
「本を700冊読めば、絶対に勝てるようになるよ」「えぇ~ななひゃくさつ!?千冊でもいいの?」「どこでその本買ったの?」「Aちゃんが買う本もAちゃんの子供に読ませていいの?」「学校終わってから読むの?」「でもまだ漢字読めないからなぁ」などと会話しながら、まずは700冊で設定してみました。そのうち学術書レベルでも1日1冊読めれるようになりますから、辞書で字を調べたりはじめてのことは理解するのにも時間がかかり等暖機期間合わせ最短3年程度で終わる計算ですが、小学校4年生ぐらいからのスタートを目指し大学卒業頃までと考えれば、ゆっくり進みたいと思います。
基本は経営について教えていくことを軸として考えているところ、文系教育の際たるだめなところは通り一辺倒な座学ばかりでかつ日本では議論もないに等しい中に、あるいは勉強をさしてしていない知識量同士の議論とは呼べない議論が横行していると思われるところに、日常的恒常的実験を伴わないところだと思っていますが、
読んだ知識を議論もして、そして何より即座に毎度、豪傑に実験をしていってもらいたく、
過去現在と社員氏にもその環境を提供しているつもりであり、私も特に20代の頃は経営をしているという認識はなく、経営の実験をしているという認識の自称「経営ヲタク」のセルフイメージですが、我が子の場合はさらに実験を強く促す環境として、
知識+実験をセットで取り組んでいってもらいたく考えています。
経営の実験とは、ときに人の心であったり、マーケティングの実験であったり、
心理学さらにはたとえば色彩心理学の実験をすることは人間の視覚認識を学んだり、
人や人生とはなんぞやと考えてみたり、
源流に上流、下流を知ってみたり、お金とはを学んでみたり、諸外国はどうなっているんだろうと調べてみたり、ときには視察にいったり、はたまた実に無数級にある会社の中で興味あるところをとことん調べてみたり、信用や信頼とはなんだろうと考えてみたり、
社会をほんの僅か一つずつピースとして理解を進めてみたり、
あるいは組織が陥りやすい動静を学んでみたり、もしくはその前に組織のデザインなど社会人になって10年20年経ってからやっと触らせてもらることかもしれませんが、自分で会社を作り雇用をすれば10代20代でゼロから実験できるところ、これをもっと幼いときからしっかりと監修しながら体感もさせてみようと思っていますが、
当該事業のプロパーを知り、事業の数だけえせ専門知識は増え実体をを知り、あるいは業界の特性や業界で仕事する人の属性の違いを知ったり、もしくは逆に共通項を見つけたり、
そしてたくさんの無駄な取り組みを通じて「何が無駄で、何が本当に必要なエッセンスなのか」なども、
これらを体で理解していきながら、実に広範に学んでいくことでもあると考えています。実験。
つづく